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貞昌院の裏山は、日限山まで続いており、この一帯にはかつて丸山という こんもりした山がありました。
(1975年 貞昌院で撮影した航空写真:以下のパノラマは●地点より撮影)
上写真の一年後、1976(昭和51)年に市営地下鉄上永谷駅が開業、この前後に行われた丸山台再開発事業により、このあたりは一変します。
駅が開設された当時は、丸山台は造成工事完了直後で、まだ更地の区画が並んでいました。
駅前広場やイトーヨーカドーも、まだありません。
今日のブログで紹介する写真は、丸山台の造成が一段落したころの様子を貞昌院の裏山から眺めた写真です。
パノラマにするつもりで撮影したものではないので、繋ぎ目が不自然な箇所があることをご了承ください。
はるか向こう側に野庭団地が見えます。
野庭団地は一足先の 1973(昭和48)年に入居が始まりました。
対し、丸山台は
1971(昭和46)年11月 丸山地区土地区画整理組合発足
1974(昭和49)年3月 造成工事開始
1976(昭和51)年2月 造成完了、排水、道路、電柱工事完了、その後仮換地、換地後、分譲事業が始まる。
1976(昭和51)年9月 上永谷駅開業
1981(昭和56)年4月 丸山台小学校開校
丸山台の住宅街も少しではありますが、埋まってきている様子がわかります。
丸山台小学校は前年に開校、駅前広場が完成する直前の写真です。
1982(昭和57)年 駅前広場が完成。 直後にベルセブン、イトーヨーカドー・ラポルトビルが完成、開業。
1985(昭和60)年 上永谷駅の開業から約9年目に市営地下鉄は舞岡まで延伸します。
このように、丸山台は、山を大規模に造成して出来たゆるやかな丘に生み出された街なのです。
そして現在へ。
亀野さん、おはようございます
凄い、記録写真ですね。これに開発される前の天神山の写真とか、山を崩している最中の天神山の様子を写した写真はありませんでしょうか。現在では、こうした街が生まれてくる過程を示す景観が見られなくなりました。当に、津波に襲われて破壊をされた三陸地方の都市の景観と見間違えるような写真です。有難うございました。
投稿者 ちのしんいち | 2011年10月11日 08:24
ちの様
山を崩される直前の航空写真を追加しました。
また、造成中の写真は「永野郷土史」巻頭に掲載されています。
山を削っていた当時は、大型ブルドーザー10数台が毎日爆音と砂埃を立てながら走り回り、残土の2/3は、標高の低い谷間を埋めるのに使い、残り1/3を金沢区鳥浜の埋立てに用いたそうです。
残土を運んだダンプは、42,121台に及びました。いかに大事業だったかがわかります。
投稿者 kameno | 2011年10月11日 09:24
亀野さん、開発造成前の天神山の写真を冒頭に掲載して頂き、有難うございました。当に昭和40年代から50年代にかけての我が国の高度成長は、先端技術開発と同時に宅地開発による「国土開発」(社名にまでなっていましたね)の時代だったと思います。この時期、我が国では東京の多摩でも、大阪の千里でも同じ様な開発が行われていました。(現在では、その場所が高齢化により、ゴ-ストタウン化されています。)一山ゴッソリ削られた事等今の子供達に理解できるでしょうか。後世に残す記録です。当に30年の記録です。今回震災に遭われた三陸では30年でこの様に復興出来るでしょうか。都会と地方との経済格差を考慮すると更に年月が掛かるかと思うと本当にお気の毒になります。
投稿者 ちのしんいち | 2011年10月11日 13:59
ちの様
高度経済成長が前提にあった住宅開発と、現在の状況は全く異なります。
これからは街の再構築をどのように行っていくのかが鍵となりそうですね。
投稿者 kameno | 2011年10月17日 11:07