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平成26年3月31日、全日空(ANA)の定期運行として747-400旅客機最後のフライトが終了しました。
最後の運航は那覇発羽田行きANA126便。羽田に15時着のところを13分遅れで着陸しました。
ジャンボジェットの愛称で親しまれたボーイング747は、JALが1970年4月に導入した「JA8101」から丸44年で、日本での旅客機の幕を閉じることとなります。
また、ラストフライトとなった747-400はJALおよびANAが1990年に導入した機種です。
折角の機会ですので、家族で最後の着陸を観に行ってきました。
定刻から13分遅れで那覇から到着したANA126便は、多くの人に見送られながらぐるりと展望フロアFLIGHT DECK TOKYO前のターミナルゲートを旋回して行きました。
(↓スカイツリーを背景に、787の横を通過するANA126便)
TV局の取材も多かったですね。
見学ロビーにこれだけ人が溢れることはめったにありません。
ANA:虹のアーチくぐり歴史に幕 ジャンボ引退
ジャンボ機の愛称で親しまれた全日空(ANA)のボーイング747−400D型機が31日、沖縄・那覇から東京・羽田へ飛んだNH126便で最後のフライトを終えた。消防車による放水でできた虹のアーチをくぐって、日本の航空会社によるジャンボ旅客機の歴史は幕を閉じた。◇仲間の遺影と飛んだラストフライト
3月14日、ジャンボ機の退役イベントに深く関わり、ラストフライトへの乗務を望んでいた鈴木博之機長が、53歳の若さでラストフライトを見届けぬまま、病でこの世を去った。同僚が「気さくな男前で誰からも愛された」と語る人柄は航空ファンだけでなく管制官らからも愛された。
ラストフライトにのぞんだパイロットたちは、鈴木さんの遺影とワッペンとともに羽田へ降りた。
フライトを終えた神田丈司機長は「このフライトが私にとってもラストフライト。最後の年に長期病欠したときに、パイロットへ復帰するために強く後押ししてくれた。ここで握手をしてありがとうというはずだった」と仲間をしのんだ。ラストフライトの副操縦席に座った藤村弘機長は「747−400のメンバーは博之の無念を抱いてやってきた。一番悔しかったのは彼だったと思う。(無事に終わったことを)報告したい」と語った。◇心の中で飛び続けるジャンボ
午後3時すぎ、羽田にジャンボ機が降り立った。チーフパーサーとして乗務した客室乗務員(CA)の千葉陽子さんが「20世紀、21世紀と二つの世紀にまたがって皆様に愛されたボーイング747−400は、本日を持ちまして皆様の心の中に着陸させていただきます」とアナウンスすると機内は拍手に包まれ、CAの一人は涙を抑えきれなかった。到着後、藤村機長が篠辺修社長にラストフライトの報告を行った。また引退式には747−400型機初便に搭乗した乗客と当時のチーフパーサーも出席。乗客からジャンボ機への熱い思いを込めたメッセージが読み上げられた。
◇ジャンボ機の魅力
「何で、ジャンボから777に変更したんだ」
ジャンボ機退役へのスケジュールが具体化しつつあった2年前、乗客から届いたクレームが、ジャンボ機のパイロットたちを奮い立たせた。退役が迫るにつれ、ジャンボ機を追う航空ファンは日増しに増えていった。当時、機長として乗務していた鈴木靖彦さん(44)は「他機種への移行などで、徐々に職場が小さくなっている時期だったが、我々は必要とされているんだと感じた瞬間だった」と語る。パイロットから見たジャンボ機の魅力を鈴木さんは「2階席のコックピットは他とは景色が違うし揺れに強かった」と話す。
別の航空会社でジャンボ機の機長を務めたパイロットは「かなわぬ願いだが、会社の垣根に関係なく、もう一度(エンジンの出力を調整する)4本のスラストレバーに手をかけて、横に細長い窓越しの景色を見ながら操縦してみたかった。一時代を築いたすばらしい飛行機だった」とジャンボ機への思いは何年たっても変わらないという。◇多数のファンに見送られ
フライトを終えたジャンボ機が、第2ターミナルの64番スポットに再び姿を見せると、多くの航空ファンは、ジャンボ機の雄姿を前に思い思いの形で別れを告げた。共通した思いは「ありがとうジャンボ。あなたに会えて良かった。」だった。
(毎日新聞 2014年03月31日)
ひとつの時代が終わったのですね。
ちょっと寂しい気がします。