十三、風俗習慣︵江戸時代より明治にかけて︶
一、袴着ノ礼、紐落ノ礼︵江戸時代︶
明治維新前、男子、七才に達すれば袴着の礼を行う。大体相続人を主にして二男以下は簡略にす。一家にとりて重要な礼として取り行われ、親戚隣組を招じ大宴会を催す。女子五才に達すると紐落の礼を行う。男子の袴着の儀よりは簡略である。
二、元服ノ儀︵江戸時代︶
男子十七才になれば前頭部及頂部の毛髪を剃り落して周囲の毛髪を杭き上げて留︵まげ︶を結ぶ、所謂、︵チョンマゲ︶と称する結髪で現在のおすもうさんに見られるような頭髪である。
女子は古来、皆結髪にして留の種類は多かりしと錐も一度婿嫁すれば丸髷に結び歯を捏し眉を剃る。之を女子の元服とした。
元服を了えて成人となり、大人の仲間入りを許され、 一人前扱いを受けるのである。一人前といっても若衆 の仲間入りで、明治中期頃よりの青年会へ入会出来た
程度に匹敵する。
明治七、八年頃より漸時、西洋文化が導入され文明 開化の波に風廃され、次第に西洋風の理髪に変遷し、年を経るにつれて︵チョンマゲ︶ の姿は漸減、又女子の既婚者と未婿者とを一見識別出来る捏歯︵歯を黒く染める︶落眉︵眉毛を剃り落す︶ の風習も次第に減少の一途をたどるようになる。永野地区最後迄︵チョンマゲ︶ で、通された方は、大正二年十月二十四日、爾来よりの結髪姿は影を止めず此の日限りとなる。
三、祭典
祭典の前日は夜宮と称し一日を祭典準備に費し、神社社殿内外の清掃﹁のぼり﹂の建立等をすませ、夜に入れば、神前に神酒を供え神燈を点じ、参道路上には五米置き位に地口とか、鳥羽絵を画きたる万隊を点じ青年は神殿に於いて、囃子をする。︵囃子とは笛小太鼓、大太鼓を使用し、祭気分の横溢する音楽なり︶参道には、両側に、おもちゃ屋、おでん屋、お菓子屋、あてもの屋、飴綿菓子屋、本屋等、賑やかに屋台店が立並び、氏子はもとより親戚一同、近隣村の人々まで相集り、楽しい一晩を過ごす。
翌祭典当日は氏子悉く集り、神官儀式を行う。
戦前は、小学校︵当時当地区一校︶は臨時休業して、児童全校全員、儀式に参列し、君ケ代を奉唱し参拝する。式後学童全員に氏子より菓子袋が配布せられる。学童は此の菓子袋の戴ける嬉しさに長い時間の式典も静かに参列したものであった。余興として、神楽、芝居、角力等を興行する。大事件の起った年には、﹁さえもん語り﹂といって、事件の内容を物語る、旅役者が訪れて、それを聴くこともある。祭典の翌日は氏子総出で、後片付をなし、鉢払いと称して無事に祭典終了を祝う、祝宴となる。
老若男女を問わず、祭典と正月、盆とは、唯一の慰安の日で、それを楽しみにその間の平素は、勤勉そのものの姿で農事にいそしんでいる。故に祭典となると、最低前後三日間は全村休業状態、大祭︵何年目かに行われる、天神社の例なら十二年目の丑年︶となると祭典は一週間も続くのである。
四、婿姻
婿姻に関する儀式慣例は其の家の資産と門閥とにより多少の差異があり、普通一般に行われた順序として始に当事者双方に異議なく婚約成立すれば、両媒灼人、日を卜して、新婦の家に至り、樽入の礼︵極酒、きめざけ︶を執り行う。それには酒肴︵多くは包金︶を持参し、衣服、調度上の契約をする。これで婚約が成立したことになる。此の樽入の日に結納の日を取り極める。
結納の日には媒酌人新郎方より目録、現品を受け新婦方を訪れ、新婦方の媒酌人に目録現品を渡し、新婦方の両親之を受け取る。念入りのところでは受領証を出す。次いで黄道吉日︵寅中等の日を忌む︶を卜して結解式の日を決定する。
結婚式当日、新郎は迎三日︵むかえみつめ︶とて酒樽並に赤飯を持参して両媒酌人と共に新婦の家を訪れ近付︵ちかづき︶ の杯を交換して先に帰る。此の式を貰受の式という。
新婦は自家近隣と氏神様に、生後より今日迄に成人せし加護を謝し、生れ故郷を離別する挨拶廻りをすませ、両媒酌人に従い、親戚、組、兄弟に送られ新郎の家に至る。新郎の家にては村内近隣の者、親戚総代村外れまで出向き新婦一行を出向え、高張提灯を先頭に新郎の家に至る。玄関口で、雌雄蝶の銚子を司る。幼少の男女児によって松明︵たいまつ︶をともし、新婦
