岩殿観音と武州鼻緒騒動

曹洞宗関東管区役職員人権啓発研修のために熊谷へで出かけておりました。
宗務所の役職員、人権委員は、定期的にこのような研修を行なっています。

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座学だけではなく、実地研修も重要なカリキュラムに位置づけられています。
一日目、最初の行程は、阪東十番観音札として知られる、「岩殿観音」(正式名称:真言宗智山派・巌殿山正法寺)でした。

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創建は養老2(718)年とされ、逸海沙門が、自ら造った千手観音像を祀るお堂を建立したのが起源とされています。
岩殿観音へ向かう見晴らしの良い参道は、茶店が並び活気に満ち溢れていたそうです。
現在でも、その雰囲気が残されています。
仁王門には立派な阿吽の仁王像が祀られています。

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長い石段を登ると

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登り切った右手に茅葺きの鐘楼堂、

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正面奥に観音堂があります。
周囲を岩肌に囲まれた堂々たる建物です。

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建物の前には天水桶台座が残されています。
この台座は、天保13(1842)年、入間郡を中心とした長吏(被差別部落の人々)が寄進奉納したことを示す名前が刻まれています。
願主は18か村200名が刻まれ、寄進者は500名ともされています。
台座石は真鶴産の小松石。
天水鉢の直径は110センチ程もあり、相当高価なものであったことがわかります。

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天保年間は、洪水や冷害が度々起こり、全国各地で大飢饉が発生した時代です。
そのため、百姓一揆や打ち壊し等が多発し、さらに天保の改革の失敗も重なって、百姓たちの生活は困窮しました。
しかし、長吏たちは、農業以外の他の生業があったため、経済的に伸長し、百姓たちの農地を買い上げたりするなど、百姓たちとの軋轢は高まっていく一方でした。

岩殿観音の天水桶は、経済的に伸長した長吏の象徴でもあります。

天水桶寄進の翌年、「武州鼻緒騒動」が発生します。
発端は長吏・辰五郎と、日野屋喜兵衛との、下駄の鼻緒の売買をめぐったトラブルですが、連帯を強めた長吏たちが、周囲の村落から駆けつけ、騒動は大きくなります。
日野屋はこの件を村役人、さらに東取締出役へ届出ることとなり、一方的な取り調べにより、さらに江戸幕府の厳しい弾圧により、長吏側のみ多数の犠牲者が出てしまいました。
長吏たちには、はりつけ獄門、死罪、重追放などの重罪が課せられ、一方、百姓側は罰金など軽い罪が言い渡されました。
長吏たちの寄進した岩殿観音の天水桶は、仁王門の外に放り出されてしまいました。

この「武州鼻緒騒動」は、幕末の身分制度を揺るがす事件となりました。
繰り返される飢饉と年貢に追われる百姓と、相対的に経済的に豊かになっていった長吏とのあいだに、農地などの資産の差は殆どなくなり、むしろ長吏のほうが豊かになりさえした時代背景が、「武州鼻緒騒動」のきっかけとなったということも知っておかなければなりません。

この事件は、人権権利意識が芽生えるきっかけとなり、人間の尊厳をかけて長吏たちが闘っていく発端となった大きな出来事となりました。

投稿者: kameno 日時: 2012年6月11日 23:53

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