永野郷土史 石造塔

二、石造塔

 

 中世から近世にかけて神仏の具象的信仰から民間信仰へと発展するようになってきます。特に近世になると一般庶民の信仰が全国的に流布するようになり、その所産として信仰対象の石造物が造立されるようになります。

 庶民信仰は、その地方の信仰と習合して集団(講)の信仰に発展してきます。永野で石造塔を造立するようになるのは南北朝あたりからで、仏教思想の各種石造塔が遺存しています。

 講による庶民信仰が盛んになる江戸初期から幕末にかけて講や篤志者によって庚申塔、道祖神地神塔、己待塔、各種の供養塔が村の入口や三つ辻に数多く道立されてきました。しかし最近の都市開発によってその数は次第に消滅しつつあります。



1 板碑

 板碑は俗称で、正しくは板石塔婆または青石塔婆ともいい、鎌倉時代から室町時代に追善供養や道修供養(生前)のために道立されています。野庭町245番地正応寺蔵の板碑は代表的なもので線泥片岩(秩父石)に、嘉暦四年八月(1329年)の銘文があります。碑面中央に阿弥陀如来像が蓮弁座にのり、紀年の左右には三輪ざしの花瓶が刻まれ基部は台石に挿入するようになっています。

 形は小ぶりになりますが、上永谷町字又口一四七五番地の畑より大小六枚が出土しています。風化と破損が著しいので紀年は不詳です。下永谷町字長町1720番地に二枚あり、年号は文和二年□月(1352年)で、南北朝動乱のさ中にあたります。上野庭字前田町 西長院(廃寺)の堂内に延文六年(1361年)のものと、上永谷町永作5355番地に、延文六年四月の銘入りのほか数枚出土、永和(1370年代)と判読されるもの二枚(永野小学校蔵)があります。紀年は不詳ですが、同時期とみられるのが、上野庭浄念寺の墓地に二枚、中永谷内庭敷から一枚(貞昌院蔵)下永谷地蔵院墓地に一枚あります。それぞれ石質は緑泥片岩か平板石で、碑のつくりは簡略化しています。

 梵字の種子は阿弥陀がほとんどで、蓮弁の下に紀年または花瓶が刻まれたものや、片側に紀年、反対側に花瓶が刻まれているのもあります。
砕身は正応寺蔵をのぞくと小は20センチから60センチぐらいまでで、厚さも2、3センチ、幅10~15センチ内外が多く、土にさし立てるのがほとんどです。供養塔として墓地や道辻に立てられたもので、現存では、道立時のまま遺存する例は少なく大かたは偶然に発掘されたり、保管されているものや、墓地に立てかけてある例があります。



2 五輪塔

 卒塔婆の一種で平安朝あたりから出現しています。仏教思想では、宇宙の根源は、五つの要素からなる物質で構成しているといわれ、この五大を円輪にみたてて、地輪、水輪、火輪、風輪、空輸の五大に形どり、下部から方形、円形、三角形、半円形、宝珠形に表現しています。

  普通石造がもっとも多く、金属や木材でつくられたのもあります。現今の卒塔婆の素形は五輪塔に由来するといわれ、墓塔、供養塔、道修塔などに用いられ、寺院の境内、古い墓地に道立しています。
 永野で遺存する五輪塔は室町時代から江戸時代に造立されたものが多いようです。鎌倉時代のものは円形部(水輪)が均一なふくらみをしているのが特徴とされ、室町期以降になるにしたがって円形の下部がややつぼまった形になってきます。

 浄念寺、正応寺、地蔵院(廃寺)の境内に数基分または部分が遺存しています。下永谷町字長町1724番地の八幡社境内に塔丈80センチのもの一基と数基分、同町1962番地に数基と宝筐印塔の部分が混在しています。いずれも紀年はなく、年代は不評ですが、各輪に梵字が刻まれているのもあります。

 上永谷町字又口4989番地付近からは、塔丈60センチのもの二基分と残在部分が畑の土手に埋れているのが発見されました。以前畑の中から出たものを一か所に集収されたものといわれています。昭和47年6月、同町3291番地からは団地造成時に水輪のあった地中から濃かっ色をした益子焼風の骨寒が出土しました。古い言い伝えでは、この場所に触れることをかたく戒められていたことと、以前には五輪塔の部分がまだあったことなどから、五輪塔を墓塔としていたことを示しています。五輪塔は、寺院、墓地や他の供養塔とともに混在している場合があり、塔の一部分のみが存在するものを含めると相当の数にのぼります。



