カテゴリー:雑学

精進料理の吉祥昆布(蛇腹昆布)

大本山永平寺や總持寺などで精進料理の御膳をいただいたことのある方は、昆布を飾り切りにして揚げた吉祥昆布(蛇腹昆布ともいう)を目にしたことがあるのではないでしょうか。

20160205-01

このような↓ものです。

20160205-02

吉祥昆布には幾つか種類があって、このように蛇の腹のような形のものや菊花を模ったものなどがあります。

そこで、ちょっと頭の体操です。
上のような吉祥昆布(蛇腹昆布)を作るには、昆布をどのように切って組み合わせればよいでしょう。

ヒントとして元の形を。
縦に切れ目を入れた同じ形の昆布2枚を組み合わせます。

20160205-03

完成形(形を整える直前)のものがこちら。

20160205-04

実際にやってみると、ちょっと難しいかも。
頭の体操に是非やってみてください。

投稿者: kameno 日時: 12:20 AM | | コメント (0)

日限地蔵尊参詣者への注意書き

貞昌院・永谷天満宮、日限地蔵尊は「神奈川県名勝・史蹟投票」で神奈川県で27位、44位で選ばれるほど有名な場所であり、近郊からの参拝客が永野小学校付近から永谷天満宮の脇を通り、上永谷5丁目を抜けて日限山に続く参道を埋め尽くしていたそうです。
特にお地蔵さんの縁日(4の付く日)には沿道には茶店も並び、賑わっていました。

そのあたりは、これまでブログで何回か触れておりますのでこちらをごらんください。

名勝史蹟四十五佳選
日限地蔵尊
高浜虚子一行の永谷村探勝

 

そんな参道の賑わいを表す高札が貞昌院に残されています。
20160117-01

 


日限地蔵尊参詣の諸賢へ

吉岡山日限地蔵尊命日の多数参詣人を目当に不徳漢詐欺賭博団なるもの密に来りて真実らしく各種参詣人に紛争し四方八方を能く見定めた上主役の一人が姦策甘言を以て諸賢を欺瞞せんと射倖心を誘発に取かかる
其所へ一味の配役(俗に言うさくら)が通りかかりの風来で手を出し衆の面前で僥倖を獲得した様に見せかけ益々射倖心の挑発に務め猫が鼠を捕う気構えをして居る
是等の点を何の理解なく我も僥倖を得んと手を出し財布をないふにし泣きの涙で帰らるる事の無い様特御注意を致します
申す迄もなく神仏を礼拝信仰するに邪気が有っては何の効果が有りません
御参りをする事は大に良い事ですが国法を犯し一儲けせんと賭博などに手を出しては折角の御参りも無駄事に存じます
鹿を逐う者は山を見ずとかや御参りの皆様は一所懸命日限地蔵尊を御信仰あらん事を切にお勧めいたします
戸塚警察署


(注釈)
射倖心=まぐれ当たりによる利益を願う気持ち。
僥倖=思いがけない幸い。偶然に得る幸運。
鹿を逐う者は山を見ず=利益を得ることに熱中している者は、他の事は顧みなくなるというたとえ。

 

この高札が書かれた時期は
1893年(明治26年):鎌倉郡警察署が戸塚警察署と改称
1936年(昭和11年):永野村が鎌倉郡から横浜市に編入

の間だと推測されます。

今も昔も、混雑に紛れて不届きな行いをするものが居たのですね。
それにしても、「財布をナイフに・・・」など、ユーモアにあふれた表現も見られますね。

投稿者: kameno 日時: 6:54 PM | | コメント (0)

お寺には蓮華がいっぱい

蓮の花は日の出とともにみるみる開花していきます。
また、散る時にはこれも短時間の間に花弁を散らします。

散った蓮の花を「散蓮華」といい、日本では古くから美術の意匠として使ってきました。
中国から伝わったスープやチャーハンを食べるときに用いる「湯匙」も、日本では「散蓮華」「レンゲ」と呼んでいます。
ただ、修行道場でお粥をいただくときに使う応量器の匙は「匙」と呼びます。
お釈迦さまの頭鉢で頂くいのちのお粥ですから、これこそ「散蓮華」と呼んでも良いと思うのですが・・・・

20150830-15

蓮は仏教の象徴ですから、お寺の中にも蓮華のデザインがたくさんあります。
お寺にお詣りする機には、是非いろいろな蓮華を探してみてください。

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仏像で、仏さまがが鎮座している台座も「蓮華座」といって、蓮の花のデザインです。

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投稿者: kameno 日時: 1:21 PM | | コメント (0)

アルゴリズムって大事

センター試験も終わり、これから本格的な入試の時期に入ります。
受験生の皆さんは、インフルエンザに注意して、実力を出し切ってください。

今日のブログはちょっとコーヒーブレイク的な内容です。


問題:下図のような道路(黒い線)がある。A地点からB地点まで行く経路は何通りあるか。
ただし、同じ道を2回通らないこと。

10_10

 

一見、簡単そうな問題ですね。

上図は10×10の区画に区切られた道路ですが、1×1、2×2...の場合で考えてみて一般化していけば解けるかな?
そうなると順列組合わせで、答えは 20C10 = (20×19×18×17×16×15×14×13×12×11)/(10×9×8×7×6×5×4×3×2✕1) = 184,756 通りかな?

・・・・・

しかし、そう簡単ではありません。
最短経路だけとは限らないですから。

 

 

 

日本科学未来館の作製した動画が面白いので、こちらをごらんください。
この動画に、上の問題の答えが掲載されています。親切ですね~


 

『フカシギの数え方』 おねえさんといっしょ! みんなで数えてみよう! (日本科学未来館公式)

 

このように、何通りあるかを逐一辿って検証してみると、一見簡単に解答が得られそうに見えて、とんでもないことになるのです。

そこで必要なことが「アルゴリズム」の最適化です。
アルゴリズムとは、解答に至るための具体的な手順のことをいいます。

動画にあるように、シラミつぶし的に全ての経路を検証する方法は方法論としては単純ですが、効率の面では非効率きわまりありません。
そして、コンピューターはいくら性能が良くても、今のコンピューターは残念ながら「考える力」を持ち合わせていません。
人間の命令に従った計算を行ない、その結果を出しているだけです。
したがって、解答に至るまでの最適化した手順を併せてコンピューターに教えてあげないと、計算にとても時間がかかってしまうのです。

いかに正しく効率的なアルゴリズムを提示できるか、これが重要なのです。
→関連ブログ記事 一番じゃなくても一番になれる エレガントに解くということ

 

ということで、上の問題を適切なアルゴリズムで計算すると、スーパーコンピューターで何万年もかかるものが、パソコンでも数秒で解答が得られる、という事例が下記の動画です。

 

これもアルゴリズムの一例であり、もちろん、さらに正しく効率的なアルゴリズムも存在することでしょう。

身近なところではカーナビの経路とか、乗換案内のルート検索とか、様々な場面で応用されています。
数学は奥が深いですね。

それにしても組合せ爆発・・・・オソロシス・・・・・


 

そういえば、ザ・ぼんち(おさむ、まさと)のギャグで「A地点から B地点まで 行くあいだに既に恋をしてたんです」ってのがありました。
つい思い出してしまいました。古い!


■関連ブログ記事

一番じゃなくても一番になれる
エレガントに解くということ
友達の友達は皆友達 か?
お寺の屋根が曲線である理由・別の視点から
お寺の屋根が美しいのには理由があります
一義的に求められない数値もある
IPアドレス枯渇解消へ

投稿者: kameno 日時: 9:17 PM | | コメント (0)

不定時法と六時の雑学

経典に次のような一節があります。

汝等比丘、昼は則ち勤心に善法を修習して時を失せしむること勿れ、初夜にも後夜にも亦 廃すること有ること勿れ、中夜に誦経して以て自ら消息せよ
(『仏遺教経』)


ここに出てくる「初夜」「中夜」「後夜」は一昼夜を6つに分けた「六時」の名称です。

仏教では1日(一昼夜)のうち、昼を「晨朝」「日中」「黃昏(こうこん)」、夜を「初夜」「中夜」「後夜(ごや)」というようにそれぞれ3等分しました。
そして、それぞれに行なう修行の内容が定められていました。
(「晨朝」は「初日」、「日中」を「中日」、「黃昏」を「後日」や「日没(にちもつ)」ということもあります。)

 

また、これらは「日の出」と「日の入」を基準として、昼と夜をそれぞれ3等分して定められましたので、季節によってその長さは違ってきます。

修行道場だけでなく、明治以前の日本では「不定時法」が用いられていました。
日の出薄明を「明け六つ」、日の入薄明を「暮れ六つ」として、やはり日の出、日の入を基準に時刻を定めました。
そして昼を6等分、夜を6等分し「○の刻」と定めましたので、それぞれの「刻」の長さは2時間ちょうどにはならず、季節によって違ってきます。

春分と秋分の日近辺は昼と夜がだいたい同じ長さとなりますから、「○の刻」もほぼ等分されるのですが、夏至では昼間の「○の刻」は2時間よりもかなり長くなり、夜の「○の刻」は逆に2時間よりも短くなります。
「不定時法」では、このように昼と夜で時間の進み方が異なりますので、明け六つと暮れ六つで時計の針の進み方が切り替わる「和時計」が開発されました。

 

では、大本山永平寺を基準として、六時を計算してみましょう。

日の出・日の入マップ では、任意の地点の日の出、日の入の方向と時刻を求めることが出来ます。

20140729-0320140729-04

夏至と冬至ではこんなにも昼夜の長さは異なりますし、太陽の方向も異なります。
日の出、日の入の時刻をもとに、「六時」それぞれの時刻を計算しエクセルでドーナツグラフを作成してみました。

20140729-06

 

 

表:永平寺(福井県吉田郡)を基準とした六時の時刻

  春分 夏至 秋分 冬至
         
晨朝の始まる時刻 5:58 4:38 5:43 7:02
日中の始まる時刻 10:01 9:30 9:46 10:16
黃昏の始まる時刻 14:04 14:23 13:49 13:30
初夜の始まる時刻 18:08 19:16 17:52 16:45
中夜の始まる時刻 22:05 22:26 22:49 21:30
後夜の始まる時刻 2:01 1:21 1:46 2:15
         
         
<昼の長さ> 12:10 14:38 12:09 9:43
<夜の長さ> 11:50 9:22 11:51 14:17

※注)日の出日の入を基準に計算しています。薄明を昼に加える場合は昼の長さがその分長くなります。

 

このようにそれぞれの時刻は夏至と冬至ではかなりずれ込むことが分かりました。
その場所の太陽の位置を基準にしていますので、場所によって時刻は変わりますが、全国が同時刻である必要がない時代ですからまったく問題はありません。
また、時計がなくても太陽の動き、高度を見るだけで「○の刻」を定めることができますので、不定時法が必ずしも不便であるとは言えないのです。

その場所の日の出、日の入を基準とした生活というのは、体内時計にも近いような感じがします。
自然に逆らわないとても豊かな生活だったのかもしれないですね。

投稿者: kameno 日時: 8:27 PM | | コメント (0)

複雑に絡まる東京の地下鉄

東京に副都心線が開業したのは昨年のこと。
東京13号線として都市計画された副都心線が完成したことにより、東京の地下鉄計画は一段落したことになります。
(羽田~成田を結ぶ大深度地下鉄計画なども今後ありそうですが)

これだけ地下鉄が複雑に整備されている都市は、東京以外にはそうはありません。

line
(東京都交通局の地下鉄路線図を引用)

 

ちなみに、東京12号線は都営大江戸線。
東京の地下には、既に多くの地下鉄、道路、電気、水道、下水道、地下河川などが複雑に埋設されているために、新しく建設される路線は、それらを縫うように計画しなければなりません。

そのため、縦方向のアップダウンも当然に多くなります。
東京都交通局の資料を元に、大江戸線の縦断図を作成してみました。

20140126-01
(クリックすると大きくなります)
左側が都庁前で、そこを基点に右回りにぐるりと東京を廻り、再び都庁前を通り、光が丘までの縦断図です。

他の地下鉄路線、道路、電気、水道、下水道、地下河川に加えて、東京という都市はアップダウンも多く、また東部のゼロメートル地帯もあるために、縦断図はちょっとしたジェットコースターのように上下を繰り返しています。
水平方向の複雑さも相当なものですが、縦方向(上下方向)の複雑さこそが東京の東京たる由縁ともいえます。
ですから、冒頭の地下鉄路線図のように上から見下ろす形で地図を概観しているだけでは、東京の都市構造を把握することはできないのです。

ということで、東京の地下鉄がどれほど複雑な構造となっているかを示してみたいと思います。

東京の地下鉄路線のGPSデータと上下方向のデータとしてKazu.さんが公開されているKMZデータを使わせていただき、それを Google earth で表示してみます。

まずは真上から。
これは、普段目にする地下鉄路線図に近い形ですね。
(クリックすると拡大します)
20140126-02 

では、南方向から斜めに俯瞰してみましょう。

20140126-03

地下鉄路線各路線の上下方向の変化が分りますね。

もう少し中心部を、今度は西方向から東京都庁舎屋上目線で俯瞰してみましょう。

20140126-04


25年前ほど前、大深度地下の協議会で東京12号線の路線計画を話し合っていたころ見た図面がこのように具現化されるということは、本当に感慨深いものです。
いろいろな方向から眺めてみると、本当に飽きないです。


東京の地下鉄を利用される際には、是非上下左右方向の変化を感じ取ってみてください。
日本の技術の結晶がそこに凝縮されています。

 