は其の間を通り抜けて、家に入るを慣例とする。先ず新婦方の媒酌人から目録現品、︵袴代は先に受けた帯代の半額を常例とする︶を新郎方の媒酌人に渡し、それより両親に渡し、床間に飾る。一同着席の後白湯︵桜花の塩づけ湯︶が出る。次に落付︵おちつき︶座付︵ざつき︶ともいう、黄粉のついた牡丹餅︵ぼたもち︶が出る。
新郎新婦は別室で両媒酌人、雌雄蝶役と介添役とによって、三々九度の祝杯が挙げられる。終って相伴︵しょうばん︶の者から祝宴に移る挨拶がある。室の中央に島台を飾り、吸物が出る︵蛤に限ぎる︶
銚子︵冷酒を盛る︶及び組盃を出し、相伴の者先づ毒見と称して最初に冷酒を飲み、次に杯を両媒酌人に差し両媒酌人は其の左右なる新郎新婦に差し︵即ち中央に両媒酌人夫妻が正面に座し、新郎新婦は両側に各々先頭に座わる︶次に参会者一同、順次に廻り、次に相伴再び両媒酌人にもどった時新郎新婦に相杯を交換させ、次に媒酌人は新婦を舅姑及新婦の兄弟並に親戚に紹介して杯を交換する。
以上は大体慣例の基準を示したが、部落により省略する箇所もあり、順序にも差異あり、兎に角大体の様式で式はおわり、酒宴に移るのであるが、例えば吸物が出るだけでも二人の盛装した娘さんが、小笠原流式に吸物をうやうやしく両手に捧げて、上席から順次に配布し、全部配布し終って始めて、相伴から﹁どうぞ吸物を召上り下さい﹂と挨拶あって、口にする。始めに配られた吸物はすっかり冷え切ってしまっている。
其の問殆んど無言のまま、娘さんの所作を見守りつつ相当の時間を消費する。
酒宴中、吸物の変る毎に﹁色直し﹂と称して、新婦は衣服を変える。其の度数の多い程立派な結解式とされたものである。故に深夜に及ぶのは通例で、大家 になると、翌夜明けまでかかる家もある。
翌日新婦は新郎方の村内の重立つった家、新郎方の親戚へ披露に廻り、其の翌日若くは翌々日、帰寧︵さとがえり︶及び舅入りと称し舅姑は酒樽及び赤飯を持参して新婦を伴い其家を訪問し、新婦はその実家に其の晩は宿泊し、舅姑は帰宅する。其の翌日両親は新婦を送り届ける。これをも舅入りと称している。
嫁入りした後は毎年一月鏡餅を実家の両親に一座ずつ生涯贈るを習わしとされていた。
五、妊娠、分娩の祝
妊娠五ケ月に達すれば、戊の日を撰び産婆並に両媒酌人、両親及近親を招いて、着帯の祝を行う。初産にあっては、婦の実家より紅白の切地及び、酒樽、赤飯を贈るを例とされる。
分娩して三日に当る日は、三ッ目と称して、牡丹餅を作り、七日に当る日は、七夜と称して、赤飯を作り男児ならば三十二日、女児にあっては三十三日に当る日は、宮参︵帯明、おびあけともいう︶と称し、児女の血服明けし日とて、赤飯を作り、氏神、産土神︵うぶすながみ︶に参詣、次いで菩提寺に参り、先祖様に御報告申し上げる。母親は七十五日に当る日を以って血服明とした。
長男長女の場合は、宮参の日、初着︵うぶぎ︶と称して婦の実家より、衣服等を贈って祝い、尚男児ならば一月に弓破魔︵ゆみはま︶五月には職︵のぼり︶女児ならば一月には羽子板、三月には雛人形を贈って祝するを例とされていた。
六、成長を祝う慣例
児、女、にあっては三才、五才、七才、十五才を祝年と称し、老人にあっては、六十一才は、本卦回︵ほんけがえり︶七十七才は喜寿、八十八才は米寿、九十才は卒寿の祝い、九十九才は白寿、尚六十一才︵満六十才︶を別称還暦、七十才を古稀という。
生後百十日間にはお食始めで、赤ちゃん用の膳、茶わん、箸等揃え、食べる真似をさせる。生後満一年たたない内に歩けるようになると一年の誕生日には、一升餅を作って、餅に祝と朱書し、それを赤ちゃんに背負わせる。
﹁注﹂還暦とはその人の生まれ年︵エト︶が再びかえってくる意味、古稀とは論語の中の人生七十古来稀なりの言葉から、喜寿とは喜の字を略して七十七と書くことから、米寿とは米の字は八十八をつめたもの、卒寿とは九十を続けて書くと卆となるところから、白寿とは百の字から上の一をとると白すなわち九十九となる。
七、結婿記念日