3 宝篋印塔

  インドの故事にならい宝篋印陀羅尼を納めた塔が原形とされ、鎌倉時代に一定の形式をみるようになって江戸時代まで造立されています。塔の基盤は方形の反花座で、台座の上に塔身がのり、露盤は下に段階を設け、四隅に馬耳形の偶飾突起を有し数段の段級上に伏鉢があって請花に相輪がついているのがごく普通の形式とされています。
 下永谷町八幡社境内の宝筐印塔は、基盤の反花座と台座が重複し、塔身がなく、方形屋蓋がのっています。もし方形屋蓋が本来の姿とすれば、例が少ないようです。
 この塔にのせてある宝輪は、五輪塔のもので写真の右横にある五輪塔の相輪形(下部欠失)がのっていたはずです。往々にして、五輪塔と宝篋印塔の混積してあるものや、上下逝か重複して積まれているのをみかけます。
 塔には紀年の刻まれたものはなく、塔身に梵字が刻まれたのもはいまのところ見受けられていません。宝篋印塔は五輪塔に比べて、その部分が遺存するものを含めても五輪塔の半数にみたっていませんが、五輪塔とともに墓塔あるいは供養塔に用いられ、おもに武士階級に多かったようです。



4 無縫塔

 塔身が卵形をしていますので卵塔ともいっています。宇宙の根元を無念無想とする仏教思想から、そのすべてを縫合すると卵形になるとの思想からきています。無縫塔は基盤と六角または八角の竿軸に中台、請花に卵形塔身がのっています。上野庭浄念寺墓地所在の無縫塔は多角竿軸ではなく丸形を用いています。基盤は六角が主で四角形もあり、丸型竿に複弁請花の上に塔身があります。
 大きさは基盤の径五五、丸形竿径三五、請花径四五、塔身高さは65センチで、基盤より塔身上までは1、2メートルのものが一番大形です。塔数は八基で、角塔を交えた当寺の歴代上人の墓塔です。第十世の墓塔は方形屋蓋付角塔で寛延元辰天十一月(1748年)とありますが、前代六基の無縫塔には紀年は刻まれていません。

  当寺の開山は永禄七年で、呑霊上人は天和二年に入寂していますので、天和以降、元禄-享保年代のものと推定されます。
 開基旧居杢右衛門胤知の墓も同所にあり、屋蓋付角塔で、天正18年庚寅9月22日(1590年)となっています。塔身52、幅22、屋蓋上まで70センチで、天正年代の角形墓塔は近在ではまれです。下野庭正応寺の無縫塔も当寺歴代上人の基塔で寛永年代以降と推定されます。西長院の二基は紀年がなく年代は不詳です。
下永谷町2648番地権田谷戸の棲心庵跡の一基と、同 町地蔵院の一基は比較的新しいものです。



5 庚申塔

 庚申信仰ほど全国画一的に展開されたものは他に類をみないほどです。民間信仰が波及しだした江戸初期から幕末にかけて多数の庚申塔が村の入口や、三つ辻にさかんに道立されています。

 庚申思想は、中国から平安時代に伝播し、上流階級に流布し、地方の習俗と融合して一般庶民信仰に受け入れられるようになります。庚申信仰は、道教の三戸説に由来するといわれ、三戸という三匹の虫が人の腹の中にたむろし、隠微な悪事を知っていて庚申の夜に人が熟睡するのを待って抜けだし、天にのぼり、天帝にその悪事のさまをもらさず告げるといい、罪悪に応じて禍をくだすというので、三戸の虫が体内から抜け出さないよう徹夜で防止しながら遂ぶという説からきています。庚申塔は石造以前には塚などによる信仰があって、いまでも庚申塔を庚申塚とよばれていることがありますが、塔は宗教的なものと一般庶民信仰のものとに別けられます。庚申塔に刻まれている諸神仏の代表的なものは青面金剛で憤怒の形相をし、邪鬼をふまえ、普通六本の腕手をもち、宝輪、三股鉾、弓矢、または裸女の髪をつかみ、火陥髪に蛇をまき袴姿のものがもっとも多いようです。塔正面上部に日輪、月輪、むら雲、下部には見ざる・聞かざる・言わざるの三猿と左右に鶏を配し、造立年月日、講員名などを刻み、道標を兼ねたものもあります。

