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大手予備校の現代文講師、林修先生がちょっとしたブレイクをしています。
これを仏教的にいうと
他不是吾(他は是れ吾にあらず)
更待何時(更に何れの時をか待たん)
になるでしょう。
このことばは、仏道を求めて宋に渡った道元禅師が天童寺の老典座和尚から言われたことばです。
まだ24歳の青年僧だった道元禅師は、炎天下にお寺の回廊脇で、茸を並べて干している一人の老僧、典座老師に出会います。
杖をつき、笠もかぶらず、汗だくになって夢中で干しています。
道元禅師は、このような仕事は若い修行僧に任せればいいのに、と疑問に感じ、典座老師に尋ねます。
「なぜ、この仕事をご老僧のあなたがやらなければならないのですか?」
「他不是吾」(他は是れ吾にあらず=他人のしたことは、私のしたことになならない)
「この炎天下、暑いですから、いまは、仕事を少し休んで後にしてはいかがでしょうか」
「更待何時」(更に何れの時をか待たん=またと無いこの時をやりすごしてしまって、いつの時を待とうと言うのか)
この問答で、道元禅師は自分の至らなさを悟ったといいます。
空間軸と時間軸の中で、確固たるものは、この自分であり、この今という一瞬です。
「この今」は、仏教のことばで「而今(にこん)」といいます。
時間軸のうち、過ぎ去った過去の時はもうそこに立ち戻ることは出来ない。また、これからの未来は不確かでどのようになるか分らない。
ただ、確かな「現実」は「この今」だけなのです。
このことを玄侑宗久師は次のように表現しています。
客観的存在も客観的時間も存在せず、世界は吾有時(わがうじ)そのものであると禅師は云う。「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり」
私は「有時」を理解するために、「物語」という言葉を使ってみた。
たとえば「昨夜寝て今朝起きた」と、我々は簡単に言う。しかしそのことは、「寝たときの今」と「起きたときの今」を「排列」してできた認識である。換言すれば「昨日寝て今朝起きた」という小さな「物語」なのだ。我々はそうした「物語」を産むことで時間をあらしめ、また自己存在を認識することになる。
むろん「排列」する際には省略も含む。たとえば「最近私はとても調子がわるい」という時間と自己を提出しようと思えば、たまたま調子がよかったことは全部省き、美味しかった夕食もはずし、面白かった映画や彼女との会話も削ぎ落としてようやく成立する「物語」なのだと知るべきだろう。つまりあらゆる時間もそこでの自己存在も、厳密な意味ではフィクションなのである。
過去・現在・未来と、時が一つの方向に流れていくなどと思うのは、仏道を専一に学んでいないからだと禅師は云う。三つの時制は実は「つらなりながら時時」と並んでおり、それを我々は「経歴(きょうりゃく)」している。この「経歴」こそ、「排列」からさらに複雑化した「物語」と云えるだろう。一つの「物語」を語るために、我々は無数の「有時」を如何様にもアレンジし、改変すると云うのだ。
(2003アンソロジー「有時するということ」より一部引用)
仏道を学ぶ人は、「後でやろう」などと考えてはいけません。
過去も未来も不確かなものなのだからです。
これは、仏道に限らず、全てのことに当てはまると感じます。
私自身も、同時進行で様々なことをこなさなければ成らなくなる場合があります。
その時も、やむをえず「後回しにした」ことは、良い結果とならないことが多々あります。
やはり、「この今の瞬間」を大切に、やるべきことはやるべき時にやる、それが大事なことなのだと肝に銘じています。
今日、このときをぼんやりと過ごさず、その日その日、その時、その時を送らなければならない。
みなさんは、自身に託された仕事をいつやりますか?
「今でしょう!」
齢84にして、なお今、反省と感銘に浸る!まだまだ「やる事やれる事」有り也!
投稿者 明石たかよし | 2014年4月26日 13:56