永野郷土史 古代の永野

一、古代の永野

 

3 弥生時代

 

中期 須和田式
宮ノ台式
後期

久が原式
弥生町式
朝光寺原式(港北区)
前野町式

南関東における弥生式時の編年


 自然物の不安定な供給にたよっていた縄文時代は、その供給がみだれたり、一たび異変にみまわれば壊滅的な災を被ることはしばしばあったと考えます。
 人の増加に伴い自然物の採取のみにたよるには限界があり、これを克服するには他の生産手段によらなければなりません。したがって自然物の採取を就けながら、不足を農耕という生産手段によって活をみいだすようになってきます。大陸から北九州に伝播された稲作を標式とする弥生文化は、稲作農耕を受け入れる要素がめばえていたと考えられます。
 弥生文化の過程は、縄文時代につづき古墳時代に先行する時代で、西暦前約三世紀あたりから西暦三世紀ごろまでのほぼ600年にわたるといわれています。
 弥生文化の特色は、日本で稲作農耕の開始されだした時期で、原始的な農耕文化の性格をあらわしており、ことに大陸との接触による影響を多分にうけ、金属の青銅器や鉄器を使用しはじめた時代で、縄文文化の環境を受け継ぎ、生活の営みも農耕生産をのぞけば前時代なみに自然物の採取で補い、住居も依然として竪穴を使用していました。
 弥生時代の時代区分を前期・中期・後期に区分していますが、南関東に弥生文化が伝播したのは西暦一世紀前後といわれ、中期の須和田式あたりとみなされています。
 横浜市内で弥生式土器が認められるようになるのは、中期の宮の台式あたりからで、近隣では大岡川流域の港南区笹下町横浜刑務所西方、同笹下町大久保、南区六ツ川町123番地付近や、柏尾川流域などに分布がみられます。(横浜市史第一巻)

 永野でも、中野庭丘陵・永谷川流域・戸塚区境の丘陵に中期の官の台式土器片が認められ、後期になるにしたがって漸増の傾向を示し、後期の久が原式・弥生町式、終末期の前野町式土器が出土しています。
 そのおもな分布は、(図・5:縄文時代の項参照)野庭町30番地(官の台・久が原式)、同七五五番地付近(弥生町式)上永谷町3550番地付近(久が原・弥生町式)、同三五入六番地付近(久が原・弥生町式)、下永谷町1750番地付近(弥生町式)、同2170番地付近(官の台・久が原式)などに土器片が散布しています。芹が谷おばご台遺跡(久が原・弥生町式)からは、中期とみなされる磨製石斧(図・10-4)が出土しています。石斧は有肩で肩以上の部分は細かい打痕がありますので、これにソケットを付け鍬または、すきのように使用されていたものと考えられています。

 下永谷町1727番地殿屋敷遺跡(久が原・弥生町・前野町式)では、墳形土器大小二個と壷形土器が炉灰を伴って出土しています。いずれも弥生町式で丹塗りが施されており、小塊は内面に丹塗りがしてあります。
家形土器は、高さ30・胴径28センチで、底部に木の葉の圧痕と穿孔が認められます。
 昭和三一年の秋、秋元千二氏は、芹が谷宇山谷九五入番地(芹が谷小学校西方)の畑を耕作中、偶然にも数個分の弥生町式の蚕形土器(口絵囲・5)を発掘しました。
 同氏によれば、土器はほぼ一か所にかたまって石田いのまわりに置かれた状態で埋っていたとのことです。場所は段丘状の突端で、平坦部からやや南に傾斜したところで、住居跡は確認することができませんでした。

 現立教大学 岡本助教授の調査では、住居跡でもないこと、葉形の土器が伴なっていないこと、また土器底部が一様に穿孔されていること、一か所に集中して埋っていたことなどから弥生時代の墳墓の一形式ではないか、といわれています。なお同所から薄い滑石製の耳飾りが発見されました。
 下永谷町295番地 山口善書氏宅地内より後期終末の前野町式土器が出土しています。
 この土器は底部が欠損していますが、濃かっ色を呈しており、高さ18センチ・胴径22センチで、器面全体に斜めの櫛目文が施されています。土器の出土したところは有華寺台地雫方に位し、沖積面より約五メートルのところで、がけにはローム層と黒色土層がはっきり別れているのがみられ、前方には比較的広い水田が開けていたところで、多分その当時からこの水田を利用して稲作が盛んに行なわれていたであろうと想像されます。
 弥生式土器は、縄文式土器を母胎とし、さらに新しい要素をとりいれた手法により、その器質は一段と向上し薄手になっています。弥生式土器の器形は、蚕形と鉢形の二つの基本的な器形に大別されますが、機能的には蚕形と賓(鉢)形・高杯などがあります。
 壷形土器はおもに穀物などの貯蔵に用いられ、婆(鉢)形土器は煮沸用に、高杯は祭祖の供献に用いられていたようです。特に壷形土器は数本ずつ棒状突起を貼り付けたり、肩部に小円板を付けたもの、平行沈線問に細かい縄文をあしらったり、S字の連続文、半裁竹管文.流線文が施され、土器の表面をへらがきや、研磨丹塗りされたものが多く、土器底部に木の葉の圧痕がぁるものもみられます。

 弥生時代の集落は縄文時代とほぼ同様に丘陵上や台地、もしくは比較的低地にまで営なまれていたことが遺物の分布によって知ることができます。
 昭和45年秋、団地造成のおりに発見された「そとごう」(上柏尾)遺跡は、戸塚区上柏尾町と下永谷町字池田37~38番地の区境界地に存在する遺跡で、縄文中期から土師時代の住居跡を伴う弥生時代の典型的な集落遺跡です。
 発掘調査は、神奈川歯科大学小出助教授、国学院大学によって行われました。遺跡の概要は、縄文中期の円形竪穴住居跡一基、弥生中期以降の住居跡約60基、土師住居跡二基が重複して発掘されました。

 弥生時代の住居跡は隅円方形で胴張りが多く、柱穴は四穴またはまれに六穴が認められます。住居跡の重複していることは一時期に同時に存在したものではなく、時がたつにしたがって先の住居跡に新たにつくりかえたことを示しています。この集落跡の周囲にはⅤ字滞が北西(東海道面)にコの字形に設けられていますが、多分ロの字形に集落の周囲にあったと考えられますが、すでに土を切り崩したあとなので確認されなかったようです。
 Ⅴ字溝の機能はまだよく解明されていませんが、集落の領域または、防御の施設などを兼ねていたと考えられています。この集落内の南面には弥生時代の墳墓の形式として注目される方形周溝墓一基が発見されました。遺体を収納する中央部からは硬玉類が出土したといわれています。
 方形周溝墓の存在は近年になって解明されたもので、一辺が約10メートル内外の方形の周溝を設け、内部を一段と高くし中央に遺体と副葬品を埋葬する形式で、古墳のさきがけとみなされています。

 市内の事例では、港北区市が尾朝光寺原で19基、新吉田官の原に一基が発見されています。
 そとごう遺跡の表面採取による遺物は、中期縄文式土器を含む弥生式土器片(久が原・弥生町・前野町)と磨製・打製石斧が出土しています。同集落跡は下永谷丘陵の先端に位し、その下方の沖積面は谷戸田になっていたところで比較的に湧水に恵まれたところです。

 弥生遺跡は立地条件から縄文期の遺跡に含まれている場合も多く、西洗、坂口、丸山、丈の台、渡戸、日影山などの谷戸田に面した段丘に土器片が散布していますので、各所で農耕生活が営なまれていたであろうと推測されます。


 

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