地下鉄の路線図のごと枯れ枝の絡まり合って十二月の空
(朝日歌壇 2013年12月22日)

投稿者: kameno 日時: 10:36 PM | | コメント (2)

亜炭でお茶を淹れてみた

港南区には、かつて炭鉱がありました。
炭鉱といっても良質の石炭が生産されたわけではなく、亜炭(あたん)と呼ばれる木質系の燃料です。
そのあたりの詳細は、下記のブログ記事をご参照ください。

港南区の炭鉱と戦争の影
亜炭を運ぶトロッコ

亜炭について、フリー百科事典『ウィキペディア』には次のように解説されています。

亜炭(あたん、英: lignite)とは石炭の中でも、最も石炭化度が低いものをいう。地質学上の用語としては褐炭が正しいが、日本においては行政上の必要からこの語が用いられる。
品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、仙台市・名古屋市、または長野市など大規模?中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

事実、現在の港南区エリアで産出された亜炭も、燃料事情が悪かった時代には特に家庭用燃料として利用されていました。

亜炭は、実際にはどのようなものだったのでしょうか。
いろいろと調べてみると、現在でも燃料としてではなく、肥料や熱帯魚水槽の浄化のために販売されています。
さっそく試しに入手してみました。

これが届いた亜炭です。

20130527-02

石炭と木炭の中間という表現がぴったりですね。
最戸産の亜炭を使ったことがある方のインタビュー「低温で石炭のように炎が出ない。燃えかすが多くて、臭かったな」(神奈川新聞平成8年6月4日)が印象的でしたので、さっそく実験開始です。
火を起してお湯を沸かしてみましょう。

こんなときは、茶道具の火熾が便利です。

20130527-03

・・・・さすがに着火性は悪いですね。
10分ほどかかりました。
20130527-04

しかも、臭気の強い白煙が濛々と立ち昇ります。
窓を開けて換気扇フルパワーで凌ぎます。
煙の匂いは、中国産の花火で遊んだ後、バケツの水に浸したときの匂いです。
おそらく硫化水素をたくさん含んでいるのでしょう。
まともに吸い込んだら健康に支障をきたすかもしれません。

ようやく着火しました。
炎が継続的に出ています。
また、燃え進むにつれて層の部分から亜炭が分解していきます。

20130527-0520130527-06

着火した後は外に持って行きました。
(家の中ではとても作業が継続できません)

20130527-0720130527-08

やかんに水を1リットルほど入れて、亜炭にかけます。
ウチワで扇ぎながら待つこと10分。

80℃ほどのお湯になりました。

では、さっそくお茶を淹れてみましょう。

20130527-09-2

丁度淹れ頃の温度なので、おいしそうなお茶が出来ました。

20130527-09

!・・・・美味い!!!!

20130527-10

【実験結果】

100グラムほどの亜炭でも、お茶は充分に淹れることができる。
ただし、換気には充分な注意が必要。
根気も必要です。

 

現在の港南区エリアで産出された亜炭は、常磐炭の四級品程度、1キロあたり平均3700キロカロリーの熱量だったそうです。

とすると、100グラムの亜炭の持つ熱量は370キロカロリー。
熱効率を20%と仮定すると、74キロカロリーですので、1リットルの水を約70℃上昇させるポテンシャルがあるということですね。
まあ、計算どおりでしょう。

燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められたということが充分納得できる実験となりました。

投稿者: kameno 日時: 7:13 PM | | コメント (0)

鎌倉で一番古い仏像は?

世界遺産登録を目指している鎌倉。
古都だけあって、歴史ある寺院が幾つもあります。

それでは、鎌倉市の寺院に祀られている仏像のうち、一番古い仏像は何処の寺院の仏像かご存知ですか?

鎌倉最古寺、杉本寺の仏像でしょうか?
それとも鎌倉五山の仏像でしょうか?

・・・・・・

正解はこの仏像です。

20130422-01
(写真は『總持寺名宝100選』図録より)

鎌倉市にある寺院の仏像の中で、ダントツに古い仏像です。

鎌倉市指定文化財 観音菩薩立像
実に平安時代後期の藤原様式のものです。

 

どこの寺院に祀られているかというと、曹洞宗の大船観音寺です。
意外ではないですか?

このことを知っている方は、相当の鎌倉ツウです。

大船観音の白衣観音像も穏やかな表情ですが、こちらの観音様の慈悲の表情も印象的ですね。
眺めているだけで幸せになります。

投稿者: kameno 日時: 1:27 AM | | コメント (2)

なぜ2年目が3回忌なのか

法事に関する質問で、意外に多いのが「1周忌は1年目なのに、なぜその翌年の2年目に3回忌となるのか?」という質問です。

今日のブログ記事では、そのことを考えてみましょう。

1周忌と3回忌、「周」と「回」というように字が異なっていますね。
それが疑問を解決するポイントとなります。

命日から、季節が(例えば冬にお亡くなりになった方は)春→夏→秋→冬と一年をかけて一巡します。
一巡したところが1周です。
よって、命日から季節が一巡したところで1周忌となります。
これは判りやすいですね。

次に、回忌ですが、これは「回」を数えますから、葬儀の法要を1回目、そこから「1周」ごとに「回」を重ね、1周忌が2回忌、2周忌が3回忌となります。
実に簡単な話で、このように回忌は 「数え」 で数えるから、2年目が3回忌となるのです。

では、なぜ1周忌、3回忌の後は7回忌、13回忌・・・と、3と7の付く年だけ年忌が定められているのかという疑問が沸きますが、その理由は、まずはこちらをご覧ください。

年回法要にまつわるお話

 

日本には、亡き方を弔い、そしてご祖先様を大切にするという良い習慣が受継がれています。
法要をなぜ営むのかというと、法要における読経の功徳を亡き方に向け、それを回(めぐ)らすということです。
そして亡き方を偲び、その遺徳に感謝し報恩の意を表することを意味します。

 

この年回法要という節目節目の法要のみにかかわらず、毎年、あるいは毎月の忌日、もっといえば毎日のように、各家庭で普段から親しくご供養されることも大切です。

 

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ちょうど1か月後に東日本大震災発生から2周年となります。
尊い命を亡くされた多くの方がたの3回忌を迎えようとしております。

曹洞宗では、3月11日に全国寺院に次の呼びかけをしています

・被災者の追悼並びに被災各地の早期復興を祈願するため、地震発生時刻の午後2時46分に洪鐘を撞く
・三回忌追悼慰霊法要の修行

皆さまとともに、この震災で犠牲になられた方がたの慰霊と一日も早い復興を願い、ご遺族をはじめ、深い悲しみの中にある全ての方の心に寄り添い、追悼を捧げる一日となりますよう願います。

投稿者: kameno 日時: 9:25 PM | | コメント (0)

2013年は大彗星が来る

2012年は金環食、金星太陽面通過、金星食など「金」にまつわる天文現象が多い年でした。
今年の漢字も「金」。

来年は、もっと劇的な天文現象がありそうです。
それは2つの大彗星です。

■パンスターズ彗星(C/2011L4)
NASAのサイトによると、軌道要素は次の通り。
C/2011 L4 (PANSTARRS)
Element    Value
e    1.000094546
a    -3190.159489 AU
q    0.301617079 AU
i    84.19838817 deg
node    65.6654204 deg
peri    333.6412209 deg
M    359.9980191 deg
tp    2456361.647 JED   (2013-Mar-10.14683852)
period    n/a    n/a
n    5.47E-06 deg/d
Q    n/a

軌道要素を元に、軌道を描いてみます。
3月初旬から下旬に掛けて最大光度-1等星~-7等星になる可能性があります。
20121222-06
↑は、2013年3月11日の彗星の位置です。
日没後、西の空に明るい彗星が輝いて見えることでしょう。
20121222-01
実際、どれほどの明るさで、尾がどのくらい長くなるかはその時になってみないと判りませんが、東日本大震災2年目を迎え各地で3周忌法要が厳修される時期です。
目にした方々の心に刻まれる彗星になるのではないかと思います。

-------------------------

■アイソン彗星(C/2012S1)
NASAのサイトによると、軌道要素は次の通り。

C/2012 S1 (ISON)
Element    Value
e    1.000002093
a    -5982.696561 AU
q    0.012519456 AU
i    61.76100547 deg
node    295.7552562 deg
peri    345.4982949 deg
M    359.9991484 deg
tp    2456625.333 JED    (2013-Nov-28.83277726)
period    n/a    n/a
n    2.13E-06 deg/d
Q    n/a

軌道要素を元に、軌道を描いてみます。
もしかすると-12等程度のとてつもなく明るい彗星になるかもしれません。
20121222-07
↑これは12月8日、釈尊成道の日の彗星の位置です。
20121222-05
アイソン彗星は、2013年11月28日に、太陽から0.0125 天文単位という、かなり太陽に近い位置を通過していきます。
このときに、彗星を構成する氷が相当溶け出して放出されるのではないでしょうか。

成道会の朝、東の空を見ると、彗星がまるで月のように明るく輝いている・・・・はずです。

※繰り返しますが、彗星が実際、どれほどの明るさで、尾がどのくらい長くなるかはその時になってみないと判りません。

 

なお、どちらの彗星も離心率eが1を超えているため、太陽に近づくのは一度きり。
その後は放物線軌道を描きながらどんどん太陽から離れていって、再び帰ってくることはありません。
まさに一期一会の大彗星なのです。

 


■関連ブログ記事
ホームズ彗星大増光
ホームズ彗星の動き
ようこそルーリン彗星
ルーリン彗星が土星に接近
ハートレー彗星が見ごろ
投稿者: kameno 日時: 11:55 PM | | コメント (0)

13.0.0.0.0 Happy New Long Count!

今年も残すところ10日となりました。
いよいよ年の瀬も大詰めを迎えています。

今日、2012年12月20-21日でマヤ暦が終わりとなるので、お隣の国から伝わってくるニュースのように「世界が終わる」と考えている方々も多いようですね。
その根拠となっているのが、メキシコ・タバスコ州のトルトゥゲーロ(Tortuguero)遺跡で見つかった石板(Monument 6)だそうです。
しかし、その石板には世界の終わりとはかかれておらず、とある支配者の戦いの生涯が記されているだけ、という見方が有力です。

ノストラダムスの予言にしろ、某宗教のハルマゲドンにしろ、終末論はいつも私たちの周りを騒がしていますね。

 

折角なので、マヤ暦がどういうものなのかを調べてみましょう。

Mayacal

マヤ文明は、天文学に優れた知見をもっており、精巧な暦を作成して使用していたとされます。
まずは短期カレンダーです

(1)260日で1周するカレンダー「ツォルキン」…宗教的・儀礼的な役割をもつ
(2)365日で1周するカレンダー「ハアブ」…太陽暦に近いカレンダー

この2つのカレンダーの組み合わせで「カレンダー・ラウンド」を作りました。
260と365の最小公倍数の18,980日が「カレンダー・ラウンド」とされ、約52年の長さとなります。
だいたい人の一生分の長さくらいですね。

 

このほか、マヤ文明では長期暦(ロング・カウント)が用いられており、起算日は紀元前3114年とされています。
長期暦の単位は

  • キン Kin = 1日
  • ウィナル Uinal =20キン
  • トゥン Tun =18ウィナル
  • カトゥン Ka'tun =20トゥン
  • バクトゥン Bak'tun =20カトゥン

となります。
すなわち、1バクトゥンは 20×18×20×20=144,000 キン =144,000日(おおむね394年)です。

バクトゥンは宗教的な意味を持つ13周で終了するということなので

144,000×13 = 1,872,000 日(約5,125年)で終了となります。

マヤ暦は紀元前3114年8月11日が起算日(0バクトゥン.0カトゥン.0ウィナル.0キン)とされていますので、それによると、昨日
2012年12月20日が 12バクトゥン.19カトゥン.19トゥン.17ウィナル.19キン   となり、13番目の12バクトゥンが満了となる日となります。

ーーーーーーーーーーーーー

そして、今日から新しいマヤ長期暦へ!
2012年12月21日は再び   0バクトゥン.0カトゥン. 0トゥン.0ウィナル.0キン!

今日はマヤ長期暦には無い新しい第一歩の日ということになります。
新しいマヤ長期暦おめでとう!!!!

