明治初年より大正頃の永野における教育
本稿は大正十年頃永野小学校長であった亀野源量氏︵貞昌院第28代住職︶の学制頒布五十年記年事業の一として村内各戸に配布した小冊子より載録す。
緒 言
本年は明治五年学制が頒布せられてより満五十年目に当るのであります、本村教育が此の五十年間に長足の進歩を為したる事は、実に制度の賜であって、お互に慶賀すべき事と思います。しかし我等は現状を以て決して満足は出来ないのであります。義務教育費国庫負担額が増額しても村の教育費負担額は減らしてはなりません。若し減らせば教育は進歩しないのであります。吾人は教育事業を増す方針を取らねばなりません。
本校が学制頒布五十年記念事業の一として、此の小冊子を村内各戸に配布せし所以は、挙村一致、教育第一を主義とせられん事を希望したからであります。
一、五十年前の永野村
試みに五十年前即ち明治の初年に朔りて、我が永野村を教育の方面より眺めてみたいと思う。実は明治の初年には永野村といふものは無かつたのである。永谷村、上野庭村、下野庭村があった。しかし、どの村にも学校はなかったのである。従って、人は幾つになっても教育を受けねばならぬといふ催促はなかったのである。
人々の中で、子供に学問をさせたいと望む人があれば、其の人の子弟ほ、寺院︵寺小屋と称した︶か、学問のある人の家に就いて教を乞ふのである。それ政男子と錐も自分の名の書けない者が随分あったのである。女子に至りては、読み書きの出来るものは、村中捜して、一人か二人しかなかったのである。然るに、今日は邑に不学の戸なく、家に不学の人なしといふ有様である如何にして斯く著しき進歩を見たのであらうか。
二、学制頒布
明治五年八月に学制が頒布せられたのである。学制とは学校の制度といふ事で教育に関する規則である。
其の大要は、
イ、日本国中を八大学区に分けて、其の一つ一つに大学を一校づつ設置する事
ロ、一大学区を三十二中学区に分けて其の一つ一つに中学を一校づつ設置する事
ハ、一中学区を二百十小学区に分けて其の一つ一つに小学校を一校づつ設置する事
といふのである。故に学制に定められた通り、学校を設置すれば日本国中に大学が八校、中学が二百五十六校、小学が五万三千七百六十校設置せらるる筈であるが実際はその通り行はれなかったのである。
学制が頒布せられて、各村々では是非とも学校を設置しなければならぬ事になったのである。
三、学校の設置
学制が布かれて、学校を設置せねばならぬ事になったのであるが、それまで無かったのを創設するのであるから容易の事ではなかったのである。そこで永谷村にては字八木二千六百四十八番地棲心庵を仮校舎に充て、小林麗興氏を教師に特し、上野庭、下野庭両村にては下野庭村正広寺を仮校舎に充て、小林善冏氏を教師に聘し、何れも授業を開始したのである。
上野庭、下野庭両村では、明治十年十月に至り上野庭字前田町千六百九十八番地に校舎一棟を新築し、野庭学校と称した、現在の永野村役場の建物は野庭学校のそれである。
永谷村は明治十二年四月に至り、永谷字八木二千六百九十番地に校舎一棟を新築した。永谷学校と称し、現在の旧校舎は永谷学校の建物を移したのであって、当時に於いては、鎌倉郡中にて、有数の学校であったと伝えられている。
四、学校の併合
星移り時変りて、規則も度々改廃せられたのであったが、明治二十二年に至りて町村制が実施せられ、永谷、上野庭、下野庭の三村が合併して、永野村が組織せられたのである。そこで永谷学校と野庭学校とを併合して、永野学校と称する事になり、従前の永谷学校の建物を本校とし野庭学校の建物を分教場としたのである。
明治二十四年十一月小学校設備準則といふものが公布せられ学校を村の中央に置く事になって本校を現在の校地に移し︵注、現在の永野小学校の位置︶分教場の建物を移して役場︵注、現在の永野小学校講堂の位置︶とし、明治二十五年十一月に至りて現在の役場及び小学校が出来たのである。
小学校移転改築当時の校長は平野直吉氏であったが、明治二十五年十二月、沼亀次郎氏が之に替り、明治二十九年八月武谷長十郎氏が又之に替ったのである。
明治二十六年二月尋常永野小学校と改称したのであるが、当時の生徒数は、九十八人であって、経費予算は二百十八円、実に大正十一年度経費予算五千二百七十九円に比べると二十四分の一弱である。
五、校舎の増築及高等科の併置
明治四十一年小学校令が改正せられて義務教育が六ケ年になったのである。従って児童数が増し、教室が狭くなったので、明治四十二年五月、一棟の校舎が増築せられた。現在の新校舎がそれである。費用は千五百四十一円坪当り三十円で出来たのであった。
大正四年三月までは、尋常科のみ置かれてあったため高等小学校え入学を希望するものは、本郷小学校、川上小学校、日野小学校、大岡川小学校、等え依頼して就学させて貰ったのであるが、夫等の学校の都合で、拒絶せられる事も度々あった。斯かる有様で、父兄としても児童としても種々の困難にしばしば遭遇したのである。
従って高等科え進学する者は、尋常科卒業者の二割に満たなかった。そこで、大正四年度より高等科を併置したのである。今日では男子は、全部高等科え進入する状況である。
六、実業補習学校
本村に於いては明治四十四年九月農業補習学校を永野小学校に附設し、大正四年一月より女子部を加設して実業補習学校と改称したのである。
大正十年四月規程改正せられて、独立の学校となったが、校舎を建設する運びに至らないので、永野小学校に併設してあるのである。実業補習学校設置の趣旨は初めとは違って来た。即ち大正十一年十月十三日本県訓令第四十九号に依り﹁実業補習教育ハ小学校ノ教科ヲ卒へ職業二従事スル者ニ対シ職業ニ関スル知識技能ヲ授クルト共ニ、国民生活二須要ナル教育ヲ行フ施設﹂なる事が明かとなる。
大正十二年三月小学校を卒業するものは県の実業補習教育実施標準に依って、男女共実業補習学校に入学する事になるのである。
本村実業補習学校は、農業科並に家事裁縫科の専任教員を置く事が急務である。又何時までも永野小学校に同居して居ては、雙方不便であるから、校舎独立の建築も是非して貰わねばならぬのである。