貞昌院の古い絵葉書

昨日、教区寺院O師より、とあるルートから入手された古い絵葉書をお譲りいただきました。
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キャプションに「永谷天神山貞昌院」とありますので、貞昌院で作成した絵葉書です。

ここで、作成された年代を知るうえで、郵便はがき・絵葉書の歴史から見ていきましょう。

 

宛名面には右からの横書きで「きかは便郵」と書いてあります。
まず、ここから得られる情報があります。

右から左に「きかは便郵」と記載、「か」に濁点の無いものは明治33年から昭和8年2月まで
右から左に「きがは便郵」と記載、「が」が濁点になっているものは昭和8年2月から終戦まで
左から右に「郵便はがき」と記載されているものは戦後に作られたものです。

従って、明治33年から昭和8年2月までのものであることがわかります。

 

次に、やはり宛名面ですが、ここに通信文を書くことができる部分があるかどうかで時代がわかります。

通信文を書くエリアが無いものは明治6年〜明治40年3月まで
通信文を書くエリアが下1/3のものは明治40年4月から大正7年3月まで
通信文を書くエリアが下1/2のものは大正7年4月以降のもの

ということで、大正7年4月以降のものであることがわかります。

ここまでの情報で、大正7年4月から昭和8年2月までの間の絵葉書だということがわかりました。

 

次に、絵葉書の部分の写真を見てみます。
向拝の無い、現在とは異なる屋根形状です。
これは、関東大震災により本堂が倒壊し、それを再築した時の屋根形状と同じです。


嗚呼大正十二年九月一日午前十一時五十八分忽然トシテ貞昌院本堂及ビ山門ハ倒潰シ庫裡ハ半潰セリ、是レ即チ関東大震災ニシテ、東京、横浜全都市ハ灰燼ニ帰ス。
抑々本堂ハ明治三十四年三月新築セシモノニシテ閲年二十三年、其ノ間、檀信徒ノ各位ノ熱心ナル尽力ニ因リ須彌壇成リ、仏器法具備ハリ法要ノ修行ニ支障ナキ二至リシニ、一朝大震災ノ為二建物什器共ニ原型ヲ存セザル惨状ヲ呈セシモ、幸ニシテ、本尊十一面観世音菩薩尊像、今生天皇陛下聖寿牌ノ二基ノミハ全ク寸暇ナキヲ得タリ、皇威ノ高キト仏徳ノ大ナル。唯々感激ノ極ミナリ。
檀家各位ハ自家ノ復興ニ日モ足ラザルニ、災後期年ニシテ堂守ノ再興ニ企図シ本年九月四日先ズ世話人会議ヲ開キ次イデ同月六日檀家総集会ヲ開催シテ附議セシニ、全会一致再築ニ着手スルコトニ議決シ、建築委員ヲ挙ゲテ経営ニ当タラシメ、各自浄財ヲ喜捨シテ其ノ資トシ以テ祖先ノ精霊ヲ安ゼントス、善哉々々、茲ニ篤志ヲ録シテ後日ニ遺スト云爾
大正十三年 九月六日 貞昌院住職 亀野源量

以下 建築委員名簿、本堂再建資金寄附名簿
(貞昌院二十八世無外源量大和尚遺稿)

関東大震災の発生が大正12年9月1日、その3日後の9月4日に世話人会議、5日後に檀家総集会が開催され、本堂の再築が決定されます。
そこで作られたのが 貞昌院本堂再築図です。(先人の教えに学ぶ地震の教訓

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この図面の本堂がまさに絵葉書の本堂でありました。

本堂の再築が成ったのは翌年大正13年ですから、その落慶記念にこの絵葉書が作成されたものと推測されます。
本堂正面に掲げられた横断幕は落慶式典に併せて作られたものなのでしょう。

ということで、絵葉書として印刷され、落慶記念で檀家の皆さんに配られた記念品なのだろうということがわかりました。

せっかくなので早稲田大学によるディープネットワークを用いた白黒写真の自動色付け を行ってみました。

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当時は六地蔵が本堂正面向かって石畳の右側に有ったということや、戦時中供出された一対の天水桶など、さまざまなものも写っており、とても貴重な絵葉書です。

改めてO師に感謝申し上げます。

投稿者: kameno 日時: 2018年3月30日 00:57

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