今日はゆず湯にゆっくり浸かってお祝いしたいと思います。

 

追記 いろいろな資料を調べてみると、バクトゥンよりさらに長い単位

1 Pictun = Bak'tun
1Kalabtun = 20 Pictun
1 K'inchiltun=20 Kalabtun
1Alautun=20 K'inchiltun

などというものがあり、それによると、1Alautunは63,123,288年という途方も無い長時間になります。
それでもまだまだ大宇宙、大自然の尺度からするとほんの刹那の概念でしかありません。
結局私たち人類の歴史なんていうのは、大宇宙、大自然の尺度からするとほんの一瞬、そんな中で終末だ何だと騒いでいるだけのちっぽけな存在なのですね。

投稿者: kameno 日時: 2:47 PM | | コメント (2)

無門の門

大学キャンパスの門は、東大=赤門、中央大学=白門のように、有名なものがたくさんあります。
早稲田大学の門は「無門の門」と呼ばれます。

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この写真は大隈講堂の時計台から眺めたキャンパスです。
大隈講堂前広場に大きな入り口(正門)があり、この門は幅18mメートルの門柱・塀・扉もない開放的な門です。
「早稲田に来る者を拒まない」ことを意味し、誰でも自由に出入りできるようになっています。

貞昌院の三門は、このような感じです。

20121219-02
門構えはありますが、常に開いています。
こちらも誰でも、いつでも境内に入ることができます。
(けれども最近はセキュリティーの関係で、夜間はガッチリ閉められてしまっているお寺も多いですね。残念です)
これは一切衆生が仏門に入る事を拒まない仏の大慈悲心を表しています。

ただし、禅寺の山門は、境内に至る第一の関門(結界)であり、横木が渡っています。
これは、門を越えて中に入る際には、「聖」の世界に入るという覚悟を持って、身も心も浄くして通過するという重みがあります。
誰でも入るものを拒まないとともに、入るものはそれなりの覚悟が必要であるということです。

様々な建物、施設には「門」があります。
それぞれがどのような意味合いを持ち、どのような構造になっているのかを知ることは大切なことでしょう。

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蛇足ですが、禅の祖録に『無門関(むもんかん、無門關)』というものがあります。
これが英訳された際に、当初は『Gateless Gate』となっていたそうです。

何だか、「無門の門」のような感じで、哲学的な深淵な意味を持っていそうな感じですが、これは大いなる誤訳でした。
『無門関』は、中国宋代の禅僧「無門慧開」によって編集された公案で、「無門による公安集」です。

『無門関』には「趙州狗子」など、有名かつ難問が収録されていますので、禅に興味のある方には一読をお勧めします。

投稿者: kameno 日時: 8:05 AM | | コメント (0)

牛乳はビンで飲むと美味しい

なぜ牛乳はビンで飲むとおいしいのか - 金沢工大と明治が科学的に解明

金沢工業大学(金沢工大)と明治は11月11日、ビンで飲む牛乳のおいしさを客観的な数値に基づき科学的に解明したと発表した。
同成果は同大 感動デザイン工学研究所と明治の食品開発研究所らによるもので、日本官能評価学会の2011年度優秀研究発表賞に選出され、2012年11月10日に東京農業大学で開催された同学会にて表彰された。
客観的な数値の算出に向け研究グループは「牛乳を飲む時に感じる香り」ならびに「牛乳ビンから感じる触感」に着目、ニオイセンサとサーモグラフィによる計測を行いった。
この結果、ニオイセンサによる計測において、ビン牛乳の容器形状によりミルクの香りが強くなることが数値的に実証され、これが濃厚なあじわいにつながることが科学的に示された。
またサーモグラフィを使いた顔面温度の解析では、牛乳ビンの素材や飲み口により、牛乳飲用時の唇表面の温度が変化し、このことが心地よいひんやり感につながることが客観的な数値として裏付けられたという。
なお、研究グループでは今後、今回の結果が、消費者がよりおいしいと感じる牛乳の開発に生かされるものと期待しているとコメントしている。
(Yahoo!ニュース 2012年11月13日)


風呂上りにビンの牛乳を一気に飲むと特に美味しく感じるんですよね。
しかし、残念ながら、最近はビン入りの牛乳はほとんど見かけなくなりました。
牛乳屋さんの牛乳配達もめっきり少なくなりましたし、学校給食の牛乳も紙パックが増えています。

けれども、紙パック牛乳をストローで飲む(吸う)のでは、牛乳の香りや飲み口のひんやり感は損なわれてしまいます。
味わうということは、単に味だけでなく、五感を働かせることが重要であります。

その、ごく当たり前のことが、手軽で経費が削減できるという理由によって損なわれてしまうのは残念なことです。

それに、ビンのようなリターナブルな容器は、環境にも負担をかけることが少ないという利点もあります。
様々なことにつながる研究成果であると感じます。


■関連ブログ記事
目標に向かうためには、まず足元から

投稿者: kameno 日時: 10:54 PM | | コメント (0)

ししゃも伝説

現在、魚屋やスーパーなどで売られている「子持ちししゃも」のほとんどは、カラフトシシャモ(カペリン:Capelin)という輸入代用品です。
「子持ち」という名の通り、輸入代用ししゃもは主にメスを食します。


けれども、本来のししゃもは、輸入代用品のカラフトシシャモとは似ているようでまったく違うものです。
本来のししゃもは、サケ目キュウリウオ科シシャモ属であり、サケ目というだけあって、秋に海から川を遡上して産卵する性質があります。
(カラフトシシャモは川を遡上しません)

 

ししゃもは、漢字では「柳葉魚」と表記します。
そこにはアイヌと切っても切れない関係が見られます。


神様の贈り物(柳の葉に命を与えたのは神様)

天の上に住むカンナカムイ(雷神)の妹は、ひまをもてあまし、沙流川と鵡川の水源地、シシリムカ カムイヌプリにおりたちました。
ところが、川下のどのコタン(集落)の家々からも、煙が立ちのぼる様子はありません。
不思議に思ったカンナカムイの妹は、人々の話に耳をかたむけました。
「飢饉で食べるものがない。どうしよう。」途方に暮れている人々を救おうと、雷神の妹は、天に向かって大声で助けを求めました。
天上のススランペッの畔にある、神の集落ではおおいに驚き、フクロウの女神が柳の枝を杖にして、魂を背負い地上に舞い降りました。
柳の枝を、どの川に流そうかと、フクロウの女神は神々と話し合い、「沙流川の水はきれいだが、男川で気が荒いから、女川の鵡川に下ろした方がよいだろう」ということになったのです。
魂を入れた柳の葉を、鵡川に流したところ、みるみるススハム(柳の葉の魚)になりました。
(むかわ町商工会のサイトより)



上の物語にある「ススハム」が、ししゃもの語源となり、ししゃもを柳葉魚と表記する由縁もみることができます。

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鵡川(むかわ)と沙流川(さるがわ)の位置関係はこのような感じです。


かつては、秋になると川の底が真っ黒の魚たちによって見えなくなるほど、たくさんのししゃもが遡上した鵡川も、近年の乱獲と護岸工事、河川改修による産卵場所の減少によって遡上するししゃもはめっきり少なくなってしまいました。

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ししゃもは、むかわ町の特産として、かつての漁獲高ではありませんが、決められた漁獲量の範囲で収獲され、販売されています。
上写真は生干しししゃも。
右側のオスのほうが美味しいそうです。

また、この時期のみ、生ししゃもをネタにした寿司を味わうことができます。

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淡白な味わいでありますが、口の中に甘みとコクが広がります。

ししゃもに限らず、普段口にする魚介類が、実は本来のものと全く異なる種類であった、ということが当たり前の時代になってしまいました。
残念なことです。

投稿者: kameno 日時: 4:39 PM | | コメント (0)

永野小学校校歌の作曲者

先日、永野小学校 新旧校歌 の記事を書いていて気づいたことがあります。

それは、永野小学校校歌の作曲者の名前の間違いについてです。

横浜市のホームページには、永野小学校校歌として、下記のように紹介されています。


20121018-03

「永野小学校校歌」
作詞:蕪木 直行 作曲:松井 健裕

 

しかし、正しくは 松井健「祐」 のはずです。

過去に遡って、卒業アルバム等を点検してみましたが、校歌が制定された昭和40年代のものにいたるまで、作曲者の名前は「松井健裕」となっています。
校歌制定の時から、この間違いが続いていると考えられます。


(誤)松井健裕
(正)松井健祐

 

大事なお名前を間違えているまま何十年も見過ごされてきたことが驚きです。

投稿者: kameno 日時: 3:13 PM | | コメント (0)

永野小学校 新旧校歌

まもなく地元の小学校、横浜市立「永野小学校」は創立120周年を迎えます。
これまでの 歴史年表についてはこちらをご参照ください

現在、永野小学校で歌われている「おおぞらーは・・・」の歌詞で始まる校歌は、実は昭和45(1970)年に制定された二代目の校歌です。
では、それまでの校歌は、というと、次のようなものでした。

 

横浜市立永野小学校校歌
作詞:斎藤止女男 校閲:吉原敏雄 作曲:土屋八郎


港都の南 春されば (こうとのみなみ はるされば)
梅いちはやく 香にたちて (うめいちはやく かにたちて)
古賢の教 あたらしく (こけんのおしえ あたらしく)
今日の心を 照らすべし (きょうのこころを てらすべし)
誠ぞ神の 道ならん (まことぞかみの みちならん)


丘は太古の 丘にして (おかはたいこの おかにして)
川は昔の 馬洗 (かわはむかしの うまあらい)
ああ悠久の 天地に (ああゆうきゅうの あめつちに)
みのりし父祖の 伝統は (みのりしふその でんとうは)
広野の土に 継がんかな (ひろののつちに つがんかな)


弥生の空に 咲きにおう (やよいのそらに さきにおう)
桜は明日を 彩どらん (さくらはあすを いろどらん)
文化日本の 象徴にて (ぶんかにほんの しるしにて)
わが学び舎に 光あれ (わがまなびやに ひかりあれ)

20121016-019

 

 

現在の校歌はこちら。
「永野小学校校歌」
作詞:蕪木直行 作曲:松井健祐


大空は 光豊かに (おおぞらは ひかりゆたかに)
目にしみる 木々のみどり葉 (めにしみる きぎのみどりば)
学舎に かたく受け継ぐ (まなびやに かたくうけつぐ)
遠き世の 永野の誇り (とおきよの ながののほこり)
心あらたに 今日も学ぼう (こころあらたに きょうもまなぼう)
力尽くして 力尽くして (ちからつくして ちからつくして)


花々は 校庭に溢れて (はなばなは にわにあふれて)
風吹けば 明るく匂う (かぜふけば あかるくにおう)
友情は 絶えるときなく (ゆうじょうは たえるときなく)
睦みあう 永野の誇り (むつみあう ながののほこり)
ともに手を取り 今日も進もう (ともにてをとり きょうもすすもう)
力合わせて 力合わせて (ちからあわせて ちからあわせて)


飛ぶ鳥の 羽のたしかさ (とぶとりの はねのたしかさ)
さわやかに 空行く姿 (さわやかに そらゆくすがた)
たくましく からた鍛えて (たくましく からだきたえて)
明日を呼ぶ 永野の誇り (あすをよぶ ながののほこり)
声高らかに 今日も歌おう (こえたからかに きょうもうたおう)
望み果てなく 望み果てなく (のぞみはてなく のぞみはてなく)

 

この新しい歌は、当初は「永野小学校こどもの歌」として作られたものでした。
作曲された松井先生直筆の楽譜を御紹介いたします。

nagano.jpg

それまでの主旨を汲みつつ、現代的な明るい曲調であるために、昭和45(1970)年、「永野小学校こどもの歌」が正式に「永野小学校校歌」として制定されたのでした。


追記
旧校歌の2番目の歌詞、「広野」を「ひろの」として記載しましたが、「こうや」なのか「ひろの」なのか記憶が曖昧です。
ご存知のかたがいらっしゃったら、読みについてお知らせくださいますようお願いします。

投稿者: kameno 日時: 3:56 AM | | コメント (0)

発見!かながわ ヒストリート

大本山總持寺での行持、御征忌会で5日間ほど世間喧騒を離れた生活をしていた間に、以前、朝日新聞から取材を受けていた記事が掲載されていました
短い文章にコンパクトに纏められているので、補足を加えながらご紹介させていただきます。


【発見!かながわ ヒストリート】上大岡駅周辺

京急、横浜市営地下鉄の上大岡駅(横浜市港南区)は、1日10万人が乗降する横浜南部の拠点駅だ。そこから10分ほど歩いた住宅地に、鎌倉時代に尼将軍と呼ばれた北条政子が通った古い街道がある。
駅前のささやかな商店街を抜けて大岡川を渡ると、目の前に小高い丘の連なりが見えてくる。この丘の尾根筋には、徒歩なら細道や階段で上がれるが、車で行くには山裾を迂回(う・かい)して「餅井坂」を上るしかない。急坂を上りきると、みなとみらいのビル群が見晴らせる眺望が待っている。

この餅井坂から続く尾根道は、関東各地から鎌倉に至る鎌倉古道「下ノ道」の一部。道の両側にマンションが立ち並ぶ今の様子からは想像しにくいが、1800年代初頭に編まれた「新編武蔵風土記稿」にも載っており、往時には「下ノ道」と「金沢道」の分岐点だった。坂の上り口にある石の道標が、交通の要所だったことを示している。

それにしても、なぜこんな山道なのか。貞昌院(横浜市港南区)の副住職で地元の歴史に詳しい亀野哲也さん(47)によると、源頼朝が整備した鎌倉街道は「いざ鎌倉」の早駆け用。雨が降ればぬかるむ低地を避け、見晴らしの良い尾根伝いを最短距離で結んでいた。

「下ノ道は、武蔵と相模の国境になった分水嶺(ぶん・すい・れい)をたどる。貞昌院がある上永谷周辺は相模側で、“山向こう”の上大岡とは近年まで文化圏が違い、行き来も少なかった」(亀野さん)。古い街道は、自然地形の中で人々が暮らした時代の記憶をとどめる貴重な歴史遺産だ。
貞昌院近くの下ノ道沿いには、北条政子が愛馬を休ませたことに由来する「馬洗橋」が残る。数ある鎌倉古道の中でも、鎌倉から弘明寺に至り、保土ケ谷へと続く下ノ道は政子との関わりが深い。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に、源家累代の祈願所と定めるとあり、弘明寺は頼朝や政子の信仰対象だった。

郷土史家がつくる港南歴史協議会の茅野眞一さんは、下ノ道を「政子の涙道」と呼ぶ。「弘明寺に実朝を暗殺した公暁を祭った、という言い伝えがある。反逆者となり死んだ孫を政子は悼んだはず」。実朝は政子の次男、公暁は政子の長男頼家の子ども、つまり政子の孫だった。
明治期の廃仏毀釈(はい・ぶつ・き・しゃく)で多くの古文書が失われ、弘明寺は「確認できない」。それでも、気丈な女性の涙を思って歩くのは、悪くない。
(朝日新聞神奈川版 2012年10月12日朝刊)


