子供たちの死生観を考える(2)

 今日は、子供たちの死生観に、少なからず影響を与えているであろう「コンピュータの作り出すサイバー空間」が、リアリティー感覚にどのように影響を与えるのかを少し真面目に考えてみましょう。

 マクルーハン(Herbert Marshall McLuhan)は次のように述べています。
 「どんな時代でも、新しいメディアが登場すれば、種類のいかんを問わず、それ以前のメディアのパターンを身に着けた人々からすぐに擬似のレッテルを張られるであろう」

 このことは、私たちを取り巻く環境は、いつの時代もメディアによって構成されるものであって、現実―擬似という対立的な区別はもともと存在しないという指摘といえます。
 言い換えると、私たちが抱く非現実感、擬似的な印象は、古いメディアに囲まれた環境にいるものが、新しいメディア環境に接したときに感じる違和感でしかないということです。
 
 例えば、文字を石版に記録している段階、文字を木片や紙に写した版木で大量に流布できる環境になった段階、活版印刷と製本により自由な組み合わせの印刷物が大量に製造できるようになった段階、新聞の普及により、即時的に情報伝達が出来るようになった段階、ラジオやテレビでの伝達手段が普及した段階、そして、CMCなどのニューメディア活用の段階など、それぞれの段階において、私たちは環境の変化を強いられてきた訳ですが、それぞれの初期段階で非現実感、擬似的な印象が生じています。
 その度に違和感の克服が繰り返されていくのですが、映画を例にとれば、ベンヤミン(Walter Benjamin) は「映画は知覚の無意識を発見する」 と述べたように、例えば歩き方を、スローモション撮影することにより、私たちは常に見たことのないような映像による新しい感覚を得ることができるということなのです。しかし、それは時間が経つにつれて、いわば「慣れ」によって違和感の克服がなされていくわけです。

 このように、メディアが人間のリアリティー感覚を変えるという現象は、決してコンピュータの作り出すサイバー空間の登場が最初ではありませんが、しかし、コンピュータの作り出すサイバー空間の登場によって、違和感の克服が困難になるほど、社会環境、生活世界は劇的に変わりました。
 具体的には経験世界の構造変容、生活リズムの変化などが生じているといえます。

 生活世界の多元化は、リアリティー感覚の喪失をもたらし、何がリアルか分からない状況を生み出すのですが、スヴェン・パーカーツ(Sven Birkerts)によると、コンピュータメディアの発達によって少なくとも3つのものを我々は失うといいます。

 1つめは言語の衰退
 2つめは歴史的なものの見方の平板化
 3つめは個性的な自我の衰微

です。
 「いつの日か、われわれは自分の公的かつ私的な生活を、極めて濃密な《ネットワーク》の中で、また同時に起こる情報の極めて多くの《通信路(チャンネル)》の間で処理することになり、その結果、主観的個人主義の識別について云々することは、ほとんど意味をなくさなくなるであろう」との指摘です。
 

 大澤真幸は、「テレビでニュース解説者の表情を見ていると感情が通じているなどと直感します。その人の顔をにらんでいると、向こうでもこちらをにらんでいるんです。アナウンサーの感情がこちらに伝わってくるばかりでなく、自分の感情もアナウンサーに伝わり、その反応が声に出ます。何か自分を引き付けるものがあり、テレビの前から離れることが出来ない。自分がテレビを見ているのか、テレビが自分を見ているのか分からなくなって酷く混乱してしまう」という統合失調症の患者の事例を出し、正常な人間であっても、テレビに没頭する人が、ふと我に返ったときに何らかの違和感が生じたとすれば、統合失調症患者に通じる体験をしていると指摘しています 。

 コンピュータの作り出すサイバー空間での戯れにおいては、別の感覚への自己の分離がテレビよりもさらに明確にこのような起こるかも知れません。
つまり、シミュレーションゲームなどは、コンピュータによって生成された仮想的な状態により別の自己を演じることが前提とされているのですから、本来の自己の持つ現実感覚とは切り離され、メディアと接続されたことによる別の世界の感覚を持ちやすい性質をもつ訳です。
 その理由は、コンピュータの場合はテレビのように受動的に見るのとは異なり、能動的に画像や音声に働きかけるからなのです。

 井上順孝は、身の回りにコンピュータやインターネットがある中で育ってきた世代の増加とともに、日常の空間とは仕掛けが異なるサイバー空間での戯れが、現実と混同されてしまったり、現実を凌駕する影響力を持つ可能性を指摘しています。

 例えば、コンピュータでゲームをしているときに、実際にそのゲームの世界の中にいるかのような仮想体験をする場合、その仮想世界での感覚は、現実に戻ったときには、現実の感覚に戻る(日常の感覚にもどる)のが通常でしょう。
 しかし、その経験が積み重ねられて内在化することによって、その感覚が新たなものへ変化することもあるでしょう。特に、精神的に未発達なこどもたちにとっては大きな影響を与えるかもしれません。
 このように、新たな感覚様式の枠組みが形成されたとき、私たち、特に子供たちににどのような影響をもたらすのかを検証することが必要であると思います。

(つづく)

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【参考文献】

『複製技術時代の芸術』 晶文社クラシックス ヴァルター ベンヤミン (著), 佐々木 基一 (編集), Walter Benjamin (原著)
『グーテンベルクへの挽歌 エレクトロニクス時代における読書の運命』 スヴェン・バーカーツ/著 船木裕/訳 青土社 1995年
『電子メディア論 身体のメディア的変容』大澤真幸 メディア叢書
『インターネット時代の宗教』井上順孝編集 新書館

投稿者: kameno 日時: 2005年2月28日 23:51

コメント: 子供たちの死生観を考える(2)

マクルーハンの指摘に対応すると思うのですが、家庭内で、子供がゲームへ没頭することに対して親が反発する理由に、強烈な没入感を与えるゲームに没頭している子供達に、まるでその場にいながらにして、別の世界にいってしまうような不安を抱くからだという主張がありました。要するにコンピュータゲームは「ハメルンの笛吹」であると(吉岡洋『〈思想〉の現在形』〉。

となると、家庭内での子供の孤独はますます進んでいるわけでありまして、本来年少時に与えられるべき様々な知識が充分に与えられていないこともあるかと思うのです。

しかし思うのは、例えば言語などは非常に子供の頃に聞かされていないと、その後の努力だけでは限界があるとも聞きますが、死生観や倫理観なども脳が発達する特定の時期に教えた方が良い、などの意見があるのかないのか、もし分かっていないのであれば、この研究が進むことを期待したいですね。

投稿者 tenjin95 | 2005年3月 1日 08:20

そうなんですよね。
死生観や倫理観について、子供たちにどのように教えていくべきか、コンピュータとの付き合いはどのようにしたら良いのか。
これから少しづつ考えを書いていきたいと思います。

投稿者 kameno | 2005年3月 2日 02:27

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