No.24
高処は高平に 低処は低平に ﹁暇さえあれば地球を見ていた。地球はいくら見ても見飽きなかった。地球はあまりに美しかった。それを見ていると、ボクは地球の一員だという、地球への帰属意識が、きわめて強烈に生まれてきた。ボクはアメリカ国民だとか、テキサス人だとか、そういう意識は全く出てこなかった。ひたすら地球への帰属意識だ﹂ これは、宇宙飛行から帰還した、ある宇宙飛行士の言葉です。 彼は、漆黒の空間にぽつんと浮かぶ地球を眺めながら、地球人たることの自己意識、調和が内在している宇宙、地球上で幾度となく繰返される政治、宗教、思想上の対立抗争の愚かしさを、身をもって感じたのではないでしょうか。 禅門の修行道場では、典座︵炊事係︶が重要な役割を担っています。表題の句は、その心構えとして、食事に用いた食器類等を、心をこめて洗い清めて、それらをそれぞれのあるべき位置にていねいに置きなさいということを述べた箇所です。 高平・低平の﹃高低﹄とは、縦なるもの・横なるもの、広きもの・狭きもの、長きもの・短きもの、重きもの・軽きものというように、さまざまなるもののありえているすがたを指します。すがたの違いこそあれ、そこには﹃優劣﹄はありません。 しかし、同じ﹃丸い筒﹄であっても、見る角度によって円形だったり、方形だったりします。人間存在についてみても、職種や学歴、出身等の優劣差を見るのは、ある偏った角度から見る人間の心によるもので、そのものの本質とはいえないでしょう。 ごく当たり前のことだと感じるかも知れませんが、実際に日常生活での自らの行いを反省するとき、私たちは意外とこの高平・低平を欠いていることに気づきます。 靴の脱ぎ方にしても、洗面にしても、トイレでの用便や手拭きを使用した後の処置一つにしても、案外無神経に、しかも自分本意に、脱ぎっ放し、水の飛び散らし、よごしっ放し、使いっ放しにしていないでしょうか。 普段おざなりにされていることに気づくことにより、この句には﹁一切のものは、ものみなそれぞれにあるべき位置を保って、しかもかけがえのない絶対なるものとして働いているのである。さかしらな価値意識を超越した、そういう事実に目を見開いて、私のいのちを支えているさまざまなもののいのちを、みずからのいのちとして護惜しなければならない﹂という意味が隠されていることを知ります。 つまり、この世界に存在する全ての事象が各々の分を尽くして働いて全体との調和を保ち、この世界たらしめている事実に気づかされるのです。地球人としての私達は、宇宙飛行士が感じたように、一人一人が平等で尊い存在だったのです。 普段の生活を脚下から顧りみると、自分の驕慢︵おごり︶、自我意識に発する優劣意識に染汚︵けが︶されざる以前の、本来の姿が見えてくるかもしれません。