「餅井坂」は、港南区最戸2丁目と南区別所3丁目の境を基点とする坂ですが、バス通りから裏路地に入った所となるため、現在では知る日とぞ知る場所となっています。
しかし、かつては主要街道の要所ともいえる重要な場所でした。

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餅井坂の登り口に、「ミナミかまくら道最戸村」「とつかミちくミようし道」と標された百万遍念仏塔が設置されていて、鎌倉古道下之道(弘明寺道)は、ここから下之道(餅井坂を登り鎌倉方面へ向かう戸塚道)と金沢道(笹下釜利谷道路方面より鎌倉に向かうかねさわみち)に分岐することを示しています。

餅井坂の由来はよく分からないそうですが、川崎の王禅寺近辺にも餅坂(餅井坂)という地名があり、祭りや縁日に餅をついて露天で売っていた「餅屋」という屋号の家があったことに由来する(『川崎の地名』より)ということですので、同様の理由でしょう。
実際に、餅井坂を登り切った場所には甘酒台という地名が残されています。

餅井坂にまつわる中世の逸話として、文明18(1486)年に京都からこの地に巡行して来た道興准后師が『廻国雑記』に次のような句を残しています。

坂の上からの眺望
行きつきて
見れどもみえず
もちひ坂
ただわらぐつに
あしを喰はせて

餅井坂という名前から、餅屋があることを期待したけれども、尾根筋の坂道を登っても餅屋は見つからずがっかりした様子が描かれています。
この句にあるように、現在の鎌倉街道は大岡川沿いの谷戸を通るルートを辿りますが、鎌倉時代の鎌倉古道下之道は、主に尾根筋を通るルートとなっています。

車両の通行を目途とする現在の道とは異なり、人が足で通行する道は、見通しがよく乾いて歩きやすい道の方が好ましいということが、その理由です。


山の上の道を通ると見通しが良いので敵や獣に対して有利である。乾いていて歩きやすい。一方川沿いの道は湿地が多いので歩きにくい。どうしても大小の川を渡る必要があり、渡る橋がもしあっても木橋の寿命は7年ほどである。しかも度々壊れる。履物が「わらじ」や藁でできた靴では始末が悪い。熊・猪・オオカミ・まむし・ヒル・蜂・毒虫などと出会いやすい
『忘れられた街道』(中根洋治・風媒社)

「古道」と呼ばれる道は、現在では、何故こんな場所を辿るのか、と一見疑問を持つようなルートでありますが、そこには必然的な理由があるのです。

 

新聞記事の中にある「武相国境」と「鎌倉古道 下之道」の位置関係は下図のようになります。
赤い線が「武相国境」、青い線が「鎌倉古道 下之道」です。

より大きな地図で 鎌倉古道 を表示


この近辺の武相国境は、大岡川水系(武蔵国)と柏尾川水系(相模国)を分ける分水嶺の尾根筋の線となります。
それを斜めに超えていくのが鎌倉古道下之道です。



餅井坂から永作にかけては、「武相国境」と「鎌倉古道 下之道」が交錯する地点ですので、さまざまな物語がここから生まれました。
それらについては、これまでもブログで記載して参りましたし、今後も期を見て書いていきたいと思います。

先人たちが往来していた街道をかつての情景に思いをはせながら散歩すると、新しい発見があるかもしれません。


鎌倉古道下之道
鎌倉古道下之道-2
一遍上人逗留の地「ながさご」

投稿者: kameno 日時: 2:23 AM | | コメント (2)

東京スカイツリーと五重塔の心柱

今年6月22日に開業した東京スカイツリ―。
完成直前には東日本大震災の大きな揺れが工事中の東京スカイツリーを襲いましたが、大きな被害は無く予定通り完成しました。

地震の揺れを抑えることに大きな役割を果たしたのが、五重塔に用いられている「心柱」です。
五重塔は縦に長いため、一見地震には弱いように見えますが、心柱の免震構造によって日本各地の五重塔は地震を乗り越えてきました。


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日光東照宮では、東京スカイツリー開業にあわせて、重要文化財・五重塔の「五重塔初重内部心柱特別公開」を行なっています。
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東照宮の五重塔は、慶安3(1650)年に初代若狭小浜藩主酒井忠勝公により寄進された初代の塔が文化12年に焼失したため、文政元(1818)年十代藩主酒井忠進公によりに再建されたものです。
高さ約36メートル。
漆塗り、極彩色が映える色彩豊かな塔です。

塔の中心を貫く心柱は、金箔が貼られ、上から鎖でつり下げられています。
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床下の心柱最下部がライトアップされていて、構造が見えるようになっていました。
最下部では心柱が数センチ浮いています。

東京スカイツリーのデザイン監修を行った東京藝術大学学長・澄川喜一氏らがこの構造を現代の塔に取り入れ、心柱免震制御システムとして大きな役割を果たしているのです。

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東照宮は標高がちょうど634mというのも何かの縁なのかも知れませんね。

日光からの帰りも東武特急を利用しました。
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終点に近づくに連れて車窓には東京スカイツリーが大きく見えてきます。

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浅草寺の五重塔と東京スカイツリーのコラボレーション。

日本の伝統技術が現代に生かされているということは素晴らしいことです。

※このブログ記事の写真はXperia mini proで撮影しました。


■関連ブログ記事
檀信徒旅行(奈良)報告(3)
東京スカイツリー174m
2つのビックプロジェクト
満月×東京スカイツリー
皆既月食×東京スカイツリー
投稿者: kameno 日時: 10:22 PM | | コメント (2)

シドモアと日米友好の桜100周年

今から100年前の1912年3月27日、日本とアメリカの友好親善の証として、日本から約3,000本の桜がアメリカに送られ、ワシントンDCのポトマック河畔に植えられました。
今年は、植樹から100周年、丁度今日がその記念すべき日となっています。

以来、毎年ポトマック河畔の桜は見事な花を咲かせるようになり、日本と同様に桜を愛でる「桜祭り」も開催されています。
今年の桜祭りは100周年記念として3月20日から4月27日まで開催されており、3月25日の開会式には福島県川俣町山木屋地区太鼓クラブや、MISIA、東儀秀樹さんなどが公演を行っています。
また、丁度100年目の日となる3月27日には、AKB48のメンバー(倉持明日香、高城亜樹、高橋みなみ、梅田彩佳、藤江れいな、松井咲子、峯岸みなみ、宮澤佐江、鈴木紫帆里、阿部マリア、市川美織、入山杏奈、川栄李奈、小嶋菜月、高橋朱里、平田梨奈)たちがコンサートを行うことでも話題になっていますね。

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100年前に、アメリカに桜を贈る事業が行われた背景には、アメリカ人紀行作家のエリザ・シドモア女史、アメリカ合衆国農務省のチャールス・L・マーラット博士、農務省植物探検家ディビット・フェアチャイルド博士らの「桜に対する思い」と、それに応えた尾崎行雄東京市長、化学者高峰譲吉氏をはじめとする日本人たちの多大なる貢献がありました。

エリザ・シドモア女史は、1856年生まれ。記者としてアラスカや、中国、ヨーロッパを旅する中で、28歳の時に来日。その中で特に日本の東京・向島で観た桜に心を惹かれ、祖国アメリカにも桜を植樹したいという思いを強く持たれました。
1891年に『日本・人力車旅情(Jinrikisha days in Japan) 』を出版し、「武士道」や「日本の風習」、「桜の名所」などの紹介を欧米に発信しました。
世界共通の言葉となっている「TSUNAMI」という言葉をアメリカに伝え広めたのもエリザ・シドモア女史だそうです。
さらにアメリカ政府にポトマック川河畔への桜植樹を提案する活動を継続していきました。

そのあたりの経緯を詳細に知るには次の本がお薦めです。

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『シドモア日本紀行 ー明治の人力車ツアー』(講談社学術文庫) エリザ・R・シドモア (著)  外崎 克久 (翻訳)
『ポトマックの桜 ー津軽の外交官珍田夫妻物語』(サイマル出版会)外崎克久 (著)

 

実は、これらの著作(あるいは翻訳)をされている外崎克久氏は、私が東京都に入庁2年間、設計課に所属していた時の直属の上司(当時設計係長)でありました
氏からは、様々なことを学ばせていただきました。
改めて謝意を表したいと思います。

 

さて、アメリカに初めて日本の桜が試験的に持ち込まれ、植えられたのは1906年のことでした。
フェアチャイルド博士がメリーランド州の自宅庭に植樹を試行、アメリカの気候・土でも根付き、花を咲かせることが分りました。

1909年、桜が花開いたフェアチャイルド博士の庭にシドモア女史、マーラット博士、高峰博士、水野総領事らが集まり、アメリカへの桜植樹の具体的な構想が動き出し、当時都市計画案が完成したばかりのワシントンDCの中の、まだ埋立地で殺風景だったポトマック河畔に大公園を作り、そこに「ニューヨークに桜の並木をつくる」という計画が具体化したのです。


日露戦争終結直後の1909年、東京市の市長であった尾崎行雄氏が日米親善の象徴として、そしてポーツマス条約の仲介をしてくれたアメリカへの感謝の心をして、桜の寄贈を決定します。

ここまでは順調に事が運んだように見えましたが、様々な困難も付きまといました。
1909年秋に横浜港を出港した桜の苗木約2000本は、ワシントンに到着後、カイガラムシやネマトーダなどの病虫害が発生していることがわかり、全ての苗が焼却処分されることとなってしまいました。

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(焼却される桜の木 Wikipedia National Cherry Blossom Festival 項より)

これを知った尾崎東京市長は、この失敗を踏まえて、静岡県興津の農商務省農事試験場園芸部において害虫の駆除や苗木づくりの方法について当時の農業技術の粋をあつめ徹底的な調査研究を行いました。
興津の苗木畑では兵庫県産のヤマザクラを台木苗として接木で苗木を増やし、さらに徹底的な管理の下育てられた苗木を青酸ガス燻蒸し、仮植えを繰り返しました。
シドモア女史もこの苗木畑を訪問して成長を見守る中、1912年には病虫害の無い健全な苗木が見事に生長し、東京市の検疫も無事通過しました。

1912年(この年は明治45年・大正元年)2月、約6,000本の桜の苗木が再び横浜港からシアトルに向けて出港しました。
シアトルから貨車でワシントンに到着。アメリカ農務省による検査でも病害虫は全く検出されませんでした。タフト大統領夫人と米国駐在珍田大使夫人によりタイダル・ベイスンの北岸に最初の2本の桜が植樹されたのが3月27日、100年前の今日なのです。


こうして、届けられた苗木のうち半数はワシントンのポトマック河畔に、残りの 半数は「ハドソン・フルトン祭」で樹えられていきました。

ポトマックの桜は、アメリカ人にもこよなく愛され、桜祭りは1935年から開催されています。
途中、日米開戦により、「敵国の桜」として伐採される危機もありましたが、それよりも桜の美しさが勝っていたのでしょう。
伐採しないという判断を下された関係の皆様に感謝いたします。

100年前に植樹された原木は、現在でもまだ200本ほど残っており、桜の子孫たちを含め3,750本の桜が毎年美しい花を咲かせています。

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(A grove of cherry trees on the national mall taken during the National Cherry Blossom Festival :Wikipedia National Cherry Blossom Festival 項より)

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昨年は、桜祭り 行事の直前に東日本大震災が発生し、 桜祭り の中で日本支援の行事が行われ、多くの義援金が寄せられました。

 

日米友好の架け橋となった桜が紡ぐ深い深い縁を感じます。
100年前の丁度この日、ポトマック河畔に植えられた桜は、まもなく満開となります。
今年も美しく花開くことでしょう。


1991年に日本に里帰りしたポトマックのシドモア桜。
横浜外人墓地に眠るシドモアの墓地周辺と、元町交番の前に植えられています。
20120328-02 20120328-01
ポトマックの桜とDNAは同じなので、気候が同じであれば同時期に咲くはずです。
蕾はパンパンに膨れていて、今にも咲き出しそうです。


■関連ブログ記事
桜吹雪と友好の桜

■関連リンク
桜祭り公式サイト

投稿者: kameno 日時: 11:07 PM | | コメント (0)

低線量放射線の影響を考える

20120319-10

昨年3月以前は、日本の日常生活において放射線の影響を真剣に考えるということは為されてきませんでした。
シーベルトやグレイ、ベクレルなどという単位についても気にすることも、耳にすることすら無かった方も多いはずです。

東京電力福島第一原発の事故によって、今まで日常生活で聞きなれないような単位や言葉が日常当たり前のように出てきました。
しかし、これまでは気にすることが無かっただけで、我々は、元々宇宙空間や地中の鉱物、CTスキャンやレントゲン、放射線治療、飛行機の利用などによって様々な放射線を浴びています。
浴びる放射線量をゼロにすることは不可能なことなのです。
例えば、東京とニューヨークを直行便で往復したとすると、0.20mSV ほど被曝する(このブログの最下部の図を参照)とされています。

そこで、実際にどの程度なのかを、ハワイへの往復の際に、手元にある線量計(エアーカウンターS)を持参し、計測してみました。

20120319-01
成田空港を離陸し、シートベルト着用サインが消える頃には0.40μSV/hにまで上昇していました。
以降、ぐんぐん上昇し続け、安定飛行中はずっとこのような感じで・・・・・

