アイヌの聖地・二風谷

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プ(高床式倉庫)、チセ(伝統的家屋)、ポンチセ(小さい家)が並ぶアイヌの伝統的集落。

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しかし、その聖地が、二風谷ダムの建設により、ダム湖の底に沈んでしまいました。
沙流郡平取町を流れる一級河川・沙流(さる)川 本流中流部に位置する二風谷(ニ・ウシ・ペッ=木の多い川)は、チプサンケと呼ばれるサケ捕獲のための舟下ろし儀式を始めとして当地はアイヌ文化が伝承される重要な土地であり、アイヌ民族にとって「聖地」とされてきました。

その場所に、二風谷ダムが北海道経済の浮揚策として、また、苫小牧東部の工業団地への工業用水を確保するために計画されました。
しかし、工業団地は分譲予定地の7割が手付かずの状態となり、ダムの目的は発電と洪水対策に変更されています。

二風谷ダム建設とダム訴訟の経緯はこちらに詳しく書かれていますので、リンクを張っておきます。
二風谷ダム – Wikipedia

結果として、二風谷ダムの完成と流域の護岸整備に伴って、ある程度の洪水対策が出来るようになりました。
アイヌ民族の営みは、現在はダムの近くにある「二風谷アイヌ文化博物館」「萱野茂二風谷アイヌ資料館」に保存展示されてはいますが、かつての多くの鮭が遡上する豊かな川の情景も、アイヌ民族の営みも今では見られません。
代償として失われたものは計り知れません。
 


アイヌ民族は自然を神と崇め、自然界と共存共生し慎ましく生きて来ました。魚、野獣、山菜のどれひとつとってみても必要以上には決してとらず、他の生きもののために残し、また来年のために置いておくのです。そのような自然界の巡りをアイヌ民族はよく知っていました。平和なアイヌモシリは、和人の侵略と開拓によってどんどん荒らされていき、アイヌ民族は一方的に生活圏の全てを奪われてしまいました。
(中略)
現在世界中で行われている自然破壊の様をアイヌである私はひどく憂慮しています。巷で「自然保護」が叫ばれていますが、アイヌ語の中に「自然保護」という言葉はありません。自然、つまり海でも山でも、川でも鳥や獣に至るまで、もしも□があったなら「人間其よ、自然保護などという大それた言葉を慎しめ。我々自然は保護される事を望むのではなしに、人間であるあなた達がぜいたくをしない限りにおいて、紙にする木材でも、薪でも、家を建てる材料でも供給できることになっているのだ」と自然の神々はおっしゃるでありましょう。
自然は常に巡っており、生きもの同士がその摂理の中でそれぞれの生命を全うするはずが、人間共の勝手なエゴや欲望によって、虫達の家や着物を剥ぎ取り、鳥や動物達の住み家までも奪い去っています。これもまた、侵略です。
ゴルフ場しかり、リゾートしかり、ムダ遣いが原因の森林伐採しかり・・・、例を挙げればキリがない程どれもこれもです。日本は浪費し過ぎです。天に向かって「面のひっぱがし」です。いずれそれらが、自分たちの顔に降りかかってくるのです。消費、浪費の大国のまま良き未来を迎える事はありません。
今や、大昔の暮らしに戻る事はできません。ほんの少し数十年昔の姿を思い出し、ほんの少し戻ればよいのです。夜の明るさも我慢をして、慎ましやかに生活しようと思ったならば、資本家に対して原子力発電所などというウェンカムィ=化け物を作る口実は、与えなかったでありましょう。86年、スウェーデンのヨックモックを訪ねた時、チェルノブイリの事故による、それは恐ろしい話を聞き、そして、いつ私共の身に降りかかってくるやも知れません。人類はぜいたくし過ぎ、もっと明るく、もっと速く、もっと便利に、もっと多くを求め過ぎました。
全ての生きものの生存を可能とする、地球環境の保護こそが、人類が生きていく条件であり、人間が人間らしく生きていける山を、川を、畑を、村を、町を、子々孫々に至るまで残さなければならない、と私は考えています。
(萱野茂「夜明けへの道」『人間家族』 特別号より)

