No.31
仏祖の護持しきたれる修証あり、 いはゆる不染汚なり ﹃正法眼蔵﹄洗浄 先日あるご住職から、次の言葉を印刷したはがきを頂戴しました。 ﹃﹁口﹂ も濁れば ﹁愚痴﹂になる ﹁意志﹂も濁れば ﹁意地﹂になる ﹁徳﹂ も濁れば ﹁毒﹂ になる﹄ ﹁くち﹂にテンテンをつければ﹁グチ﹂。 いくらすばらしい言葉を口にしても、心の中に嫉妬や欲得が満ちていたならば、その口から出てくる言葉はいつか﹁愚痴﹂になってしまうでしょう。 ﹁いし﹂にテンテンをつければ﹁イジ﹂。 意志を強く持って仕事を成し遂げ、人生を送ったとしても、自分本意で周囲のことを考えなければ﹁意志が強いんじゃない、あの人は意地になっているんだ﹂と思われてしまいます。 ﹁とく﹂にテンテンをつければ﹁ドク﹂。 いくらよい事をし徳を積んだとしても、﹁あれはおれがやってやったんだ﹂と自慢して鼻に掛けるようになったら、それは﹁徳﹂ではなく、周りの人にも不快な﹁毒﹂になってしまいます。 仏さまのお悟りという立場にあれば、言葉や行為というものは本来清らかなもの、純粋なものです。しかし悟り得ない我々凡夫は、どうしても気づかぬ内に自分の見栄や作為、不平や不満の上にそれらの行為を行ってしまいがちです。何か見返りを求めたり、心の中に嫉妬や欲得を持っていたりすることで、いつの間にか私達の言葉や行為は濁ってしまうのです。そして結局、相手を傷つけたり迷惑をかけたりしてしまいます。 冒頭の言葉は、﹃正法眼蔵﹄洗浄の中の一節です。﹁修証﹂とは﹁修行と悟り﹂のこと、﹁不染汚﹂とは﹁汚染されない﹂という意味です。人は本来、清浄にして汚されることの無い素晴らしいものを具えています。汚いもきれいも無い、それらを超したところにいるのに気づくために、祖師方も修行してこられたと道元禅師はお説きになられます。 ﹁口﹂が﹁愚痴﹂になり、﹁意志﹂が﹁意地﹂になり、﹁徳﹂が﹁毒﹂になる。この言葉は、我々の日常の行為とその結果にたとえることができるでしょう。損得勘定を第一に考えたり、自己主張を繰り返すのではなく、周囲の人の心が軽くなるような、濁りのない仏さまの言葉や行動を心掛けたいものです。