20120319-0320120319-0220120319-04
20120319-0520120319-06
大体0.90~1.20μSV/h程度の範囲を行ったり来たりしておりました。
だいたい安定飛行中は平均1.1μSV/h程度でした。

ハワイ諸島に近づき、高度を下げるにつれて線量は下がり(離陸時と着陸時は電子機器での計測は出来ませんので計測値はありません)、

20120319-07
ホノルル国際空港での地上の線量は 0.05μSV/h 程度でした。

つまり、地上に比べて20倍以上の線量であることが分ります。
ハワイへは往路7時間、帰路9時間ほどかかりましたから、往復16時間。
安定飛行の時間の部分のみを考え、15時間とすると、
1.1μSV/h × 15h = 16.5μSV =0.0165 mSVとなります。

 

対し、冒頭の事例、東京とニューヨークで 0.20mSV というのは、往復25時間と考えても 8μSV/h ほどの線量です。かなり高線量ですね。
いずれにしても、航空機の操縦士や機関士、キャビンアテンダントなどは、年間かなりの時間を飛行中の機内で過ごす訳ですから、相当量の積算線を被曝されているのではないかと考えます。

ただし、100mSV 以下の低線量な放射線による人体への影響は、よくわかっていないということが実際のところです。

放射線は目に見えないし、その影響もよく分からないことが多いということが、余計不安をあおり、風評被害をもたらす源になるのかもしれません。
逆に言えば、日常生活において、どこにどれほどの放射線が存在しているかをきちんと理解することが大切であるといえましょう。

さて、日本人の平均被爆量はJAEのデータによると、年間1mSV ほどです。
冒頭に述べたように、宇宙線、地面や地中の鉱物などからの放射線の他にも食物からの放射線も含まれます。
岐阜や山口県には花崗岩が多い影響で、自然放射線量が高くなっています。
下の地図(東京電力福島第一原発の事故以前のデータ)で赤い箇所は、年間1mSV を超える場所です。

Radiation-m2
図:計算で求めた自然放射線量(地上1m, 今井ほか(2004)の元素分布データ、計算式はBeck et al.(1972)による)(海と陸の地球化学図より)
ベータ線とガンマ線の場合には、全身に均等に吸収されたとき 1グレイ(Gy)=1シーベルト(Sv)と換算できる。出典元:日本地質学会

 

また、東京電力福島第一原発の事故以降、定点計測され公表されている地球環境スキャニングプロジェクトSAFECASTによる全国の放射線量情報によると、最新(3月19日午前8時)の空間線量は右のとおりです。
棒グラフにして北から並べてみました。

これを見ると、日本全国どこでも0.1μSV/h前後の値は当たり前に出ていることが分かります。
世界的に見ると、インドやブラジルのように年間10mSV 程度の地域も数多くあります。
また、公表されておりませんが、中国内陸部では核実験の影響で信じられないほどの線量が計測されているようです。
(例:中国のラサ市 での2012年3月18日の計測地では 0.18μSV/hと今公表されています)


話を日本国内に戻します。
福島県の一部については、未だ東京電力福島第一原発の影響により高い線量が出ておりますが、この地域については、国や東京電力主導による除染作業を集中的に進めていただきたいものです。
しかし、同じ福島県内でも、現状においては会津地方やいわき市、白川、須賀川の近辺などは、全国の他の都市とそれほど線量が変わらないという現状も、見落としてはなりません。

大切なことは、放射線がゼロであるということはありえないこと。そして、これまでも私たちはある程度の自然放射線に囲まれて生活していた(いる)という事実です。


 

さて、100mSV 以下の低線量な放射線の影響が人体にどれほど有害なのか(あるいは影響はないのか)は、議論の分かれるところです。
(1)人体への影響は、100mSV 以上の高線量があたえる影響を直線的に延長したリニアな影響が考えられ、少ないほうが影響は少なく、浴びる量が多くなるほど比例してリスクが高くなる。
(2)(3)人体への影響は、ほぼない。
(4)人体への影響は、ラドン温泉などごく微量な放射線の場合、むしろ効能がある。

という、主に3種類の説に分かれるのではないでしょうか。

図示すると次のようなものです。

img_01

 


私たちの体は、冒頭に述べたように、日常から少なからず放射線に曝されていることは事実です。
低線量な放射線の影響への研究が進み、無用な不安が払拭されていくことを望みます。

 

 

 

value

 

結論として、放射線の健康へのリスクは100mSV 以下では、学者の意見が割れるくらい僅かな影響しかないと考えられえます。
したがって、空間線量がどのような値なのかを正確に把握し、特に乳幼児や小中学生には食品や飲料に含まれる放射性物質がどの程度なのかに注意すれば、日常生活において過剰に反応する必要は無いと思います。
むしろ、放射線にばかり気を向けるのではなく、農薬や食品添加物、タバコなど、他の有害な要素にもバランスよく注意していくことが必要でしょう。


■関連ブログ記事
境内の放射線量測定結果
放射線量分布等マップ

投稿者: kameno 日時: 2:35 PM | | コメント (2)

演劇舞台撤収作業

私たちの世界は、放ったらかしにしておくと、整然とした状態から乱雑の状態へと進んでいきます。
例えば、水に青インクを一滴垂らすと、青い色が全体に拡散して広がります。
いくら待っていても、一箇所に青いインクが集まる状態には戻りません。

部屋もそうですね。
初めはきちんと整理されている状態でも、だんだんと散らかっていきます。
時々掃除をしたり整理整頓をしないかぎりは勝手に部屋が整理されていくということは絶対にありません。

そのような現象を表す法則に、「エントロピー増大の法則」というものがあります。
この法則は物理学の基本法則である「熱力学第2法則」の別名であり、本来は熱力学の法則です。

 


エントロピー (英: entropy) は、熱力学および統計力学において定義される示量性状態量である。当初は熱力学において、断熱変化の不可逆性を表す指標として導入され、後に統計力学により、系の微視的な「乱雑さ」を表す物理量という意味付けがなされた。 更に、系から得られる情報に関係があることが指摘され、情報理論にも応用されるようになった。 物理学者の E.T. Jaynesのようにむしろ物理学におけるエントロピーを情報理論の一応用とみなすべきだと主張する者もいる。
(ウィキペディア「エントロピー」項)

元々は熱力学の用語でしたが、「乱雑さ」という意味づけがなされて用いられることも多くあります。
整然とした状態を「エントロピーが小さい」
乱雑になった状態を「エントロピーが大きい」

というように表現されます。

 

整然とした状態は、自然のままでは乱雑になっていきますので、それを整然とした状態に戻すためには外部からのエネルギーが必要になります。
エントロピー増大の法則に逆らうのは大変なことなのです。

 

ここからが本題です。
お寺の本堂は、法事を行う場所となり、結婚式場となり、落語の寄席になり、演奏会会場になり、坐禅堂になり、演劇の舞台になります。
それぞれの準備のために、必要な資材を運び込んで組立て、場を作り、終わったらそれらをバラシて撤収する。
そこには「エントロピー増大の法則」に立ち向かうドラマチックな光景が繰り広げられます。

先日の本堂での演劇終了(午後7時半)から撤収の目処がつくまで(午後9時半)まで2時間の様子を早送りで記録しました。
舞台監督を陣頭指揮に、整然かつ丁寧に手際よく行われた見事な撤収作業をご覧ください。

※2時間を1分に縮めています


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千秋楽

投稿者: kameno 日時: 11:50 PM | | コメント (0)

本当の友達はいつも一緒

昨年6月のドイツ声明公演で、ケルン独日協会(Deutsch-Japanische Gesellschaft e.V. Köln)から龍吟会のメンバー全員に配られた「本当のトモダチ」Tシャツ

そこには
Echte Fründe ston zesamme! と書かれています。

これは、「本当の友達はいつも一緒」という意味です。
ドイツから東日本大震災からの復興を願い、大学生によりデザインされたTシャツです。

20110705-01

その言葉の元となっているのが、ケルンで有名な歌です。

Echte Fründe ston zesamme!

この歌詞が、ケルンの方言で書かれているために意味の詳細が分りづらく、ドイツ人の知人も良く理解できないということでした。

そこで、ケルン独日協会のMさんに対訳をお願いしました。

 

Echte Fründe ston zesamme

Refrain
Echte Freunde stehen zusammen,
stehen zusammen so wie eine „Gott und Pott“.
Echte Freunde stehen zusammen,
ist auch das Glückt unbeständig und läuft dir weg.
Freunde, Freunde, Freunde in der Not,
gehen hundert, hundert auf ein Lot.
Echte Freunde stehen zusammen,
so wie eine „Jott und Pott“.

Du hast Glück, Erfolg und kommst zu Geld.
Dich kennt hier auf einmal Gott und alle Welt.
Menschen, die dich vorher nicht gekannt (haben),
kommen aus den Löchern angerannt,
und sind ganz plötzlich alle mit dir verwandt.

Refrain: Echte Freunde.......

Du hast Pech, es geht dir Berg ab.
Vergessen ist all das, was du bisher geschafft (hast).
Menschen, die dich vorher gut gekannt (haben),
geben dir noch nicht einmal mehr die Hand.
Jetzt siehst du, wer mit Recht sich Freunde genannt (hat).

Refrain: Echte Freunde.......

本当の友達はいつも一緒

(くりかえし)
本当の友達はどんな時でも共にいて、
„Jott und Pott“ のように、離れることがない。
本当の友達はどんな時も一緒、
お前の幸運が移ろいやすく、お前を見放すことがあっても。
友達、友達、困っている時の友達は、
100人のうちほんの僅かしか残らない。
本当の友達はいつも一緒、
どんな時でも離れることはない。

運に恵まれて成功し、金持ちになると
急に全世界がお前と知り合いになり、
それまで未知だった人間まで
隅々から走り出てきて
突然お前と親戚になってしまう。

本当の友達はいつも一緒(くりかえし)

運が傾いて、下り坂になり、
今まで成し遂げたことが全部忘れられると
それまでお前と仲良く付き合っていた人間も
お前に握手の手さえ出さなくなる。
その時こそ誰が本当の友達と呼べたのかが分かる。

本当の友達はいつも一緒(くりかえし)

 

本当に素晴らしい歌詞だと改めて感じます。
喜びをともに分かち合い、そして悲しみをともに分かち合えるのが本当の友達ですね。


ケルン独日協会のMさん、有難うございました。

20110705-06

投稿者: kameno 日時: 9:05 AM | | コメント (0)

辰年コラム-お寺と龍

今年の干支は辰。
十二支の中で唯一想像上の動物です。
実は、龍はお寺、特に禅宗の寺院には切っても切れない関係にあります。

お寺をお参りされたときに、本堂に入って、天井を見上げると見事な龍の絵が描かれていたり、境内のあちこちに龍を見ることが多いはずです。
貞昌院でも龍が祀られています。

20120119-02 20120119-01
左は本堂正面に掲げられている欄間の龍。
右は本堂向拝の龍です。
明治時代の火災の際に、近隣の檀家さんに運び出していただき火難を免れました。

 

このようにお寺に龍が祀られているのは、龍が仏法を守る「神将」として位置づけられ重んじられているからです。
例えば法華経の一節に(1)天(2)龍(3)夜叉(やしゃ)(4)乾闥婆(げんだつば)(5)阿修羅(あしゅら)(6)迦楼羅(かるら)(7)緊那羅(きんなら)(8)摩睺羅伽(まごらが)・・・・という八部衆が出てきます。


特に、本堂(法堂)は仏教の教えを説く場として重要な建物ですから、龍は伽藍を守る大切な役割を果たしています。

上写真欄間の龍を見ると、波のように水を操りその上から龍が睨みつけています。
龍は水を操り、雲を呼び、雨を降らせる力を持ちます。
本堂に法雨(教えの雨)を降らせ、また木造建築を火災から守るという役割も果たしています。
 

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これまで、このブログで紹介して来たいくつかの寺院の「龍」を並べてみました。
20111108-32
曹洞宗大梁山大慈寺(熊本県)佛殿の天井絵
大梁山 大慈寺

20060127-3.jpg
臨済宗円覚寺 白雲庵本堂天井画 雲龍 (画:入江正巳画伯)
道元禅師降誕の日と鎌倉歴史散歩

fukuoka2.jpg
臨済宗聖福寺(福岡県)仏殿 天井画
福岡沖玄界地震に思う

20111207-02
浅草寺 大提灯
訪日外国人数、回復基調に

 

20090423-02.jpg
臨済宗泊船軒(荒川区)法堂天井画
仏教ホスピスの会いのちの集い

 

200602010.jpg
藤沢市に伝わる野辺送りの龍頭
野辺送り

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ここにご紹介しきれなかったものも沢山あります。

是非見ておくべき龍の天井絵もたくさんあります。

以下に、龍の天井画が有名な寺院を列記いたします。

円覚寺(仏殿)守屋多々志筆 鎌倉市
建長寺(法堂)小泉淳作筆 鎌倉市
向嶽寺(法堂) 山梨県
永源寺(開山堂) 滋賀県
国泰寺(本堂) 富山県
妙心寺(法堂)狩野探幽筆 京都府
南禅寺(法堂)今尾景年筆 京都府
東福寺(本堂)堂本印象筆 京都府
天龍寺(法堂)加山又造筆 京都府
相国寺(法堂)狩野光信筆 京都府
大徳寺(法堂)狩野探幽筆 京都府
建仁寺(方丈襖絵)小泉淳作筆 京都府
佛通寺(法堂)管南山筆 広島県

 

