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「私たちは死んだ後どうなってしまうのか」
「身体と霊魂は同一なのか別なのか」
「この世の中は空間的に無限か有限か」
「時間は無限なのか有限なのか」・・・
科学が発達した現代社会においても、解明されていないことはたくさんあります。
お釈迦さまの時代にも、このような形而上的、観念的な疑問がありました。
けれども、お釈迦さまは「いくら議論し合っても、だれもが納得する答えが得られない問題に悩む時間があるなら、なぜ現実に生きているこの人生の意味について考えてみようとしないのか。必要なことは、世の中のことすべてを正しく見ることのできる眼だ。正しい見方は智慧の眼によって生じる。智慧の眼を養うがよい」と、直接の回答を示していません。これを「無記答」(あるいは「捨置記」)といいます。
死後の世界があるかないか、われわれ人間がいくら考えてもわからないことです。この、わからないことをわからないことだとするのが、わかることです。それがお釈迦さまの言わんとするところです。
私たちは、生は生、死は死であり、この二つは結びつくものではないと考えがちです。
また、普段は死というものを意識することはありません。死んだあとは何も無くなっておしまいでしょ・・・と哲学的諦観でもって開き直っても生きてゆけます。
しかし、病気を患ったり、家族や親しい友人を亡くしたりすると、人間がいかに無力で不安なものかを実感することになります。人間は弱いものです。哲学的諦観だけではやっていけなくなることも多いのです。
今年二月、プロウィンドサーファー飯島夏樹さんがハワイオアフ島にて永眠いたしました。
実は、飯島さんは、私の妻と高校の同期であり、卒業後、ウインドサーフィンで活躍されていることから、凄い人がいるんだよ、とよく話を聞かされていました。
高校当時は水泳部に所属していて、部活が終わると教室で大の字で寝そべってみんなを笑わせていたこと、体育祭の応援団長として率先してみんなの先頭に立っていたこと、そして、クラスの皆にも先生方からもとても親しまれていたこと・・・とにかく、目立って人気者だったそうです。
卒業後は、飯島さんは琉球大学へ進み、マリンスポーツを極めます。その後、各大会で輝かしい成績をのこしました。
そんな順風満帆な生活の中、突然訪れた肝細胞ガンの診断結果を受け、度重なる辛い闘病生活を強いられる中、うつ病とパニック障害を併発してしまいます。
しかし、飯島さんがかねてから備えている心の清らかさ、家族や友人への温かい思いやりは、「悲しみは喜びに変わる」を体現させていきました。そして何より、彼や家族を支えてきたのは、キリスト教への敬虔な信仰心でした。
そのことは、彼の著書 『天国で君に逢えたら』 『神様がくれた涙』 を読むと生々しく伝わってきます。この本は、宗教が、そして信仰が、死と直面する患者に、どのような心の灯を与えることが出来るのかを、私たちに教えてくれるのです。
現在は、確かに医学が発達し、高水準の医療技術によって安全に命が誕生したり、人の死を「先延ばし」することができるようになりました。
けれども、人の生死が「病院の中」という、日常から切り離されたところで行われる、ということが当たり前になってしまいました。非人間的な医療設備と冷たい雰囲気の中で、死に臨むことも珍しくありません。
医療技術の発達が、はたして全ての面で人間に幸せをもたらしているのだろうか、という疑問も生まれます。
欧米のホスピスは「安らかな死を迎えるには」「人間らしい死を迎えるには」という命題に対して、キリスト教の伝統のなかから生まれてきたものです。
日本の伝統仏教の中にも『臨終行儀』のようにホスピスの概念を持つものがあり、『ビハーラ・長岡西病院』などの仏教ターミナル・ケア施設もいくつか生まれました。
仏教も、キリスト教も、「生死」においては相通じる部分が多いのです。
飯島さんの日記にみられる、「生きているのではなく、生かさせていただいている」ということばも、私たちが毎日食事をとるまえに(いろいろな御いのちを)「いただきます」と手を合わせることと共通しています。
「生かさせていただいている」ということに気づき、「生死させられている」事実に眼を見開くことが大切です。
お釈迦さまは、死後の世界について無記答とされました。
死後の世界をあれこれ邪推したり、霊の祟りで脅したりするのは、真の宗教とはいえないし、宗教者の態度ではありません。私たちはしっかりこの人生を生きればいいのです。
そしてしっかりと死ねばいい。そうあきらめるのが仏教の死生観です。
ただし、ここでいう「あきらめ」は「断念」ではなく、「明らめること」です。「生死」は思うがままになるものではないことをしっかりと見極めることが「明らめ」です。
生死のすがたは、そのまま仏の御いのちのすがたなのです。
仏が有るか無いかなどと愚かな事を申してはなりませぬ。
諸仏の体は三千世界に充ちています。仏の心は法界に行き渡っています。私共が合掌低頭する所には、必ずしも木仏画像の仏の相がなくとも、そこに必ず御仏が有るのです。
拝む時に仏が現れるのです。
嶺に響く松の音、空に輝く星の影、天地万物が仏の相であり、一粒の御飯、一椀の汁も頂いて食べる時に、それが仏となるのです。
三世の諸仏とは一切万物であるとも申されましよう。拝む心さえあれば、見る物、聞く物が皆仏であります。
そこで切りつめて言えば拝む心が大切となります。
拝む心が拝まれる仏となるのです。拝まれる仏が拝む心ともなるのです。これを感応道交と申します。
拝む私と、拝まれる仏とが、一つ心の中に合体して居るのです。そうして見る物聞く物を拝む心で眺める。
宗教は私共の日常生活の中に生命を宿しているのです。拝まない人は宗教を談ずる資格がありませぬ。
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧。(大本山永平寺第七十四世 佐藤泰舜禅師のことば)
私は死後の世界を無記答とする考え方が、とても素敵だと思います。
宗教は、心の支えを必要とする人の背中を、そっと撫でる役割であって欲しいですね。
投稿者 あさひ素材 | 2005年7月10日 12:54
「心の支えを必要とする人の背中を、そっと撫でる役割」という表現が良いですね。
「宗教」にどっぷりと遣ってしまう(宗教に振り回される)のではなく、必要なときに必要な役割をさりげなく果たしてくれるという形が理想のような気がします。
投稿者 kameno | 2005年7月11日 12:17
興味あることです。
死んだらどこへ行くのか。
TBさせていただきました
私の父は長年入退院を繰り返しておりました。
喘息で救急車のお世話に数回なりました。
その父が書いた日記の一部です。
投稿者 はじめまして | 2005年7月30日 12:21
はじめましてさん。
コメント&TBありがとうございます。
死んだらどこへ行くのか・・・・私は生きているうちはこの世を精一杯楽しんで、死後の世界は、それは死んだ後の楽しみにしようと思っております。
投稿者 kameno | 2005年7月31日 03:27