No.35

聞くままに また心なき身にしあれば
おのれなりけり 軒の玉水

 雨の季節となりました。雨が降れば服は濡れるし、洗濯物は乾かないし、じめじめとした嫌な季節になったと思われる方も多いでしょう。しかし、米を育てる農家にとっては待ち望んだ季節の到来、といったところでしょう。
 さて、道元弾師は冒頭のような雨にちなんだ歌を残しておられます。
 あなたは、軒の玉水の落ちる音をどのようにお聞きになるのでしょうか。 うっとうしいとか、早く雨が上がってほしいとか思いながら、雨音を聞かれるのでしょうか。それとも、農家の方のように喜ばしいものとお聞きになるのでしょうか。
 ここで道元禅師の詠われる「聞くままに また心なき身にしあれば」とは、何の雑念も好悪の判断もなく、無心のままに「ただ聞く」、ということです。そして、そうすることで自身の価値観や自分のものさしを離れることができ、「おのれなりけり 軒の玉水」という、自己と見る対象が一体となった世界があらわれて来るのです。
 つまり道元禅師は、軒の玉水が自分自身であると詠っておられます。
 「ポトリ」「ポトリ」と「私」自身が落ちています、と言っておられるのです。
 このようにみると、禅師のこの歌は次のような言い換えも可能なのであると思います。

  (掃く)ままに また心なき身にしあれば おのれなりけり (寺の竹箒)

 どうぞ()の中に、自分自身の身近な風景を適当な言葉を使って自由に入れてみてください。
 そこに現れる、風景や行為と自分が一体となったようす、それが悟りの世界である、ともお示しになっているのではないでしょうか。
 実は、今この文章を書いている時、窓の外を、つばめがすいすいと飛んでいます。

   見るままに また心なき身にしあれば おのれなりけり 空いくつばめ

 願わくは、今この時を「スーイ」「スーイ」と、一如の世界として生きていくことができるならば、と思います。 そのように、無心の世界に生きたいものです。 


解説
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