辰年の一年、さまざまな龍をお参りしてみては如何でしょうか。

末筆となりますが、建長寺や建仁寺の龍を描かれた小泉淳作氏が今年1月9日にお亡くなりになりました。
心より弔意を表します。

投稿者: kameno 日時: 9:08 AM | | コメント (2)

大師線のレールから広がる雑学

京急の線路、落札しました!!! ということで、折角落札したレールですからそれに関連して、京急の歴史を辿ってみました。

落札したレールは、大師線に設置されていたレールです。
現在の京浜急行電鉄は、川崎大師への参拝路線としての旧大師電気鉄道(日本で3番目、関東では最初の電気鉄道会社)がその嚆矢でありました。
つまり、京急で一番古い路線が大師線。


大師線は京浜急行電鉄のルーツである。当初は川崎大師への参詣路線として建設され(1) 、1899年に開業した。
営業運転を行う鉄道としては日本で初めて標準軌を採用し、また電車による運行は関東で初めてのものである。
人力車組合の反対で遅れていた現在の京急川崎駅への乗り入れは、開業から3年後の1902年に果たした。
なお、大師駅から先、総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅間にあった駅)まで当初京浜電気鉄道(当時)自ら建設する予定であったが、別会社で建設されることになり、子会社の海岸電気軌道の手で1925年10月16日に大師 - 総持寺間が全通した。(2)
海岸電気軌道は鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)に買収された上に1937年12月1日に廃止となった。海岸電気軌道線の大師 - 大師河原間は現在の川崎大師駅 - 産業道路駅間とほぼ一致しているが、産業道路駅からは産業道路に並行して総持寺へ向かっていた。同駅の手前から産業道路横浜方面へ伸びる細い道が海岸電気軌道線の跡である。
同線の開通以降川崎大師へは毎年各地からの参詣客で大いに賑わうこととなり、それまで初詣といえば地元の神社仏閣へ参拝するのが習慣であったものを、各地の有名社寺まで電車に乗って初詣をするという習慣に変えた歴史的にも意義のある路線である。(3)
開業後、会社の予想を大幅に超える収益を上げたことから京浜間に路線網を拡大する基礎を築くとともに、各地の電気軌道計画に影響を与えることとなった。
(ウィキペディア「京急大師線」項より一部引用)

海岸電気軌道(かいがんでんききどう)は、神奈川県横浜市の総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅間にあった駅)から川崎市の大師駅までを結んでいた軌道線(路面電車)(4) 、およびそれを運営していた京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄)の子会社の名称である。
臨海地区の工業地帯の通勤輸送を目的に1925年に開業。しかし世界恐慌の影響で利用客数が伸び悩み、1930年にJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道に譲渡されたが、鶴見臨港鉄道が本線で旅客営業を始めた影響を受け、産業道路建設を機に1937年に全線が廃止された。
その後、戦時下の1944年に大師 - 出来野付近(現在の産業道路)間の線路跡を利用して、現在の京急大師線(当時は東急大師線)が延長された。(5)
(ウィキペディア「海岸電気軌道」項より引用)


このことから分るように

(1)京浜急行の嚆矢は、川崎大師への参拝のための鉄道であった。
(2)(4)京浜地区の大寺院、「川崎大師」と曹洞宗の大本山「總持寺」が、京急の子会社、海岸電気軌道によって結ばれた。
(3)京急、および海岸電気軌道は、地元の寺社だけでなく、少し足を伸ばして大きな仏閣に初詣をするという習慣を作り上げた路線である。
(5)現在の大師線は、大師電気鉄道の路線(川崎ー大師)と、海岸電気軌道の路線(大師ー小島新田間)の部分から成っている。

ということになります。
京急(特に大師線)とお寺とは想像以上に密接な関係があったのでした。

20111216-0920101109-12

左は、京急レッドトレインガーデンに展示されていた路線図。
右は、總持寺にあった2つの駅でご紹介した路線図。
どちらも昭和10年代のものと思われますが、沿線に「川崎大師」も「總持寺」も大きく描かれています。
寺社への参拝、初詣などが鉄道の輸送の中で大きな役割を果たしていたことが、この路線図からも伺えます。

 

 

さて、大正14(1925)年~昭和12(1937)年の間に営業され、「川崎大師」と「總持寺」を結んでいた海岸電気軌道(昭和5年より鶴見臨港鉄道)は

設置駅: 総持寺 - 鶴見川 - 下野谷 - 潮田 - 入船 - 寛政 - 下新田 - 富士電機前 - 田辺新田 - 田島 - 浅野セメント前 - 池上新田 - 塩浜 - (仮)競馬場前 - 出来野 - 大師河原 - 大師
運行本数: 川崎大師方面:総持寺発5時13分 - 22時30分まで10-20分間隔、総持寺方面:川崎大師発5時37分 - 22時56分まで10-20分間隔
所要時間:総持寺 - 川崎大師間24分

ということで、電車の速度はかなり遅いながらも、相当の本数が運行されていたようです。

 20111224-03
↑昭和7年の地形図から、鉄道路線をトレースしてみました。

大正14(1925)年に開業した海岸電気軌道は、昭和5年にJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道に譲渡され、昭和12(1937)年には廃線となってしまいます。
戦後にあった川崎市電との環状線構想も夢のまま終わりました。

 

なお、蛇足ですが、東日本で初めて土地造成分譲事業を行った鉄道会社も京急電鉄(当時は京浜電気鉄道)でした。
その土地分譲により掘削されたのが、上図の黄色で示した部分にあった「川崎運河」です。現在の横浜市と川崎市の境界にあたる場所です。
大正7(1918)年に土地買収が完了、京浜電気鉄道が川崎運河を掘削し、大正11(1922)年には運河の工事と工業用地の造成が完了、土地の分譲がはじまります。
当初は、川崎運河に沿って鉄道を敷設する計画もあったようですが、関東大震災などの影響もあり結局実現しませんでした。
その後川崎運河は1950年代から80年代にかけて徐々に埋戻され、現在の京町小学校、住宅地、緑道などになっています。


話を戻します。
昭和初期の「總持寺」駅を撮影した貴重な写真はこちらです。
20101109-13
(『京急の駅 今昔・昭和の面影』(JTBキャンブックス)より引用)


ということで、京急の歴史とともに歩み、日本の近代産業を支え、仏閣参拝に大きな役割を果たしてきた大師線のレールや枕木が貞昌院にやってくることになったのことも、何かのご縁なのかもしれません。

※なお、落札したレールは1989年製、枕木は1987年製で、昨年まで使用されていたものだそうです。


■関連ブログ記事
總持寺にあった2つの駅

投稿者: kameno 日時: 1:52 AM | | コメント (3)

永野に現れた巨人

でいだらぼっち 野庭(のば)
 
現在は、団地や家が建ちならび、昔のおもかげはありませんが、天谷大橋のふきんは、四、五十年前までは、田んぼや畑でした。
ふつう田んぼは、川を中心にして、一面に続くのですが、野庭の田んぼは、ところどころに、ポツンポツンとあったので、めずらしい「飛び田」と呼ばれていました。どうして、こんな飛び田ができたのかというと。

むかし、むかし、まだ、でいだらぼっちという人のいたころのこと。
ある時、このでいだらぼっちが野庭へ遊びに来たんだと。
でいだらぼっちは、力持ちの大きな男なんだが、とても気持ちのやさしい男でのー。村の家々をふまないようにと、つま先で立って歩いていたんだと。
馬洗川の近くまで来た時のことだ。川で水を飲んでいた馬が、でいだらぼっちに驚いてとつぜんあばれだしたものだから、静かに静かに歩いていたでいだらぼっちも驚いた。
思わずつま先立ちの指に力がはいって、土の中に指がめり込んだんだと。そのくぼんだ所に、水がたまつてできたのが「飛び田」なんだと。
まだまだ話のつづきがあるんだ。でいだらぼっちに驚いた馬というのは、北条政子という信心深い人が、鎌倉から、弘明寺観音へ、馬に乗っておまいりに通われたそうだが、その時の馬でのー。ちょうど天谷あたりの川原で馬に水を飲ませるために、一休みなさっていたんだと。
この人はエライ人でのー、「尼将軍」と呼ばれた人だけれどね。

でいだらぼっちは驚いて飛び田を作ってしまったけど、たまげた馬は、かわいそうに、川におっこって、ついでに顔を洗ったのでこの川は、「馬洗川」と呼ばれるようになってね、「馬洗橋」の前の山を"糞山"というんだ。
それで、後の人たちが、いつとはなく、田んぼに出て仕事をしながら、こんな唄をうたうようになったんだと。
 

馬洗川と天谷大橋(てんやおおはし)

  野庭はよいとこ 雨あがり
  美人はいないか
  ぬき足 さし足
  尼さんの馬に追われて
  でいだらぼっちが
  "ふん"をした


メールで問合せいただいた内容を元に、今日のブログを記載しています。

冒頭のお話は、永谷に伝わる民話です。

この中のいくつかを航空写真から検証してみましょう。

20111006-02


写真は 1949/02/28 に米軍により撮影された空中写真です。
国土変遷アーカイブより引用しました。
このうち、永谷川上流部の田んぼと思われる部分(畑と思われる部分を除く)をざっと赤く着色しています。
(もう少し丁寧に塗れば良いと思うのですが、雰囲気だけでも)

川沿いに広がる田んぼ、そのうち民話にあるようにぽつぽつと飛んでいるように見える田んぼもあります。これが飛び田なのでしょう。
昔の人は、この飛び田を、つまさき立ちで歩いた でいだらぼっちの足跡と考え、馬洗橋の右下にある(もしくは左下にあった丸山のことか?)こんもりした山を、でいだらぼっちの「糞」と考えました。
なお、天谷大橋は写真中段やや左よりの位置にある谷に掛かる橋です。

面白い発想ですね。

この巨人伝説は、ほかにも関東近郊に広く見られるようです。
でいだらぼっちとは、神奈川県を中心に、関東近郊の富士山を望む地域に広く伝えられている巨人伝説で、イメージ的にはこのようなものなのでしょう。

Daidarabocchi
勝川春章・勝川春英画『怪談百鬼図会』より「大入道」

 

Wikiペディア ダイダラボッチ 項には、でいだらぼっち(だいだらぼっち)の残した「跡」についての様々な事例が纏めらられています。

■山を作る・運ぶ
・富士山を作るため、甲州の土をとって土盛りした。そのため甲州は盆地になった。
・上州の榛名富士を土盛りして作った。掘った後は榛名湖となった。榛名富士が富士山より低いのは、もう少し土を運ぼうとしたが夜が明け、途中でやめたためである。
・浅間山が、自分より背の高い妹の富士山に嫉妬し、土を自分にわけろといった。富士山は了解し、だいだらぼっちが自分の前掛けで土を運んだ。しかし浅間山は土の量が足りないと怒り、彼を叩いた。その際にこぼれた土が前掛山となった。怒りだした浅間山はついに噴火してしまった。
・ 西の富士、東の筑波と呼ばれる関東の名山の重さを量ろうとし天秤棒に2つの山を結わえつけ持ち上げると、筑波山のほうは持ち上がったが富士山は持ち上がらない。そのうちに結わえていたつるが切れ、筑波山が地上に落ちてしまった。その衝撃でもともと1つの峰だった筑波山は、2峰になってしまったという。
■足あと・手のあとを残す 
・上州の赤城山に腰掛けて踏ん張ったときに窪んで出来た足跡が水たまりになった。木部の赤沼がそれである。
・長野県大町市北部の青木湖、中綱湖、木崎湖の仁科三湖はダイダラボッチの足あとである。
・茨城県水戸市中央部の千波湖は、かなり大きいがダイダラボッチ(この地方ではダイダラボウ)の足跡である。
・遠州の山奥に住んでいた巨人ダイダラボッチが、子供たちを手にのせて歩いている時に、腰くらいの高さの山をまたいだ拍子に子供たちを手から投げ出してしまった。びっくりした子供たちとダイダラボッチは泣き出してしまい、手をついてできた窪みに涙が流れ込んで浜名湖となった。
・現在、東京都世田谷区にある地名「代田」(だいた)やさいたま市の「太田窪」(だいたくぼ)はダイタラボッチの足跡である。
・静岡市のだいらぼう山頂には全長150mほどの窪みがあるが、ダイダラボッチが左足を置いた跡と伝えられている。琵琶湖から富士山へ土を運ぶ途中に遺したものであるという。
・相模原市の伝説ではデイラボッチと呼ばれ、富士山を持ち上げ違う場所に運ぶ途中、疲れたので、富士山に乗っかり休んだところそこにまた根が生えてしまいもちあげようとするが、持ち上がらずそのときふんばった所が今の鹿沼公園であるという。
・小便をしようと飯野山(香川県中部)に足をかけた際に山頂付近に足跡が付いた(現在もその跡であるという伝説の足跡が残っているが非常に小さい)。なお、その小便の際に出来たのが大束川といわれる。
・愛知県東海市の南側に加木屋町陀々法師(だだほうし)という地名があり、ダイダラボッチが歩いて移動する際に出来た足跡が池になったとして伝説が残っている。名古屋鉄道八幡新田駅西側にあったが2000年(平成12年)頃に埋め立てられて現在はその形跡はない。
■休む・洗う・食べる 
・榛名山に腰掛けて、利根川で脛を洗った(ふんどしを洗ったという説もある)。
・羽黒山 (栃木県)には人間がまだ誕生しない大昔、でいだらぼっちが羽黒山に腰掛けて鬼怒川で足を洗ったという言い伝えがある。
・長野県塩尻市の高ボッチ高原はダイダラボッチが腰を下ろして一休みした場所であるという。
・「常陸国風土記」によると、茨城県水戸市東部にある大串貝塚は、ダイダラボッチが貝を食べて、その貝殻を捨てた場所だと言われている。その言い伝えから、近くにダイダラボッチの巨大な石造が創られている。
■人間を助ける
・ 秋田県の横手盆地が湖であったので干拓事業を行った際、だいだらぼっちが現れて水をかき、泥を掬ったため工事がはかどった。このだいだらぼっちは秋田市の太平山三吉神社の化身と考えられる。

