善人・悪人

風の道・・・つれづれに・・・


 第35回 善人・悪人  朗読を聞く(RealAudio3.0)

 

 先年逝去した、作家の遠藤周作氏のエッセイに「善魔」ということばがあった。「悪魔」という語はよく目にするが、「善魔」とは何だ?と思い、活字を追った。

 遠藤氏は、善魔とは独りよがりの正義感と独善主義を持つものとしている。

 おのれの主義や宗教のみが正しいという優越感にかられ、あまりにも善意であるがゆえに、そのことに気づかない。その例として、ベトナム戦争を行ったアメリカ(民主主義・自由主義こそがベトナムの人々にとって最上なのだ、という独善)、サマセット・モームの『雨』に登場する牧師(一人の娼婦をその罪から救おうとするあまり、彼女の悲しみ苦しみを感じ取ろうとせず、かえって傷つけてしまう)をあげている。

 これは、とても厳しい指摘である。わたしたちは、書きこととされているものごとを行うときであれぱあるほど、気をっけなくてはならないということである。

 宗教は特に、「善魔」に陥りやすい土壌をもっている。

 『歎異抄』のあの有名な「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」のくだりを読むときに、無意識のうちに「善人」におのれを当てはめている自分に気がついたとき、私は「これはいかん」と思った。いやらしい笑みをうかべている自分の映像が心に浮かんだ。かといって、「私は救いようのない悪人で」と強いて思うのも、悪に酔っている裏返しの善魔であろう。親衛上人の「名利の大山に迷惑し、愛欲の大海に沈没して」は、どうしようもないこの自分に絶望に絶望をかさねた末の、真率な告白であろう。甘えのひとかけらも許すことのない内省を重ねたからこそ親衛上人は「弥陀の誓願」を感じ取ることができたのだ。

 宗教にふれると、「私は他の人とはちがうんだ」という宗教的エリート意識にとらわれてしまうことが多い。「救ってあげる・救ってやる一という一種思い上がった思いを抱くようになる。でも、人間は人間をほんとうに救うことができるのだろうか。大学時代にお世話になつた先生が、こう言っていたことを思い出す。

 「それは、神・佛の領域のものなんだぞ」
 きっと善人とは、おのれの悪や弱さを、一片の陶酔もなく直視している者のことをいうにちがいない。そして悪人とは「善魔」、すなわち無意識に「善人」に自分を当てはめているような者のことをさす、そんな気がするのである。


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