No.48
若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念被観音力 疾走無邊方 ﹃観音経﹄の一節 ︵読下し‥若しは 悪獣に囲まれて 利き牙爪︵きばつめ︶の怖︵おそ︶るべきに 彼の観音の力を念ぜば 疾く無辺︵むへん︶の方に走りなん 観世音菩薩は、この世の中の人々にあまねく救いの手を差しのべる菩薩という意味です。 人によって、救済の願いは千差万別です。生きとし生ける者それぞれが、数え切れないほどの苦しみや悩みを抱えていることでしょう。﹃法華経﹄﹁観世音菩薩普門品二十五﹂には、楊柳・白衣・青頸・阿摩堤・葉衣・多羅・水月・魚籃・蛤蜊・馬郎婦など、人々の救済のために臨機応変に姿を変える三十三もの観音様が出てきます。 苦しみ、悩みを受けたとき、﹁念彼観音力﹂、すなわち観世音菩薩の誓願力を一心に称えるならば、観世音菩薩は直ちにその﹁音声﹂を﹁観﹂とって﹁世﹂の人々を救済する、これが観世音菩薩という名前の由来です。 このように、観世音菩薩は、いつ・どこへでも人々を救うことができると考えられている有難い存在なのです。人々の救済の願いは海のごとくに深く、嶺のように高く、私たちの頭のなかでは思い及ばないほどであります。 私たちが救いを求める状況にはどのようなものがあるのでしょうか。観音経の中では、まず、火難、水難、風難、刀杖難、鬼難、枷鎖難、怨賊難という七難が挙げられています。さらに加えて十二難が続きます。経文では﹁念彼観音力﹂の印象的な繰り返しを使っているのが特徴の部分です。とても多くの困難が私たちの周りに存在するのです。 大自然に囲まれた生活をしていた時代には、身の危険にさらされることが頻繁にありました。猛獣に出くわしてしまうことは、それは大きな恐怖であったことでしょう。 このような時、ひたすらに、観世音菩薩の誓願力を念じなさい、そうすれば、恐ろしい猛獣たちはたちどころに遠くへ走り去るでしょう、と経文は説いています。 ここで、一旦視点を変えて考えて見ましょう。人間の体は、猛獣に出くわすような大変な恐怖を感じたときに、体内ではアドレナリンを一挙に分泌します。アドレナリンは、気付け薬のような働きをするホルモンです。すなわち、猛獣に立ち向かうための自然の仕組みであるといえます。いわば生物学的な自己防衛の仕組みです。 しかし、このアドレナリンは、毒性をも併せ持っています。肉体を激しく動かせばこの毒性は解消されるそうです。つまり、身の危険から逃れることが出来ると、自然にアドレナリンも役割を終えるという、実に良く出来た仕組みになっています。 私たちは文明の進展により、古来からの困難を克服してきたように思えます。猛獣に出くわすということも滅多にありません。けれども、苦しみや悩みなどはすべて解消されたのでしょうか。むしろ世の中の仕組みが複雑になってきたことにより、私たちの苦しみや悩みはさらに増える一方のように感じます。生活が豊かになり、衣食住が足っていても、常に何かが足りないという感覚に囚われるのは、生活を満たすために我々が忙しく立ち働き、慌ただしくざるをえないからかもしれません。 忙しく、慌ただしい生活は、﹁落ち着き﹂と﹁静寂﹂を欠いた生活ともいえます。現代人が手に入れたいと切実に願っているものは、目まぐるしく動き続ける慌しい毎日から、ほんの少し離れることのできる、ホッと一息つける﹁時間﹂や﹁空間﹂ではないでしょうか。 近年、﹁癒し﹂がブームとなりました。私たちが自然にそなえた防衛本能と、生活スタイルのずれがもたらす歪みを癒すということが注目されてきたということが考えられます。先程の例で言えば、アドレナリンを解毒するのが免疫システムで、その免疫力を高めるのが﹁癒し﹂であります。 読経や写経、坐禅なども癒しとして注目されています。苦しみや悩みに突き当たって、ひたむきな心を持って読経すること、これも癒しの一つといえそうです。 私たちは、読経することを通して、御本尊や観世音菩薩、そして御先祖を供養いたします。たゆまず仏道を実践すること、それは同時に、読経する私たちの身心の修行に還ってくるものです。わかりやすく言えば、自らが発した慈悲の光は御本尊や観世音菩薩、御先祖に届き、はね返って自らの徳となり、自らをも潤すこととなるのです。これを回向返照と言います。 このように相互いに回向返照しあい、自らをも潤し、﹁癒し﹂をもたらす。それが読経による観世音菩薩の功徳であるとするならば、観世音菩薩が何処にいらっしゃるのか、なぜ猛獣が走り去っていくのか、その答えが自ずと見えてくるのではないでしょうか。