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鶴見大学附属中学高等学校に祀られている観音様があります。
今日の記事はこの「モロカイ観音」にまつわるお話です。
■モロカイ島カラウパパについて
モロカイ観音の「モロカイ」とは、ハワイ八島の1島のことで、オアフ島の東にあります。
18世紀に後半にキャプテン・クックがハワイ群島を発見し、サンドウィッチ群島と名づけるまでは、近世的文明に接することのないのんびりした島だったことでしょう。
以来、西欧人、そして東洋人たちがこの島に移住しました。
文明と共に様々なものをもたらし、不幸な事に、その中にハンセン病(当時はらい病と表現していた)が含まれており、瞬く間に蔓延してしまいます。
政府は、モロカイ島北部にあるカラウパパ地区が下の地図にみられるように断崖絶壁に囲まれた陸の孤島となっていることに眼をつけ、1865年に「ハンセン病蔓延予防法」を制定し患者の隔離政策を取ります。
当時、ハンセン病は感染したら最後、決して治ることのない恐ろしい病気であると考えられていたのです。1866年、最初の船で12人が沖に降ろされたのを最初に、約100年後にようやくハワイ州法が廃止されるまでの間に8000人もの人々がこの地に送られました。
一度この施設に入ったものは、再び社会に戻ることは決して許されることなく、ただただ死を待つのみの日送りでした。
医療施設もありましたが決して充分ではなく、また満足な物資の供給もされませんでした。
当時の患者は人間としての希望を失い、社会を呪い、法律を呪い、あらゆる道徳や宗教を否定したといいます。
聖職者の中には、彼らを救うことを試みカラウパパに赴いたものも少なからずありました。
しかし、聖職者たちはそっぽを向かれたのみならず、あらゆる手段で侮辱され罵倒され、撃退されてしまいます。
信仰が根付くことはありませんでした。
■ダミアン神父の生涯
そのような中、ベルギー出身のダミアン神父(1840-1889)は、カラウパパの不幸を知ると、真っ先にその地への赴任を希望します。
何人もの聖職者が退散してしまう状況を目の当たりにしてきた長老たちの中には、彼の志願を冷ややかに却けたり、絶対に無理だからと説得させようとする者もおりましたが、情熱がそれに勝ったのでしょう。
1873年、彼は1つの十字架と1冊の聖書のみを身につけ、単身カラウパパの地に渡りました。
カラウパパの人々から筆舌を絶する冷遇を受けたのは言うまでもないでしょう。
しかし、ダミアン神父はただ黙々と祈り、ただ黙々と奉仕の仕事をする日を送りました。
病人を尋ね、皮膚の膿を吸い出したり、薬を塗ったり、包帯の交換をしたり・・・・それに加えて生活のための水汲み、薪割り、家屋の修理、畑の手伝いなど一つひとつの仕事を淡々とこなしていきました。死者が出れば棺桶をつくり、埋葬をしました。
そのような月日が十数年経過したとき、ダミアン神父自身もハンセン病を発症してしまったことに気づきます。
この発症は、ある意味不幸なことであったかもしれませんが、カラウパパの施設に暮らす人たちとの心の垣根を払拭するきっかけにもなりました。
ダミアン神父はこれまで以上に真摯に聖職者としての道を突き進みました。
1889年、ついにダミアン神父は49歳の生涯を閉じます。遺体は彼が初めてカラウパパに赴いた際に野宿していた木の下に葬られました。
その間、ダミアン神父の行いはハワイのみならず全世界に知れ渡ることとなり、施設の改良や救援物資はこれまで以上に届くようになりました。
何よりも、隔離されていたハンセン病患者たちが人間らしさや、信仰を取り戻すきっかけとなった下地がダミアン神父により築かれたということは言うまでもありません。
■モロカイ観音の機縁
1929(昭和4)年、鶴見大学附属中学高等学校(当時は鶴見高等女学校)の2代校長・三沢智雄師が、ダミアン神父の伝記を読み感激し、ぜひとも墓参をしたいという思いでモロカイ島を訪れました。
当時モロカイ島には曹洞宗の海外寺院として弘誓寺がありました。
弘誓寺の住職、大内素俊老師は日本人入植者への布教の合間に月何回か、断崖の道なき道を通ってカラウパパへ通っておりました。
上の地形図のとおり、断崖絶壁を下ってカラウパパに通うことは並大抵のことではなかったことが判ります。当然、空港など当時はありません。
恐ろしい伝染病とされていた隔離施設でありましたから、そのような物理的にも精神的にも距離のある場所へ定期的に通われていた大内老師の菩薩行には頭の下がる思いがします。
また、ダミアン神父の下地があったからこそ、仏教者も受け入れられたということも見逃してはなりません。
三沢校長は大内老師を通して病院長に療養施設を案内いただき、ダミアン神父の墓参も無事成し遂げることができました。
この施設には当時50名の日本人もおり、しばしの交流の場を持つことができました。
再び踏むことができない祖国の地の情報はどれだけ彼らに希望を与えたことでしょう。
別れの際に、患者たちから新築したばかりの日本人クラブの建物に安置する観音像を是非斡旋して欲しいと切望されます。
「私にふさわしいお手伝いだから、喜んでお引き受けします」と三沢校長は約束し、同胞たちに別れを告げました。
■観音像カウアイ島へ渡る