日本のいたるところで親しまれている巨人なのですね。

投稿者: kameno 日時: 1:31 PM | | コメント (0)

カタストロフィーと寺院の役割

カタストロフィー(或いはカタストロフ)とは、1972年にフランスの数学者ルネ・トムが独創的に展開した数学の分野です。
この理論は、社会的事象や環境の変化などに応用することが出来るために一般的に知られる用語となりました。

ごく大雑把に簡単に図に描くと

20110810-02

(この図はポテンシャル関数の局所的最大化という極めて単純な図式です)

この図を元に、仮に社会や環境の「構造」を図の青い線で表現してみます。

世の中のさまざまな事象は、

明中に当って暗あり、暗相をもって遇うことなかれ、
暗中に当って明あり、明相をもって覩ることなかれ、
明暗おのおの相対して、比するに前後の歩みのごとし
『参同契(さんどうかい)』

にあるように、「明」と「暗」が一歩一歩の歩みの如く次々とやってきます。
明をプラスの方向、暗をマイナスの方向と考えると、その動きに従って、赤い玉が前後に揺さぶられます。

大抵の場合は、前後に揺さぶられても、あたかもお椀の中でビー玉を転がすがごとく、直ぐに底に戻ってきます。
安定領域の範囲であれば、そのようになります。
例えば、猛暑であったり、冷夏であったりしても、ある程度の範囲であれば何事も無いように直ぐに平時の状態に戻ります。

しかし、そのプラス・マイナスの触れ幅がある程度大きくなった場合はどうでしょうか。
つまり、安定領域から、回復可能領域の部分に逸脱した場合です。

この場合、安定領域に戻るためには若干のエネルギーが必要です。

さらに振れ幅が大きくなると、回復可能領域を超えて、淵から落ちてしまいます。
こうなると、もはや元の安定領域に戻すことは不可能です。
これが不可逆領域の部分です。

 

例えば明治維新、東京大空襲、横浜大空襲、原爆投下、終戦、バブル崩壊、大規模住宅開発、大震災、大津波・・・・大きな社会的事象が起きると、局所的あるいはある程度広範囲に歴史的な不連続面が生じてしまいます。

横浜大空襲では、空襲を受けた範囲では街の殆どが焼き尽くされ、建物も資料も失われてしまいました。
この事例では、大空襲を受けた範囲を局所的に見るに、不可逆領域に達してしまったのかも知れません。
しかし、日本全体的に見ると、終戦に至っても回復可能領域の範囲内に留まったていたと考えて良いのではないでしょうか。
このあたりが日本の「懐の深さ(=図の青い線の谷の深さ)」を表しています。
世界的に見ても、一つの国がこれほど長く継続的に続いている例は稀といえます。

 

現在、日本は東日本大震災、そして世界的な経済危機、円高の波に曝されています。
きっと回復可能領域を行ったりきたりしている状態なのでしょう。 
けれども、世界の人々も、日本の人々も、戦後見事に復活した日本の底力を信じています。

 

補足ですが、局所的に不連続となった地域の「不連続面を繋ぎとめる役割」を寺院が大いに担うものと考えています。
なぜならば、その地域に「ずっとそこにあり」、「資料が代々きちんと受継がれ管理されている」という機能を寺院が有しているからです。
言い換えれば、不連続となった街の記憶を呼び戻す機能を、寺院が持っているということです。
その意味で、歴史的不連続の局面で寺院の存在意義、役割が問われることとなります。

<このあたりは追記していきます>

 


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投稿者: kameno 日時: 11:47 AM | | コメント (0)

瑩山禅師の「瑩」の字は?


教区の施食会(おせがき)も終盤を迎えました。
各寺院を回るなかで、S寺様の控室に次のような色紙が置かれていました。
その中で出た話題です。

20110808-03

何気なく見過ごしてしまいがちですが、左側の字に注目してみましょう。
瑩山と書かれている「瑩」の字がちょっと違いますね。

なお、瑩山は「けいざん」と読みます。
曹洞宗の大本山は永平寺と總持寺が両大本山であり、道元禅師(どうげんぜんじ)と瑩山禅師(けいざんぜんじ)が両祖様であります。

さて、漢和辞典に記載されている「瑩」の字は次のようなものです。
(玉の部10 15画)
20110808-04

たいていの仏教書、曹洞宗で出版されているものも含めて、瑩山禅師はほぼ例外なく上記の字で記述されています。
ところが、色紙では次のようになっています。

20110808-05


では、瑩山禅師ご自身ではどのように書かれたかを見てみると、私のホームページの中にに丁度資料がありました。
總持寺の国重要文化財・市指定文化財

kannondoengi

大本山總持寺に保存されている『観音堂縁起』です。
この『観音堂縁起』は、『諸岳観音堂之記』『瑞夢記』とも称され、瑩山禅師が瑞夢により寺領などを譲り受けて寺院を創設することになった経緯をご自身で書かれたものです。
数少ない瑩山禅師自筆文書です。

文末の部分を拡大してみましょう。

kei

やはり下の部分は「宝」となっていますね。

私が總持寺に安居していた時代には学科講義の中でこの話題に触れられたこともあり、また冒頭の色紙のように字を忠実に再現している事例もありますので、知っている方にとっては自明の知識でしょう。
しかし、反面、意外に知られていないトリビアでもあります。
宗門人としては知っておくべき知識でありましょう。

この 「瑩」の字について、N先生により学術的考察と提起がなされ発表される予定のようです。
ご成果を楽しみにしております。


 

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投稿者: kameno 日時: 8:37 AM | | コメント (6)

精霊棚

教区(近隣の曹洞宗グループ寺院21か寺)で順番に厳修している大施食会(おせがき)も折り返し。
後半の日程に入っています。
大施食会では、本堂正面、本尊様に相対して棚を設けます。
これを施食棚(せじきだな)、あるいは施餓鬼棚(せがきだな)と呼びます。
檀信徒各家のご先祖様、初盆の諸精霊、有無三界の萬霊をお迎えして食事を施すために山海の美味しいものが並べられます。
餓鬼のために生米と刻んだ茄子、胡瓜を混ぜた「水のこ」をお供えしたりもします。
あまねく「み魂」に施しをする日本の良き習慣です。

20110726-07

また、お盆の時期には各家庭で仏壇の前に棚を設けます。
この棚を盆棚といい、意味合いは施食棚と同じであります。

20090815-01.jpg

 

施食棚や盆棚には「精霊棚」という共通の別名があります。

この「精霊棚」は、「しょうりょうだな」と呼ぶのが普通です。

 

しょう‐りょう【精霊/聖霊】 1 死者の霊魂。みたま。 2 「精霊祭り」の略。《季 秋》「―に戻り合せつ十年ぶり/丈草」
『大辞泉』(小学館)

 

けれども、意外に「しょうろうだな」と呼ぶ方も多いことに気がつきました。
霊は、呉音で「りょう」とは読みますが、「ろう」とは読みません。

れい【霊〔靈〕】 [常用漢字] [音]レイ(漢) リョウ(リャウ)(呉) [訓]たま たましい

1 不思議な力や働きをもつ存在。万物に宿る精気。「山霊・神霊・精霊(せいれい)」
2 肉体に宿ってその活動をつかさどる精神的実体。たましい。「霊肉・霊魂不滅/心霊・全身全霊」
3 死者のたましい。「霊園・霊前・霊安室/慰霊・英霊・祖霊・亡霊・幽霊」
4 不思議な力をもつ。人知で測り知れない。「霊感・霊気・霊験(れいげん)・霊獣・霊峰・霊妙・霊薬・霊長類」
〈リョウ〉たましい。死者のたましい。「悪霊・生霊(いきりょう)・怨霊(おんりょう)・死霊・精霊(しょうりょう)」
〈たま(だま)〉「霊屋(たまや)/言霊(ことだま)」

 

それにも関らず「しょうろうたな」という呼び方が増えた理由は、恐らく グレープのヒット曲『精霊流し』の影響ではないかと推測します。

長崎の精霊流しは「しょうろうながし」です。
その語源の由来を見ると、「ろう」と読むことの理由が見えてきます。

 


精霊船の由来

寛政時代の記録に、「昔は聖霊を流すに船をつくるということもなく」とあります。「精霊」は「聖霊」とも書いていたらしく、読み方も「しょうろう」ではなく昔風には「しょうりょう」だそうです。享保(1716-1735)のころ、盧草拙(ろそうせつ)をいう儒者が市民が精霊物を菰包みで流しているのを、これではあまりにも霊に対し失礼だということで藁で小船を作ってこれに乗せて流した、という記録があります。精霊船の由来は、様々な説があり、今日まだ定説はないようですが、長崎の場合は、港という地理的条件と国際貿易都市としての独自の環境性が影響して、今日の精霊船の原型が生み出されたと考えられます。
『長崎事典(風俗文化編)』(長崎文献社)


しょうろうの「ろう」は、盧草拙の「ろう」という説です。
「しょうろう」でも「しょうりょう」でも、供養のこころは同じ。
頭の片隅においておいても良い豆知識です。

 



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投稿者: kameno 日時: 11:17 PM | | コメント (0)

横浜駅と砂利置き場

先日の 親子で学ぼう地域の歴史 の最後質疑応答の中で、横浜駅西口の砂利置場に関する話題が出ました。
丁度よい機会ですので、各資料を元に時系列に整理してみましょう。

 

相鉄のホームページ「相鉄瓦版」に次にような記述があります。


横浜駅前が砂利置場だったのを知ってる?
相鉄ジョイナスに高島屋、横浜ベイシェラトン ホテル&タワーズやザ・ダイヤモンドなど、多くのショッピングセンターなどが並び、毎日たくさんの買い物客でにぎわう横浜駅西口。全国有数の繁華街である横浜駅西口ですが、かつては砂利や材木が置いてあるだけのがらんとした広場でした。
もともと石油会社の所有地だった西口は大正12年の関東大震災で焼け野原となり、その後は資材置き場として放置されていました。太平洋戦争中は海軍の、戦後は米軍の資材置き場として使われましたが、一般市民の使える商店などはほとんどなかったのです。
その横浜駅西口に槌(つち)音が響いたのは昭和30年。相模鉄道が土地を買収し、開発に着手しました。ただの原っぱにすぎない当時の西口駅前を見て、大手百貨店や東京の有名商店が出店を断ってきたことさえありましたが、今から約50年前の昭和31年4月、アーケード街「横浜駅名品街」、現在の横浜高島屋の前身である「高島屋ストア」、「相鉄映画劇場」などが華々しく開業しました。オープン日には入場制限をするほど多数のお客様が詰め掛けたそうです。
その後、高島屋やダイヤモンド地下街(現ザ・ダイヤモンド)などが開業、現在の横浜駅西口の姿が整っていきます。昭和48年開業の相鉄ジョイナスの建設は、当時相模鉄道社内で相鉄いずみ野線(昭和51年開業)建設と並ぶ「二大事業」と呼ばれました。横浜駅西口は、まさに相鉄の歴史とともに発展してきた街なのです。
相鉄瓦版より引用


横浜駅周辺は、明治維新以降大きな変化を遂げました。
地図でその推移を見ると・・・
yokohama-jinsokuzu
(迅速測図 1880-85年)
明治維新直後の横浜駅周辺は、神奈川宿から関内方面に湾をまたぐ街道がみえます。
日本最初の鉄道は、ここに敷設されます。
地図からもわかるように、現在の横浜駅の辺りは、東口は海、西口側は沼(平沼)でした。
旧街道(東海道)の様子もよく分かりますね。

yokohama-map01
(明治39年測図地形図)

明治時代後半までは、初代横浜駅は現在の桜木町にあり、東海道本線はスイッチバックで運行していました。
スイッチバックをしないですむバイパス線が引かれた頃の地図です。
ただし、スイッチバックしないということは、横浜駅を通らないということを意味します。
これでは困りますね。

yokohama-map02
(大正11年測図地形図)

そこで、1915年(大正4) 東海道線バイパス線による横浜「スルー」を避けるため、現在の高島町のあたりに二代目の横浜駅が開業しました。
明治後半から行われていた平沼(現在の横浜駅西口)の埋立ては、大正12年に完了します。平沼にはスタンダード・バキューム・オイル・カンパニーの貯油タンクがありました。

1917年(大正6)に、神中鉄道が創立。神中鉄道は、相模鉄道の前身です。
鉄道輸送の主要な目的は砂利採取・販売のための砂利輸送でした。
1923年(大正12)関東大震災で二代目の横浜駅(上記地図の横浜駅)は倒壊してしまいます。さらに、平沼の貯油タンク爆発炎上。被害甚大となります。
⇒このあたり、貞昌院先代住職が記録に残しています。

大正12年9月1日 正午を過ぎて間もなく、横浜市街地上空は黒煙濠々渦巻いて空高く立ち込め、物凄い光景が当地区から見られる。時折大爆音を耳にす。横浜港沖合に富士火山系に亀裂を生じ大噴火を成しつつありと流言が飛ぶ。後に、石油、ガスタンクの爆破と分る。(先人の教えに学ぶ地震の教訓)


