地域の歴史探検

上永谷は歴史的にも文化的にも古来から重要な場所です。
(郷土誌の詳細に興味ある方は「永野郷土誌」をご覧ください

地元小学生たちが歴史探検であちこちを廻っていますが、その一つとして今日、貞昌院を訪れました。

客間に航空写真が時系列的に展示してあります。上永谷の町が発展する様子がよく分かります。
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天井絵や欄間の彫刻などに興味津々。
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にわか作りですが、下のような資料を作って配りました。
児童のみなさん、それぞれに地元の歴史に興味をもっていただけたようです。



(1)梅ばちの紋をみつけてみよう

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↑梅ばち

永野小学校の校章は、永谷天満宮と貞昌院の梅ばちが元になっています。

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【永野小学校の校章】 日本の三体の名社,天満宮の誇(ほこり)をそのまま菅原道真と梅花による 梅ばちを学校の校章とする      【永野小学校ホームページより】

なお、貞昌院の先先代住職、亀野源量和尚、先代住職、亀野寛量和尚は永野小学校の校長先生でした。

(2)自然の湧き水

貞昌院の池の水は、山に自然に涌いた水です。
夏でも冷たいきれいな水が流れてきます。

(3)太陽光発電

貞昌院の電気は、太陽の光で発電した電気を使っています。

(4)本堂の龍の彫刻

300年くらい前に彫られたものです。そのほか、天井の絵など珍しいものがたくさんありますので見ていってください。

(5)勝海舟の書

永野小学校に勝海舟の書があると思います。
貞昌院にも勝海舟の書があります。詳しくは下の「勝海舟の書と永野小学校」を見てください。
永野小学校の前身、永谷学校の初代先生だった平野玉城先生は勝海舟の家来でした。平野玉城先生のお墓は貞昌院の墓地の中にあります。

(6)航空写真

上永谷の周辺は、30年位前までは田んぼと山ばかりののどかな町でした。
昭和50年代に市営地下鉄の駅が出来てから、町の様子が変わっています。航空写真で見てください。

(7)永谷天満宮

明治時代まで、貞昌院と天満宮は一緒でしたが、明治時代以降、お寺と神社に分かれました。
永谷天満宮は,勉強の神様、永谷の天神さまとして親しまれ,菅原道真が,自分の姿を鏡に映して自分で刻んだ,三つしかない木像のうちの一体をもつ神社として,知られています。
 菅原道真は,平安時代の人ですが,醍醐天皇の信頼が厚く,時の支配者である藤原氏と対立し,延喜元年(901)九州の大宰府に流され,延喜三年その地で亡くなりました。
 文学や文章を書くことに,すぐれていましたので,学問の神様といわれています。
 菅原道真には,十三人の子どもがおりましたが,その第五子敦茂は,父の才能を受けつぎ菅秀才と呼ばれるほどで,父の道真も大いに期待し,三体の道真像のうちの一体を,そっと渡していたのでしょう。父の道真と共に,子どもたちも都から各地に追放されました。
 伝説によると,敦茂は永谷の郷に移されたということです。
 菅秀才敦茂が,相模に住んだという記録はありませんが,いまの上永谷の天神山のふもと,つまり,現在の貞昌院あたりに住んでいたと伝えられています。
 敦茂は,天神山の頂上に立ち,はるか遠くの九州太宰府の父,道真公をしたいながら,朝夕のご挨拶をされたということです。
 天神山の上には,敦茂が愛用した筆や,髪の毛を埋めたとも伝えられる,菅秀塚の碑があります。
 むかし,その塚の上にあった杉の老木を切ったところ,村の人びとがケガをしたり,病気になったりしたと伝えられています。
 菅原敦茂がいつ生まれ,いつ死んだのか,くわしいことはわかっていません。文章博士や,そのほか重要な役目につぎつぎとつくなど,親子二代の学者として有名でした。
 道真像は敦茂から多くの人を経て,上杉乗国に伝えられ,明応二年(1493)ここに社を造り,ご神体としておまつりしました。これが現在の永谷天満宮です。
 他の二体の道真像は,道真のお墓のある福岡県の安楽寺と,生まれたところの大阪府の道明寺にあります。