三沢校長帰国後、カラウパパに観音像を贈るという話に多くの人々が賛同し、大乗女子青年会(卒業生たちが組織している仏教団体)が中心となり、「絶海の孤島で観音さまの光を求める同胞たちのために」と募金を呼びかけました。
観音像の仏師として、吉祥寺の岩本老師そして大円寺の服部老師を通して高村光雲の弟子山本瑞雲先生が紹介されました。
山本瑞雲先生はいきさつを聞くと大変喜び、また大乗女子青年会の運動に感激し、「この彼岸には観音経を写したり、朝夕何巻読んだか知れない。その功徳だろうか、このような尊い仕事を持ってきてくれて感激に堪えない。お金の心配をしているようだが、そんな心配はいりませんよ。制作費も材料費も要らない・・・・」と、直ぐ制作にとりかかる約束をされました。
まもなく観音像が完成し、中根初代校長導師により開眼供養が厳修されました。
観音像は浅間丸によりハワイに運ばれ、モロカイ島へ渡ったのでした。
施設に暮らす日系人たちはどれだけ喜んだことでしょう。どれだけ精神的支柱となり救いをもたらしたことでしょう。
■ダミアン神父祖国へ
ダミアン神父の遺体は前述のように当初カラウパパ・カラワイの木の下に埋葬されておりましたが、1930 年代になり、神父を「ベルギーの英雄」として祖国へという世論がベルギーで高まり、1936 年に棺が掘り出されアメリカ海軍からベルギー海軍へと引き継がれ故郷へ戻りました。
ベルギー国旗に覆われた柩がホノルル港を出る時にはアメリカ海軍は礼砲をもって送り、ベルギーに着いた時は、国王レオポルド13世が親しく出迎え、国葬をもって遇せられたそうです。
現在、ダミアン神父は故郷のルーヴェンに葬られています。
(本当はカラウパパの地で静かに眠っていたかったんじゃないかと少し思ったりします)
■モロカイ観音は日本へ
モロカイ弘誓寺からハンセン病施設への訪問は第3代西澤宏山老師、第4代森田宏悦老師の代になっても続けられており、弘誓寺を通して鶴見から渡ったモロカイ観音が変わりなく施設の中で信仰の対象となっている様子が日本に伝わっていきました。
この後、太平洋戦争の時代を迎えてしまいますが、観音像は絶海の孤島にあったこともあり、戦中戦後を通して施設の友となり、変らぬ微笑を湛え続けたことは奇跡とも言えるかもしれません。
・・・時代は下り、ハワイ州法が廃止され役割を終えたモロカイ観音は、1997(平成9)年、鶴見大学附属中学高等学校に戻され安置されることとなりました。
モロカイに渡ってから大戦を経て実に60年近くが経過しています。
カラウパパの地において多くの日系人ハンセン病患者のこころの支えとなったモロカイ観音は、日本に帰ってきてからも様々なことを私たちに教えてくださっています。
(追記)
日本のハンセン病施設は、このハワイ型の隔離政策の方式を導入しました。
そのために、数多くのハンセン病患者は強制的に施設に収容され、施設外に出ることが許されず一生を終えるという非人道的なことが行なわれました。
歴史的に差別・偏見の対象となった病気であり、かつての日本のハンセン病政策においても大きな問題が残されています。
SOTO禅インターナショナル会報38号、39号、40号に関連記事 ハワイ発「モロカイ島カラウパパ半島訪問記(1)(2)(3)が掲載されています。
補足ハンセン病とは、1873年にノルウェーのハンセンが発見したらい菌によって、主に皮膚や抹消神経が侵される感染症の一つである。この菌の毒力はごく弱く、感染しても発病することはきわめてまれであり、1943年のプロミンに始まる化学療法の効果によって、確実に治癒するようになった。現在では、いくつかの薬剤を組み合わせた多剤併用療法(Multidrug therapy,略してMDT)が広く行われている。
化学療法がなかったころは、この病気は、らいあるいはらい病といわれ、不治の病と考えられていた一方、顔面や手足などの後遺症がときには目立つことから、恐ろしい伝染病のように受けとめられてきた。そのために、わが国はらい予防法によって、すべての患者を終生療養所に隔離するという厳しい対策をとった。現存する療養所には、国立13ヶ所、私立2カ所の計15ヶ所があり、入所者は5,500名(1995年末現在)ほどである。そのほとんどは、すでに軽快治癒しているが、老齢(1995年末の平均年齢は71歳)である上に、後遺症による重い身体障害を合併するとか、あるいは長期間社会から隔離されていたなどして、復帰の可能性は絶無といってよい。
世界のハンセン病は、発展途上国においてなお数百万人ともいわれるが、わが国に限っては年間に10名以下しか発生していない。このように、わが国からハンセン病患者が激減したのは、患者の隔離が効を奏したというよりも、社会の生活環境や個人の栄養状態などが著しく向上した結果である。ゆえに、隔離を決めた「らい予防法」は、まったく無用な法律として1996年4月に廃止された。
これからのハンセン病は、一般の医療機関において治癒されることになり、ふつうの病気として扱われる。それでも、古くからのハンセン病に対する誤った考え(偏見)が、社会からまったく消えたわけではない。正しい知識を早急に広める必要がある。
(『全療協ニュース』1996年より引用)
次はKameno先生版ツタンカーメンの分析ですね(笑)
投稿者 叢林@Net | 2010年2月18日 23:09
叢林@Net様
ツタンカーメンは吉村先生にお任せしておきます(笑)
投稿者 kameno | 2010年2月19日 09:36