大本山總持寺に祀られるミイラ仏

大本山總持寺では、毎月25日に常照殿(じょうしょうでん)において無際大師月忌(むさいだいしがっき)法要が営まれます。

【常照殿に於いて無際大師月忌 差定】
 ・前後三拝
 ・参同契
 ・回向(上慈恩)
(正当十二月は九拝差定・逮夜有)


常照殿は、仏殿の左手にある放光堂(ほうこうどう)の、さらに奥にある納骨堂です。
昭和44年に、不審火により焼失しましたが、その2年後に再建されました。

さて、冒頭で述べた、無際大師の法要が、この常照殿で営まれるということには、特別な意味があります。
まずは、總持寺のホームページをご参照ください。
http://www.sojiji.jp/honzan/map/20-jyosyoden.html

その説明記述には

「中国禅宗第8祖・石頭希遷禅師と伝えられる即身仏(ミイラ仏)が祀られています」

とあります。
ミイラ仏が祀られていることを知らない方は多いのではないでしょうか。

まずは、石頭希遷大和尚(無際大師)がどのような方なのかを見てみましょう。

石頭希遷大和尚(せきとうきせん: 700-790年)は、無際大師の号でも呼ばれ、中国唐代の禅僧。六祖慧能大和尚の弟子である青原行思大和尚の弟子であります。
曹洞宗で毎日読まれる経典に『参同契(さんどうかい)』がありますが、『参同契』は石頭希遷大和尚により撰せられた経典です。


【南方禅宗の系統図】

六祖慧能┳南嶽懐譲━馬祖道一━百丈懐海┳為山霊佑━仰山慧寂 → 仰宗 
      ┃                     ┗黄薜希運━臨済義玄 → 臨済宗
      ┗青原行思━石頭希遷┳薬山惟厳…洞山良介━曹山本寂 → 曹洞宗
                     ┗天皇道悟…雪峰義存┳雲門文偃 → 雲門宗
                                    ┗玄沙師備 → 法眼宗


達磨大師によって現在の中国に伝えられた仏法の流れが、「中国禅」として確立したのは六祖慧能大和尚の時代といえます。
上図のように、慧能大和尚から青原行思大和尚と南嶽懐譲大和尚に分かれ、それぞれが曹洞宗、臨済宗として日本に伝わっています。


さて、このような重要な祖師のミイラ仏が何故大本山總持寺に祀られているのか。
その理由については『日本のミイラ仏』 松本昭著 臨川書店 に記載されています。

それをまとめると次のようになります。

■石頭希遷大和尚は、湖南省南岳(衡山)の南台寺で790年に91歳で入寂。勅命で無際大師と謚された。遺体はミイラ仏とされ、湖南省の寺院に安置された。
■辛亥革命(1911)の時にミイラ仏を祀った寺が革命軍により焼かれたが、石頭希遷大和尚の研究家・山崎彪氏が火の中からミイラ仏を救い出し、三井物産の船で日本に運んだ。
■山崎彪氏は「大師奉讃会」を結成。日本各地でミイラ仏の御開帳を行い、その一環として大正博覧会(大正5年)にも出品された。その折の絵葉書は現存。
■「大師奉讃会」の平野氏によりミイラ仏は昭和5年に青梅市の山寺に祀られ、山名を石頭山とした。
■戦時中、このミイラ仏を祀った寺は陸軍の結核病棟となり、石頭山は荒廃した。
 ⇒現在、石頭山の場所には「太陽聖髪教団」という宗教法人が設立され、天寿塔(納骨堂)が建られています。
■戦後、松本昭氏が平野氏の息子からミイラ仏を譲り受け、日本ミイラ研究グループのものとして早稲田大学・安藤更生教授の研究室に安置された。
■人類学者・小片保博士の鑑定により、「頬と膝の辺に漆布を貼った断片が残っており、人類学的にみても、長頭で中国人の相当古い時代のミイラと思われる」とされた。漆布を貼るのは、中国独自のミイラ製造法で、他国にはその例がない。
■その後曹洞宗大本山總持寺がこの事実を知り、副貫首であった乙川瑾英禅師が再三再四松本氏に要請し、昭和50年より大本山總持寺常照殿に永久に祀られることになった。


・・・というように、実にドラマチックな歴史があったのですね。


photo101.jpg
石頭希遷大和尚のミイラ仏 (『日本のミイラ仏』より)


【補足】

 『参同契』

 竺土大仙の心、東西密に相附す、人根に利鈍あり、道に南北の祖なし、霊源明に皓潔たり、
 支派暗に流注す、事を執するも元これ迷い、理に契うも亦悟にあらず、……


『参同契』の意味は

『参』=千差万別などの意とそれが常に変転極まりなき状態の現象界(現実)
『同』=同一、同等、合同、和同など・・・差別・区別が無い不二一如、不二同体、本来同根一体であるという実相真理
『契』=諸法と実相が契んで融和すること


『参同契』こそ、曹洞宗の哲理の根源だとされます。

 霊源 ←→ 支派
 明  ←→ 暗
 事  ←→ 理

という対照的な言葉を用いて、宇宙人生の本来は昏冥として平等な存在であるという原理と、その一面、顕然として差別ある様相を語って、共に真理であることを示しています。

また、石頭希遷大和尚の教えを発展させ確固たるものにしたのが洞山良介大和尚(807-869年)であり、『宝鏡三昧』という経典をまとめました。
曹洞宗門では、『参同契』と『宝鏡三昧』を共に重んじて、続けて読経することが多いのです。

投稿者: kameno 日時: May 14, 2006 5:48 PM

コメント: 大本山總持寺に祀られるミイラ仏

> kameno先生

石頭禅師が青原禅師へ参じた因縁は非常に興味深いものがありますね。

六祖慧能禅師に参じていた石頭和尚は、慧能禅師の死が近いことを知ると、「禅師様が亡くなったら私はどうすればよいのでしょうか」と聞くと、慧能禅師は「尋思去」と言います。この語は、「思いにしたがって行け」という意味ですが、これを「思を尋ねていけ」と取ったというので、行思という名前であった青原禅師に参学したと言うことです。

この記事を、道元禅師は『正法眼蔵』「仏道」巻に於いて高く評価しながら、石頭禅師を「仏道の正命なほ東地にのこれるは、石頭大師もらさず正伝せりしちからなり。」とされます。そのミイラが總持寺にあると聞いたときには驚きましたが、色々なご縁があったようですね。

投稿者 tenjin95 | May 14, 2006 6:33 PM

tenjin95さん、早速のコメント有難うございます。RSSの効能ですね!
歴史の因縁というのは本当に不思議なものです。私も安居時代新到の頃は、ミイラ仏があるとも知らずに無際大師月忌で参同契を読んでいましたが、後で知って吃驚の一言です。
六祖慧能大和尚のミイラ仏は、広東市南部の南華寺に奉納(というよりガラスケースの中に展示)されているそうですが、一度拝登したいものです。

投稿者 kameno | May 14, 2006 7:25 PM

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