二風谷ダムを見学した後、湖畔にある「二風谷アイヌ文化博物館」を訪ねました。

ここには、「北海道二風谷及び周辺地域のアイヌ生活用具コレクション」として、国重要有形民俗文化財に指定されている計1,121点(内202手点は萱野茂二風谷アイヌ資料に所蔵)の所蔵展示品が集められています。
です。

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狩る、採る、耕す、編む、縫う、装う、彫る、祈る、弔う、歌う、踊る、語る…

大自然の中に生き、人間としての誇りを尊ぶ、アイヌ民族の智慧が詰まっています。
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引き続いて、「萱野茂二風谷アイヌ資料館」を訪問しました。
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これらの収集に尽力を果たしたのは自らがアイヌの血を継ぐ伝承者、萱野茂氏でした。
萱野氏は、長年アイヌの生活文化や言語などの保存、伝承、研究活動に尽力してきました。著作や映像資料製作も多く、また2001年には論文「アイヌ民族における神送りの研究~沙流川流域を中心に~」により博士号を取得し、長年の活動の功績が評価され北海道文化賞、北海道功労賞平取町名誉町民賞を受賞しています。
国政にも参加し、参議院議員の任期中には「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(平成9/1997年可決)」の制定に尽力されました。

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収集された物には、所有者、収集年、製作法解説、実測図、写真が付随しており、このことが国重要有形民俗文化財に指定される理由になりました。


昭和28年の秋ごろから、アイヌ民具の蒐集をつづけていくうち、アイヌ文化全般を見直そうという自然な気持ちがわたしの心の中に生まれてきました。アイヌ研究者に閉ざしていた心を少しずつ内側から開いていき、研究に対しても協力するようになりました。
ちょうどそのころだったと思うのですが、二谷国松さん(アイヌ名、ニスッレックル。明治21年生まれ)、二谷一太郎さん(同ウパレッテ。明治25年生まれ)、それにわたしの父、貝沢清太郎(同アレッアイヌ。明治26年生まれ)の3人が集まって話をしていました。
この3人は、二風谷ではアイヌ語を上手にしゃべれる最後の人たちでした。
3人が話していたのは次のようなことでした。「3人のうちで、一番先に死んだ者が最も幸せだ。あとの2人がアイヌの儀式とアイヌの言葉で、ちゃんとイヨイタッコテ(引導渡し)をしてくれるから、その人は確実にアイヌの神の国へ帰って行ける。先に死ねたほうが幸せだ」
聞いていて、わたしはとても悲しかった。「先に死んだほうが幸せだ」。わたしは何度もこの言葉を心の中で繰り返しました。この言葉の意味は、民族の文化や言葉を根こそぎ奪われた者でなければ、おそらく理解することは絶対に不可能でしょう。人間は年をとると、死ぬということにあまり恐れをいだかなくなるといいます。しかし、死んだときには、自分が納得できるやり方で、野辺の送りをしてもらいたいと願う気持ちには変わりがありません。その納得できる葬式をしてもらいたい、ただそれだけのために早く死にたいと願うほど、わたしたちアイヌ民族にとってアイヌ文化、アイヌ語は大切なものなのです。
そして、その3人のうち、“最も幸せ”になったのは、わたしの父でした。
(『アイヌの碑』萱野茂著 朝日文庫)

残念なことですが、アイヌ語は近いうちに消滅してしまうことが懸念されている消滅危機言語の一つに指定(ユネスコにより消滅の危機にある言語として、最高ランクの「極めて深刻」の区分に指定)されています。
言葉とともに、生きた文化、伝統が消えていってしまうということは悲しいことです。

投稿者: kameno 日時: 2012年11月 9日 09:35

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