日吉にあった海軍連合艦隊司令部(1)

宗務所主催人権学習として、横浜市港北区・日吉にあった日吉台地下壕などの戦跡での実地研修を行ないました。
まずは、日吉の歴史を概観してみましょう。

日吉は、昭和2(1927)年に東横線が開通し、駅西側には放射状の道路を設け、各道路間を縦横に通じる街づくりがなされました。
昭和9(1934)年には駅の東側に慶應義塾大学が誘致され、予科新校舎が出来上がります。
その2年前に発生した満州事変以降、日本は戦争への道を歩み始めました。
昭和12(1937)年 日中戦争、昭和14(1939)年には第二次世界大戦が勃発し、昭和16(1941)年には真珠湾攻撃による太平洋戦争が始まります。
ミッドウエー海戦で日本海軍が大敗し、戦況が大きく不利な状況に追い込まれると、海軍は戦況建て直しのために新たな拠点を求め始めます。
昭和19(1944)年、慶応義塾は日吉校舎を含む5万坪のキャンパスを海軍省に貸与。
海軍の施設が次々と日吉に入り、8月には日吉台地下壕の建設を開始。
9月には連合艦隊司令部をキャンパス内の寄宿舎に移し、第一作戦指令所としました。
しかし、サイパン、テニアンなどマリアナ諸島の拠点を次々に失い、日本の主要都市が米軍のB29による爆撃行動範囲に入ることになり、戦況はさらに悪化。
日本は特攻作戦により起死回生をはかることとなりました。

↓図は戦時中の地形図(昭和20年発行)です。

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日吉駅西側に広がる放射状の街並み、そして、駅東口の慶應義塾キャンパスが見えますが、この時には既に海軍省に貸与されており、寄宿舎が連合艦隊司令部となっています。

米軍により撮影された航空写真が「国土変遷アーカイブ」で公開されていました。
戦後まもなく、1947年に撮影されたものです。上地図と比較してみてください。

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現在の航空写真↓に、日吉台の地下壕施設の位置を赤で塗ってみました。
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①連合艦隊司令部(海軍総隊司令部)地下壕・軍令部第三部(情報部)・東京通信隊・航空本部地下壕
②軍令部第三部(情報部)・退避壕
③人事局地下壕
④艦政本部地下壕

このうち、入ることが出来るのは、上図①の慶應義塾大学キャンパス内に位置する地下壕のみです。
(入ることが出来るといっても、当然許可が必要です)
それ以外の地下壕は、土砂流入などによって、入ることができないばかりか、住宅開発による破壊により地下壕自体が失われつつあります。


研修会には50名を超える参加。
日吉キャンパス来往舎棟にて「日吉台地下壕の保存をすすめる会」の皆様よりガイダンスをいただきました。

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来往舎から東に進むと、高等学校校舎があります。
かつての第1校舎予科校舎です。

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壁面には1934年(西暦)と、2594年(皇紀)が刻まれています。
この建物は、戦時中は軍令部第三部が入っており、軍令部第三部には 第五課(米国情報等)、第六課(中国情報等)、第七課(ソ連・欧州情報等)、第八課(英連邦情報等)などが入り、戦争末期には仕官150名、文官など144名が所属していました。

下建物↓は、昭和12(1937)年に建てられたチャペルです。
慶應義塾大学はキリスト教によらない建学の学舎ですが、チャペルがあるのです。
軍令部第三部の職員も、このチャペルを利用し、祈りを捧げていました。

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高等学校校舎をさらに東に、斜面の階段を降りたところ(記念館裏の体育施設がある場所)が蝮谷(まむしだに)と呼ばれる場所です。
このあたりは、以前は湿地帯や雑木林があり、多くの蝮がいたことから、蝮谷と呼ばれるようになったと言われています。

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蝮谷に地下壕への入口があります。

地下壕の想定ルートをGoogleの航空写真に落としてみました。

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蝮谷、バレーコート脇のにある入口(a)から地下壕に入ります。赤い線で示したところが地下壕想定ルート。
深いところで地下30メートルにもなるトンネルです。

第二次世界大戦末期、日本軍の起死回生、さらには本土決戦に向けた準備が進められた海軍指令本部のあった地下壕。
上図 a にある地下壕の入口です。
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いよいよ中へ入っていきます。

次のブログ記事に続く

投稿者: kameno 日時: 2013年10月23日 00:42

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