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私たちは他の人と何らかの関わりを持って生きています。
けれども、この世での関係性は、死によって断ち切られてしまいます。
それゆえに、特に身近な方を失った時の悲しみは言葉に表しがたい苦しみであり、悲しみであります。
お葬式や年回の法要儀式は、きっと関係性の変化による苦しみ、悲しみを整理し、それを乗り越えるために生まれたのでしょう。
そう考えると、法要儀式は「故人が安らかならんこと」を願うばかりではなく、それと同時に、「遺された人がどのように生きていくのか」、それを考え、実践していく祈りの場であるとも言えそうです。
お釈迦さまは、自分の死を迎えるにあたって、周りに集まり、嘆き悲しんでいる弟子たちに「悲しむことはない。私の教えは、お前たちに全てしっかり伝えた。だから、その教えを怠らずに実践していきなさい」
と諭されました。
お釈迦様の教えは、今でも受継がれ、生き続けています。
故人の思いを生かすということは、遺(のこ)された者がしっかりと悲しみを乗り越え、受継いでいくということです。そして、その姿を、仏さまが温かく見守ってくださっています。テレビ朝日系列『やじうまテレビ!』きょうの説法より
身近な人を失った悲しみは、大きいものです。
この世の中は「無常」とはわかっているものの、その悲しみは計り知れないものがあります。
今回の法話は、お葬式のような弔いの法要の意味合いについて、触れさせていただきました。
悲しいときには、大いに声をあげて泣きさけぶということも必要です。
そして、100日目を迎えた時に行なう法要を、百か日=卒哭忌(そっこくき)といいます。
これは、「哭(=声をあげて泣きさけぶ)ことを「卒」(=一区切りして終える)という意味です。
故人を思い、泣き悲しんでいた親族や近親者たちも泣くことをやめる時期が、百箇日を迎える頃だ、ということです。
死別の悲嘆を乗り越えて、故人の思いを受継いでいくこと、それが故人が一番喜ぶことなのではないでしょうか。