No.39

 師の操行におよばざれども 慕古を心術とするなり
「正法眼蔵栢樹子」

 「叱られた恩を忘れず墓参り」という川柳があります。私達は多くの人々に支えられて生きていますが、とりわけ、叱咤激励(シッタゲキレイ)をしてくださり、慈愛の念をもって育ててくださった方々の恩は大切にしたいものです。しかし、その恩の重さを思うとき、果たして自分はそれに報いるような功績を残せるだろうかと、不安になることもあるでしょう。

 先人方の残された道は、高く偉大に見えるものですし、自分はその足元にも及ばないと思うものです。しかし、永い歴史の中で正しい教えが、着実に受け継がれてきているのも事実です。それらは、古人の遺徳を敬慕する後継者の心と行いの中に脈々と受け継がれ、その精神が生きつづけて来たことを忘れてはなりません。

 冒頭の句は、道元禅師が、中国の趙州(ジョウシュウ)禅師の故事に想いをはせて、感想と説法をまとめた『正法眼蔵(ショウボウゲンゾウ)栢樹子(ハクジュシ)』の文中のことばです。趙州禅師は唐の時代の人で、当時としてはかなりの高齢の61才で出家されました。そして、ひたすらに真実の道を求めて旅する中、師匠となるなんせん南泉禅師にめぐり合い、お釈迦様から37代目の法を継がれました。

 その修行生活は、木の実を拾って食べるほど窮乏したそうですが、修行に対しては厳格で、僅かな時間も無駄にしないで坐禅に励まれ、多くの門弟を育てました。道元禅師は、この句で、「趙州禅師のように厳しく徹底した禅の境涯には及ばないけれども、古人の徳行に敬慕すること『慕古(モコ)』を心の糧としていきたい」と説かれています。道元様は、お釈迦様をはじめとする歴代の祖師方の真理を求める厳しい姿勢に感動し、敬慕の念を強くもたれ、日々の修行に励まれました。そのような熱い慕古の精神があったからこそ、今日、祖師方が説かれてきた真髄の教えに出会うことができるのです。

 禅の言葉や教えの中には、一般の人々には理解しにくい面もあるかも知れませんが、ここで説かれている「慕古」の精神は分かりやすく、現代の一般社会においても大切なことです。なぜならば、先人への感謝と報恩の敬慕の姿の中に、先人の精神が生きていくことでありますし、さらに私たちの姿が、そのまま後人の鏡となって次の世を形成していくからなのです。  新年を迎え、古(イニシエ)の教えに耳を傾け、過去の優れた教えを汲み取ると同時に、新たな気持ちで更なる一歩を築き上げて行きたいものです。


解説
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