夏休みチャレンジスクール

地元の永野小学校で、夏休みチャレンジスクール・「坐禅にチャレンジしてみよう」が開催されました。
体育館で小学生、父母の皆さんを対象にした坐禅教室です。

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21日は外は暑さ厳しい1日でしたが、体育館の中は窓から入る風が心地よく、快適に坐禅を行う事が出来ました。
2チュウをきっちりと坐り、「没すること」の何かを会得してくれたものと確信しています。

なお、昨年の様子はこちらです。
http://teishoin.net/blog/000184.html


チャレンジスクールの後、校長室にご招待いただき、先生がたとお話をさせていただきました。

蛇足ですが、校長室には永谷の地に縁深い、勝海舟揮毫による「永谷学校」の扁額も掲げてあります。

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【由来が紹介されている新聞記事 (平成元年4月8日・神奈川新聞)】

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幕末、維新の英傑・勝海舟が亡くなってちょうど90年になるが、横浜市港南区上永谷、市立永軒小学校では、珍しい海舟の揮毫が大切に保管されている。ちょうど110年前の明治12年4月10日に、永野小の前身の永谷学校が新築された際、海舟の家臣で、永谷地区で教鞭を勤めた平野玉城からの要請で「永谷学校」としたため、贈ったものとされている。

 海舟は文政6年(1823年)に江戸に生まれ、幕府の軍艦操練所の教師方頭取などを務める一方、遣米使節として咸臨丸で米国に渡った。明治維新では幕府の重臣として江戸城の無血開城を行い、明治政府の海軍卿などを務めた。明治32年1月21日に亡くなっている。
 「永谷学校」の揮毫は扁額として贈られたもので絹の布にダイナミックな字でしたためられている。
縦35センチ、横120センチ大。
同校ではすっと校長室に掲げて大切に保管している。
 永野小は、明治10年に設けられた野庭学校と、同12年4月10日に設けられた永谷学校が合併して明治25年11月に現在地に開校した。
 海舟の揮毫については地元の貞昌院の住職で、昭和9年9月から26年8月まで、第七代の永野小校長を務めた故・亀野寛量さんが、学校や地元に残る資料を拳に、その由来を同校の創立八十年誌に書いている。
 それによると明治元年2月、海舟の家来で彰義隊にいた平野玉城が官軍に追われ永谷の名主にかくまってもらった。その後明治8年夏、玉城はお礼に永谷を訊ね、高邁な人格と深慮な学識に関心した住民らの懇願で永谷にととまることになった。
玉城は永谷学校の教員も務め、明治12年に牧舎ができた時の記念として海舟に依頼、したためてもらったとしている。

 貞昌院にも、玉城の息子で、初代の永野小校長だった平野直吉氏が、揮毫してもらい、親しかった故亀野源量氏(寛量氏の父で永野小校長を務めた)に贈った「眼雲」の書が残っている。
 山村校長は、「学校の宝です。日本の近代化に青雲の志をもって当たった人の業績をしのぶ糧にし、その熱意を教育に生かしていくシンボルにしていきたい」と話している。


なお、貞昌院のサイトでも、勝海舟の書に関する記録を掲載しています。
http://teishoin.sakura.ne.jp/nagano/11.html

投稿者: kameno 日時: 2006年8月22日 01:06

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