 この代表的作風の庚申塔が上永谷町3491番地馬流川野廃人口の鎌倉古道沿いにありますが、屋蓋の欠失が惜まれます。江戸末期の庚申塔は簡略化されて碑面に「庚申塔」と陰刻されているものもあり、分布では明治初期まで道立されています。
 庚申信仰は、お庚申、日月様、お日待、月待、お申待などとよばれているところもあり、仲間で講をつくり、数名から十数名の講員からなり、庚申の晩に遊興の集りをもっていました。農村特有のソバを食う習慣があり、講は輪番制で原則として左まわりとされていました。近年までは、谷戸講からさらに村話中となっている場合が多かったようですが、現在では講の集りがすたれているようです。



6 道祖神

 庚申塔とほぼ同様に村辻に道立されていますが、その分布はやや少ないようです。本来道祖神は、道の神ですが疫病や禍の侵入をふさぎ、道行きの安堵と道を守る神でもあります。さえの神、たむけの神、ふなどの神、くなどの神、道陸神、せいの神などとよばれています。衆人が道中の安全を祈り、手向けをする神、すなわち道の神に供物をたむけて祈る場を道祖神場ともいっています。
 古今集に「この旅はぬさもとりあえず手向山紅葉の錦神のまにまに」と菅公は詠んでいますが、「このたびの旅は、あわただしい旅立ちで神にささげる幣は準備するいとまがありませんでしたが、手向山の紅葉は錦織りのように美しい。わたしの手向として神の御心のままにお受けください。」という意味がふくまれています。
 道祖神は黄泉の国に起因し、イザナギ諸尊が女神イザナギ尊を慕って黄泉の国を訪れましたが、雷神にのろわれたので、逃げ戻る後から黄泉の国の醜女に追いかけられ、尊は逃げながら手当り次第に物を醜女に投げつけました。
物は食物に転じ、醜女が団子を食っている間に逃げおおせようとしましたが、なおも逃いすがるので手にした杖を投げつけました。杖は神となって醜女を塞え切ったので通れなくなってしまった。
 道祖神は神仏像で表わされたものや、神格化されない人物の単身像や男女二身または男女の性別ができない合掌、袖中合掌像があります。像容を表現しにくい神なので道祖神を地蔵像と見誤れることがままあります。道祖神は縁結びの神でもあるので、二身像の場合は神格化された像と異なり鷹揚に肩紐みや握手したもの、まれには陰陽をほのめかせているのもあるといわれています。

 下永谷町般若寺境内の道祖神は、男女二身像で仲よく肩を凝み合い、右側女人像は妊娠した容体を表わしていますが、首級が欠損しています。同町字八木2681番地(水田) の道祖神も二身像で、石造祠に祀られています。男女の性別はできませんが、祠入りの例は少ないようです。正月十四日の早朝村辻のどんど場(道祖神場)で行われる火祭りは、道祖土焼、どんど焼などといわれている道祖神の火祭りをさしています。近在で行われている火祭の風習の大方は、講の定めた道祖神場に集められた松飾り、しめ飾や古札を塔状に積み立てて点火します。

 香をたき、置き火で、木ざし団子を焼き講員同志が交換し合い、消し炭を持ち帰り戸口にさして魔除けにします。
請員はウツギとニワトコの若木をなた切りにし、奇数で数本を注連縄で束ね、枝木に団子をたわわにならし、神仏や俵に供えて五穀豊穣と安堵を願う行事です。昨今は次第に祭りの行事がすたれかけているようですが、これらは黄泉の国に由来する団子で祝い、なた切りを投げ杖にみたてて故事になぞらえたものといえるでしょう。



7 地神塔

 八方天、十二天のうち大地を司どる地の神を祀った塔で、とくに農村では信仰による地神講で堅牢地神を村辻に他の信仰塔と併立して祀っています。地神塔は幕末から明治初期のものが多く、永野でもまだ地神講が行われているところがあります。
 山の神、地の神、お田の神などとよばれ、農業の神になっています。地神は秋冬は山神として山を司どり、春になると田の神として大地に司どるといわれています。

 村では春秋の初丑の日に地神講が催され、春は田の神として迎え、秋は田の神を山へ送る農村信仰で、彼岸前後に行われる場合が多く、秋は閑期となる十一月の初丑の日に行われているようです。田植後の虫送りもその一つで、鐘や太鼓で捲くし立てて害虫を追い払う行事です。正月四日の仕事初めに山神祭りが行われます。正月祝い退げの注連飾、若飾を山、田、畑に飾りますが、祭り後でないと入山、入田は許されないことになっています。それは、汚れから山の神の怒りに触れるおそれがあると信じられているからです。

 

 



 

Teishoin.net by Rev.Tetsuya Kameno is licensed under a Creative Commons