(8)勝海舟の書と永野小学校

今から百三十年ぐらい前のお話です。
 江戸幕府と言って、武士が政治を行っていた頃は、今の学校にあたるものは寺子屋でした。子どもたちが通い、「読み」、「書き」、「そろばん」を習いました。
 しかし、女の子や貧しい家の子は、なかなか行かれなかったようです。
 江戸幕府の政治は、新しい世の中についていけずたおれました。
 新しく生まれた明治政府は、新しい政治を次々と行いました。新しい学校制度により、寺子屋にかわる『永谷学校』ができ、その『永谷学校』という学校名を、勝海舟というとても偉い方が書いてくれました。
 この「書」が、いまも横浜市立永野小学校の宝物として、たいせつに残されています。
 この勝海舟という人は、「黒船」がわが国に貿易を求めてやって来たころ、西洋の学問や海軍のことを学んでいました。
 幕府の役人軍艦奉行になり、咸臨丸という幕府の軍艦の艦長として、日本人による太平洋を横断した最初の人です。
 幕府が倒される時は、新政府軍の西郷隆盛と話し合い、江戸城を明け渡し、攻撃を中止させて、江戸の町民や江戸城を戦火の緋那から守りました。
 また、新しい明治政府では、海軍卿など大事な任務につき、江戸から明治にわたる、二つの時代にまたがる大政治家でした。
 こんな大政治家が、こんな小さな『永谷学校』の校名を書いてくれたいきさつには、次のような平野玉城と永谷学校にかかわる出来事がありました。
 
 玉城は、江戸に生まれ代々江戸幕府の家来でした。慶応四年(1868)の夕がたごろ、下永谷の村長福本さん宅へあわただしく、
「たのもう」
 と、飛び込んで来た者があります。
「私は江戸幕府の役人で勝海舟の家来、平野玉城と申す者。幕府を倒すために江戸城へ進撃中の新政府軍西郷隆盛の動きをさぐるためにきたところ、敵方に見つかってしまい、この永谷へのがれてきました。ぜひ私をかくまってくだされ。お願い申す」
「よろしい!」
 福本さんは立派そうなこの武士を、醤油蔵にかくまってやりました。
 しばらくすると、政府軍の兵数名が来ました。
「確かにこの家へ幕府方の武士がやって来たようだが、すなおに居場所を申せ!」
「おおせのとおり、今しがたこの玄関へやって来て、ためらっていましたが、何も言わず、すぐに右手の竹やぶの方へ消えて行きました」
「さようか!?」
 強そうな二人が残って、他の者は竹やぶへ飛んで行きました。
 母屋、物置、蔵と屋敷中を探しましたが見あたりません。
「さては、取り逃したか」
 一同は引き上げて行きました。
「ああ助かった!」
 玉城は命拾いをしたのでした。
 5年後、玉城は命の恩人、福本さん宅をお礼に訪れました。そして、村人たちとも当時のことを話し、懐かしみました。
 この方に永谷の寺子屋の師匠をお願いし、子どもたちの手習を頼みますと、こころよく引き受けてくれました。
 翌、明治6年、玉城師匠は村人のすすめで永谷学校の先生になりました。
 先生が就任すると、入学者が急にふえました。
 建物が狭くなり、父母たちは見るにみかねて、明治12年、永谷村に永谷学校の校舎を村人の手で作りました。
 玉城先生は、その落成記念式にあたって、むかしつかえた師匠勝海舟に、永谷学校の校名の書をお願いしました。
 喜んでお受けくださり、さっそく送られてきました。
 日本の夜明けの一大政治家勝海舟も、玉城の恩人ともいえる村長福本さんのことをよくわかってくれていたのでしょう。
 やがて明治22年、永谷、下野庭、上野庭の三村が合わさって、「永」と「野」の二字をとって永野村が生まれました。
 それにともなって校名も、『永谷学校』は『永野学校』とかえられましたが、今もこうして、『永谷学校』の伝統の書が残っているわけですね。

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投稿者: kameno 日時: 2005年4月28日 23:02

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