永谷学校(現在の永野小学校)と勝海舟の弟子平野玉城
明治初期の教育者平野玉城は、幕末の頃江戸九段坂上に生まれた。家は代々徳川家の家臣であった。永谷学校に教鞭をとるいきさつは次のようである。
慶応4年2月5日︵明治元年︶夕闇せまる頃、下永谷313番地にあった元名主福本輿四郎宅︵長男信平氏は後に、芹が谷で福本ブドウ園経営︶へあわただしく﹁頼もう﹂と懇願する若者が訪れた。代々醤油醸造販売を業とした旧家の興四郎は聞き馴れぬお声ですが、頼むとは何用であられるか。﹂と問うと、息せき切って言葉早めに﹁拙者は徳川慶喜の家臣、陸軍総裁勝安房︵海舟︶の手下、平野玉城と申す者、勝総裁の命を受け、討幕のため東海道を江戸に向って進撃する西郷隆盛の軍勢の動静を探るため当地に参上致したるところ、不覚にも朝廷方官軍数名の斥候とおぼしき者に包囲され、既に逃れるすべもない。暫時身を匿ってほしい。﹂ と頼み込んだ。
見るからに人品優れた壮者である。輿四郎は快く引き受けて醤油椛培養の地下穴倉へ案内した。
輿四郎が母屋へ戻ると時を違えず官軍の斥候らしき者、五、六人来て﹁確かにこの家へ幕府方の兵が入ったようだが、素直に在りかを申せ。﹂とするどい命令であった。
﹁おおせの通り今しがたこの玄関へ入るや否や、少しためらってそのまま右の竹薮の方へ﹂その言葉がおわらぬうちに屈強そうな二人だけが残って、あとの三、四人は薮の中へ消えて行った。やがて、三、四人が空しく帰って来て、母屋、物置、倉庫と福本宅の屋敷中を隈なく探し廻ったが見当たらず、一同は夜半過ぎに立ち去っていった。
このようにして一命を助けられた平野は、明治9年8月18日、命の恩人福本輿四郎宅を再び訪れた。近隣の人々を交え、時を忘れて話し合う。その時、村の人々は会話の中で、平野のすぐれた人格、深遠な学識に目を見張り、当地に滞在するよう懇願した。
月日が経過するにつれ、平野に教えを請う者が続出した。はじめは手習師匠、寺子屋の師匠として出発したが、時には四書五経を講じた。また、妻﹁しま﹂は村民に針仕事を指導し、お産の助けもやった。
明治10年6月18日付で、村民に推されて棲心庵学舎に第三級訓導として教職に就かれた。氏が就任するや入学者が殺到し、庵が手狭になった。父兄らは見るに忍びず、学舎を建設することで衆議一致した。
明治12年4月10日、下永谷2690番地︵水田の権田ケ谷戸︶に永谷学校が、父兄らの木材、石材、米のなどの提供により新築された。平野はその落成記念にかつての師、勝安房︵海舟︶に﹁永谷学校﹂の書をお願いし快諾の上贈与された。︵現在その扁額は永野小学校の校長室にある。︶
玉城は、明治20年頃まで鎌倉に隠棲し、漢学を教えていたが、同24年7月21日、鎌倉の長谷にて死去された。没後、村民は氏に対する恩忘れがたく七回忌の時、古老有志一同は、氏をお慕いし、霊がこの永谷の地に静まることを発願し、子息平野直吉︵第一代永野小学校長︶より玉城の分骨を得た。そして、直吉の手により貞昌院墓地に埋葬して墓碑を建てた。現在も、玉城の墓碑は貞昌院上永谷駅側の墓地にのこされている。
明治36年7月21日、教え子は勿論、先生の徳を慕う人々により、十三回忌が盛大に行われた。列席した直吉は感激し、導師をつとめた貞昌院28世住職・亀野源量和尚に勝海舟の書、﹁眠雲﹂を記念として贈呈された。現在その書は貞昌院の寺宝となっている。