言語表現はいかにして多値論理体系で説明できるか5

ようやくタイトルの内容に入っていきます。
まずは、多値論理学としての三値論理について基本を整理してみましょう。

論理学は、形式的な真偽(経験によらない真偽)を扱うことから、形式論理学ともよばれます。

私たちは、直接的・間接的に観察した事実に基づき、自分の意識的もしくは無意識的に思考し、推論し、判断を行います。
この思考過程の合理的部分を普遍的に推論できるようにしようとの試みが論理学の原点なのです。

弁証法論理学のように経験的な真偽も論理学の範疇で取り扱おうとする立場もありますが、形式論理学自体は普通、命題論理と述語論理にわけて考えます。

命題とは、真偽を与えることのできる文章のことであり、命題のもつ真偽いずれかの値を真理値とよびます。
つまり、「明日の天気」「今日私が通るべき順路」などは、真偽値以外の値をとるのであるから、命題とはいえないし、また、「臓器移植は倫理的である」「○○さんはかわいい」などは、個人の信念や嗜好に左右され、命題とは言い難いものです。

しかし、いわゆる命題の本質を考えると、命題のとりうる値が真偽二値に限るという立場は、必ずしも絶対ではなく、ここに真偽不明という可能性を残した多値論理学への発展も考えられるのではないかというのが本論の目指すところです。
さらに、曖昧さを強調したファジー論理などがあもありますが、ここでは多値論理学について考えていきましょう。

記号論理学では、文によって示された論理を記号で表現し、それを機械的な操作によって推論を進めていきます。

この部分普遍的な推論という意味で重要なところです。

操作の対象は記号により表されている論理式が中心となります。
この論理式の対象は形式規則により定められ、推論の記号操作は推論規則により規定されます。いわば代数学の式の変形に該当するものです。


真理値が真か偽しか無い場合、例えば

「あした雨が降るか降らないか」

という文があった場合、これを二値問題として判定することはできません。
なぜならば現在において雨が降ることが真であるか偽であるかは判定不能だからです。

しかし、我々の直感として、この文は正しい(真)ということがわかります。

なぜならば雨が降る降らないは不明であるが、降るか降らないかのいずれかになることは排中律から明白であるからです。
つまり、個々の真偽が不明確であるからといって命題そのものが必ずしも真偽値不明であるとは限らないのです。

真偽の他に第三の真理値をとるという三値論理学はこのような観点から生まれました。
三値論理学として様相論理学を構成したルカシェビッチは次のように述べています。

私は二値の原理を克服しようと試みた。すなわち私は、次に示すごとき思索によって、それを行ったのである。 私は、自分が来年のある時点、たとえば12月21日の正午にワルシャワにいることは、今日においては、肯定的にも否定的にも決まっていない、と矛盾なく考えることができる。したがって、私が所定の時刻にワルシャワにいるであろうことは、可能とはいえ、必然的ではない。かかる前提のもとで、「私は来年の12月21日の正午にワルシャワにいるだろう」という言明は、今日の日において、真でも偽でもありえない。なぜなら、万一その言明が現在真であるとしたならば、そのとき、私が将来ワルシャワにいることは必然的とならざるをえず、これは前提と矛盾する。

また万一その言明が現在偽であるとしたならば、そのとき私が将来ワルシャワにいることは不可能とならざるをえず、これもまた前提と矛盾するのである。
それゆえ、考察されている命題は、今日という日においては真でも偽でもなく、第三の“0”ないし偽と“1”ないし真とのいずれとも異なる値を取らなければならない。わたしはこの値を“1/2”と表すことができる。これは「まさに可能なもの」であり、第三の値として「偽」「真」に匹敵するようになるのである。

『命題多値の体系についての考察』 ヤン・ルカシェーヴィッチ 『論理思想の革命』 石本新訳 東海大学出版会


ルカシェビッチは、このように、真理概念を主観と時間に依属・相関的なものと解釈しています。つまり、真偽値不明な命題も主観・時間によりある真偽値をとる可能性があるとの主張です。

そこで、この主張に則り

「あした雨が降るか降らない」 p ∨ ? p

という文を三値問題として考えてみましょう。

(以下続く)

投稿者: kameno 日時: 2006年11月 2日 07:28

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