十年錫婚式、十五年水晶婚式、二十年陶婚式、二十五年銀婚式、三十年真珠婚式、五十年金婚式、七十五年ダイヤモンド婚式、この中でも銀婚式と金婚式とは相当古くから行われ、他は欧米文化が入ってきてからのことである。
八、葬儀
死者のあった時は組︵五戸及び八戸の組合︶の者集りて、公の手続、親戚、縁者等への通知︵必ず二人組んで通知に行く、誤った通知が無い用のため︶、買物、其の他葬儀の準備一切について斡旋し当日は会葬者の接待万般について奔走する。各部落互に講中があって、穴掘当番が定められていて、伝染病以外は、土葬を例とした。屍体は北枕西向に横臥にして置き、近親の者集
りて後湯濯と称して沐浴をし、晒木綿に麻糸を用いて縫った浄衣に経帷子︵かたびら︶を着せ、手甲、足袋、草鞋を付け、頭巾︵づきん︶を被らしめ、金剛杖と数珠とを持たせ、額に兜巾を着け、頸に頭陀袋︵ずだぶ
くろ、中に血脈、六道銭を入れる︶を懸け、棺に納めて奥の間に安置し、枕団子、飯、︵此の二品は洗わない米で作り、飯を炊いた火で燈明に点火して、燈明は葬儀の松明 ︵たいまつ︶ に点火する迄消さぬ︶、一枝
榊、香、燈明、蝋燭、盛物、贈物等を供える。屍体に着せる物は総て普通とは正反対、即ち衣服は男の場合左前にする等とする。
葬儀当日は出棺に先立ち棺前で読経し、終って、外庭に担ぎ出し︵これを出棺という︶行列を作って棺台を中心に三度廻り棺を据え、引導、弔詞終って、読経中、喪主を始として、近親、会葬者の順序に焼香を行い、終わって行列を作り、墓地に送って、埋棺をする。近親者は土塊を入れるを習わしとする。
翌日は三日の法要、其翌日は七日の法要を行う。但し明治の中期より、葬儀の当日、埋葬が済んで直ちに、七日の法要を営み、近親講中の者に膳を出す例がある。
三十五日目に五七日の法要、四十九日目に七々日の法要、︵但し震災当時を界とし、三十五日に四十九日の法要を併せ営むようになる。︶ 百日目に百ケ日の法要を営む。忌引の期間は左の如く慣例となっていた。父母、五十日、祖父母三十日、兄弟、三十日、伯叔父母 二十一日、曽祖父母七日、子、七日、孫三日である。
其の後の死者の祭り 一周忌︵死亡した翌年正当月日、すなわち満一年︶、 三回忌︵死亡したる三年目正当月日すなわち満二年、 以下は之に準ずる︶七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌と法要を営む。毎年春秋両彼岸には牡丹餅、青麦等を製し、寺詣り、墓所詣りをして先祖の霊を祀る。
八月十三日より十六日までは盆と称し、十三日には青竹と、苧柄にて棚を作り、真菰を敷き位牌を安置する。そして、菩提寺に詣で、墓所に参りをすませ、夕刻迎火として、門外の路傍に出でて麦稈を焚いて業火とし、洗上︵あらいあげ︶ ︵茄子を采の目に切り、菜豆をも同大に切り、洗米とを交えたもの︶を供え、祖先の精霊を迎え、棚に請し、胡瓜で作った馬、茄子にて作った牛、及び洗上、水、飯、餅、蕎麦、果物、菓子、野菜等を供え、切子燈寵に点燈する。
十五日の夜半送火として苧柄で杖を作り、胡瓜の馬、茄子の牛で送らせ、迎火を焚きたる位置に於いて麦稈を焚き、洗上を供え、祖先の精霊を送ることである。
九、労働上の休日
全村を通じたる休業日
一月一日、二日、三日、七日、十一日、十四日、十五日、十六日
二月十一日
三月三日、社日、春季皇霊祭日
四月三日、八日
五月五日、六日
七月三十日
八月十四日、十五日、十六日
九月二百十日社日秋季皇霊祭日
十月三十一日
大字限の休業日、鎮守氏神の祭典日
上永谷、三月二十五日、九月二十五日
中、下永谷 九月十七日
上野庭 四月十日
下野庭 九月九日
以上の外、農繁期等で身体を使い過ぎ、一般に疲労が過ぎると思われる時は、名主から、雨天の時に限り、 ﹁雨降り正月﹂という﹁言い触れ﹂が出る。その触れが出ると皆々大喜びで、公に一日ゆっくり仕事を休んで、若衆達は神社へ集って喋子の梧古をする。たとえ雨が降っても、このお触れが出ないと、みの、すげがさ姿で、田畑、又は山仕事に出かけるか、藁仕事に精出すのである。