大正末期から昭和初期にかけて、関東大震災の復旧復興や横浜市浄水場の建設など、砂利の需要、輸送量はかなり多かったようです。

yokohama-map03
(昭和6年修正地形図)

上の地図を見ると、現在の横浜駅の位置に三代目の横浜駅が出来ています。

このあたりから戦争の色が濃くなり、1943年(昭和18)、神中鉄道は相模鉄道に吸収合併。

1945年(昭和20年)5月29日横浜大空襲、8月15日終戦を迎えます。
11月には横浜駅に進駐軍輸送指揮所が開設され、横浜駅前にテント村が並ぶようになります。
そして、横浜駅西口広場が進駐軍の資材置場(砂利など)となりました。

yokohama-beigun
(昭和21年米軍による航空写真)

20110724
(昭和22年米軍による航空写真)

戦後焼け野原であった街が、少しづつ復興していく様子がわかります。

横浜駅西口は、終戦直後は「裏口」と呼ばれ、ただの資材置場でした。
商業ビルが並ぶようになった契機は、1952年(昭和27)に相模鉄道が横浜駅西口24,688㎡ををスタンダード・バキューム・オイル・カンパニーから買収したことによります。
さらに、1955年(昭和30)国民体育大会を機に西口周辺道路が整備され、翌年には横浜駅名店街、映画館、高島屋ストア営業開始・・・・
以降高度経済成長期の波に乗り、横浜駅西口は大きく発展していきます。


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汽車道にまつわるエトセトラ

投稿者: kameno 日時: 12:33 PM | | コメント (0)

液状化現象の危険に備える

東日本大震災では、地震の揺れによって発生する「液状化現象」のために、地中から土砂が噴き出し、地盤の沈降により建物が傾いてしまったり、道路に亀裂が走り段差が生じるなど、過去最大規模の甚大な被害となりました。
地盤工学会の第一次調査速報では、液状化の被害が東京都湾岸部(お台場付近から千葉市)、埼玉県久喜市、千葉県我孫子市、印西市、茨城県潮来市、鹿島市などに及んでいることが判ります
特に埋立地や川や湖沼沿いの地域に被害の分布が見られることが特徴です。
また、ガス、水道、下水道などのライフラインは地下に埋設されておりますので、液状化現象が発生した地域では断水やガス、下水道の不通が続き、長期に亘り生活支障が生じました。

 

液状化現象は、埋立地や川や湖沼沿いの地域に被害の分布が見られます。
ということは、その場所の過去の歴史を知ることによって、液状化現象の危険度をある程度予め知ることができるということです。

いくつか、自衛策を纏めてみました。

 

■自分の住んでいる場所の危険度を知る

国や地方自治体では、ハザードマップを作成しています。
例えば、横浜市消防局のサイトでは、様々な想定地震による液状化の危険度を予測して公表しています。

南関東地震 東海地震 横浜市直下型
(左図)関東大震災の再来型である「南関東地震」
(中図)地震発生の切迫性が高い「東海地震」
(右図)市域直下を震源とする「横浜市直下の地震」

危険度マップを参考に、自分の住んでいる地域がどれだけの危険度があるかを把握しておくことは大切でしょう。

 

■自分の住んでいる場所が、過去どのような場所であったかを知る

地図で過去に遡って調べていくと、どのような場所であったかがわかります。
特に、過去に川であったり、水田、池、沼、海岸などであった場所を埋立てたり、谷を埋めて盛土をして造成をした場所は危険性が高いといえます。
また、地盤が砂のように透水性が高かったり、地下水位が高い場所も危険性が高くなります。
例えば、歴史に学ぶ港南台の会勉強会では、昭和30年代後半に大規模に開発された港南台の開発について、過去の地図や写真を元に学びました。
なだらかで一様な平面となっている住宅地も、50年ほど前は山や谷戸、川のある場所でした。それを切土したり盛土したりして平らにしているのです。
自分の住んでいる場所が、谷戸を埋立てて出来た土地であることを初めて知った方もいらっしゃいました。
自分の場所がどのような場所であったのかを知ることは、防災の意味でも大切なことです。

 

■危険度の高い場所では、地盤を強くし、発生を抑える対策を取る

危険度の高い場所でも、適切な対策を取ることによって、危険度を下げることができます。
最も有効な方法は、地盤改良です。
東京ディズニーランドでは、テーマパーク内では液状化現象が発生せず、建物に被害はありませんでした。
この理由として、「サンドコンパクション・パイル工法」や「ドレーンパイプ工法」などの地盤改良が行われていて、液状化現象の発生を防いだことが功を奏したと考えられています。
以前、ブログ記事で紹介した、羽田空港拡張工事における地盤改良工法も、ドレーンパイプ工法の一種です。

とはいっても、一般住宅で取ることのできる対策は、経済的な側面から言って限定的ですから、安く、効率的な方法を選択する必要があります。
危険度の高そうな場所にこれから建物を建てる場合には、地面から2m程度の深さまで地盤を締固めたり、液状化しにくい土に置き換えることが有効です。
また、家の形を地震に対して強い形(矩形など)にすることも重要です。
既に家が建ってしまった場合には、水抜き管(多数の小さい穴があいているパイプ)などを等間隔で地盤中に埋め込む「ドレーンパイプ工法」が被害軽減策の一つとして有効と考えられます。
地震の揺れによって行き場を失った土中の水分を素早く地表に排出させることが、被害軽減のためのポイントとなります。

■最後に

今日のブログ記事では、液状化現象とその対策について考えてみました。
液状化現象は、発生する危険が高い場所と、ほとんど発生の恐れが無い場所というようにはっきり分かれます。
また、液状化対策に限らず、どのような災害対策も、絶対確実、万能ということはありえません。
費用対効果を充分に検討した上で、どの程度費用をかけて、どの程度リスクを軽減するのかをよくよく考えていくことが必要でしょう。
いずれにしても、災害を軽減するための予備知識を持っておくことは大切です。


■関連リンク

横浜市民地震防災情報 「わいわい防災マップ」

投稿者: kameno 日時: 12:27 AM | | コメント (0)

電波時計と原子力発電所

東日本大震災以降、電波時計の時刻が狂う現象がおこっています。

この原因は、福島第一原子力発電所の事故以降出された20km圏内避難指示を受けたことに伴い、東日本の電波時計に日本標準時を送っている「おおたかどや山標準電波送信所」からも職員が退避せざるを得ず、送信が出来なくなっているからです。

地図で確認すると、福島第一原子力発電所からの直線距離は僅か17km程しかありません。

 

 


より大きな地図で おおたかどや を表示

 

避難勧告は当分解除されそうにありませんから、この問題は長引きそうですね。
日本標準時電波が受信できない状態では、水晶=クォーツ時計と同等の精度になりますから、月差数十秒の誤差が生じます。
したがって、時々は手動で時刻を合せていかなければなりません。
電波時計を使っている場合は、その示している時刻が必ずしも正しくないということを意識しておく必要があります。

 

さて、ここで改めて時間・時刻について考えてみましょう。

そもそも一秒ってどのように定義されているのでしょうか。
地球が1回転する時間を1日として、それを24等分して1時間、さらに60等分して1分、さらに60等分して1秒なのかというと、それは違います。
なぜなら、地球の回転は微妙に速くなったり遅くなったり一定ではないからです。 地震でも地球の回転速度は変化します。
いつでもどこでも同じ時間を定義する必要から、現在は「セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の9,192,631,770倍に等しい時間」と定められています。
(※セシウム133は自然界に存在する安定的な物質です。原子力発電所の事故で放出されるセシウム137とは異なります)
そして、日本標準時は、「明石」ではなく、「東京都小金井市」で作られ決められています。
意外に知られていないことだと思います。

小金井市NICTの新世代ネットワーク研究センターにあるセシウム原子時計18台と、水素メーザ4台を組み合わせ、その誤差の平均を取り(原子時計により若干の誤差が生じるのでそれを埋めます)、「協定世界標準時」(UTC)が作られます。

さらに、世界各国にある「協定世界標準時」の時刻をそれぞれ比較調整し、「世界時(UT)」が決められています。

 

では、なぜ、こんなに厳密に時間を決めないといけないのかというと、「時間」が基本的な単位系の元となっているからです。

例えば、長さの標準「1m」は「真空中で1秒の299 792 458分の1の時間に光が進む行程の長さ」と定められています。
時間がアバウトでは長さもアバウトになってしまうのです。

その意味で、おおたかどや山標準電波送信所の存在は重要です。
単に電波時計を正確に動作させるためだけに標準電波送信所があるわけではなく、様々な企業、研究機関に影響が生じます。

蛇足ですが、時間を正確に定義できると、物理量(光速、プランク定数、素電荷、万有引力定数、微細構造定数・・・・)の測定も正確にでき、ミクロ・マクロの領域における物理学の研究がより進むことが期待できます。
実用化の一歩手前にある「ストロンチウム光格子時計」は、セシウム原子時計の1000倍、実に「300億年に1秒」という驚異的な精度です。
これにより物理量を16桁以上の精度で測定することが可能になります。

 

たかが時間、されど時間。
知れば知るほど奥が深い世界です。

 

しかし、原子力発電所の事故により、原子時計による標準電波の送信が止まってしまっているというのは、なんとも皮肉なことですね。
一刻も早い標準電波送信所の復旧を願います。


追記

独立行政法人の情報通信研究機構の発表によると、4月21日午後に職員10人が防護服を着て送信所に入り、機械のスイッチを入れ稼働を再開したそうです。
その後、職員は直ちに避難し、しばらくは無人のまま運転を続けるようです。
取りあえず一安心ですが、翌22日からは「警戒区域」に指定されてしまいましたので、今後のメンテナンスができるか心配です。

投稿者: kameno 日時: 7:10 AM | | コメント (4) | トラックバック (1)

Mad Science 魅惑の煌き


化学を少しでも齧った人には、化学実験の中に少なからず面白さや冒険心、化学の真実の美を見出したこともあるはずです。
そのワクワク感を再度愉しむことが出来るサイトをご紹介します。20110213-01

Mad Science


いきなり紹介されている実験が「Making Salt the Hard Way(危険すぎる製塩法)」。
popcorn

実験の目的はポップコーンに塩味を付けるという至って平和的なものですが、その方法は・・・網で吊る下げたポップコーンの下でナトリウムと塩素を反応させるというものです。


元素周期表では、左端の第一族、右にある第17族元素は不安定なものが多いという傾向があります。
最も不安定な金属の一つであるナトリウム、そして毒ガス兵器としても使用される塩素を反応させるとどうなるのでしょう。

ナトリウムが何故不安定なのかというと、電子配列で電子が満杯の状態から一つ余った電子を手放しやすい元素であるから。
逆に塩素は満杯の電子配列にあと一つ電子が足りない元素です。
その2つが出会うと、もう大変。
ナトリウムの余剰電子が塩素の電子殻に移動し、猛烈なエネルギーを放出しながら反応します。
ナトリウムは、電子を1個手放すことでプラスイオンに、塩素は電子1個受取る事でマイナスイオンとなります。
プラスイオンとマイナスイオンがイオン結合により結びつき、塩化ナトリウムという安定した化合物が出来上がるのです。

実験は、というと猛烈な反応によって火花が飛び散り、その数秒後には、ポップコーンを吊るした網が解けて反応の起こっているボウルに落下、液体ナトリウムの火の玉が実験室中に拡散してしまいました。
結局目的は達せられなかったようですけど・・・・危険な実験ほど美しい煌きを放つのでしょう。

 


そのほか、恐怖の太陽を作る方法、グラスの中の量子力学、水銀モーター、自家製チタン、肉眼で素粒子を見る、小さな町全体を賄うほどの電力設備を使ってコインを半分に圧縮するなど。


物質の性質への理解を深めたり、未来の化学者を育てるためには化学式を暗記するだけではなく、このような実践事例に触れることも大切でしょう。
危険とも思える実験も、きちんとした知識と準備の上では(安全に)行うことが出来ます。
決行するには躊躇するような実験を代行してくれて、その美しい瞬間を紹介してくれています。

 

もう一つ、この中から実験を紹介します。


「石炭と水と空気から作られ、鋼鉄よりも強く、クモの糸より細い」というナイロン繊維の合成です。
Stir Up Some Nylon
nylon

1935年、デュポン社のウォーレス・カロザースが合成に成功したナイロンは繊維化学史上最も重要な発明の一つとされています。
一から作り上げた最初の材料であって、当時欧米の女性に欠かすことの出来なかった絹のストッキングの「高価」であり、「伝染しやすい」という欠点を克服した夢の素材でした。

発売当時のアメリカではナイロン製のストッキングを求める群衆で店先が埋め尽くされたほどであり、さらに日本の重要な輸出産業の一つであった絹が大幅に落ち込んだのもナイロンのせいであるといっても過言ではないでしょう。

ナイロンは、ジアミンとカルボン酸の「縮合」結合により合成されます。
しかし、それでは製造に時間がかかるため、工業的には別の方法が取られます。

カルボン酸の代わりに、酸クロリドを用いるのです。
そうすると、ジアミンと酸クロリドが触れた瞬間にナイロンが合成されるので、それを上に引き上げることで次々と繊維状のナイロンが出来上がっていきます。

ウォーレス・カロザースが合成に成功したナイロンは6,6ナイロンで、「ヘキサメチレンジアミン」と「アジピン酸ジクロリド」を使いました。
『Mad Science』では「アジピン酸ジクロリド」ではなく「セバシン酸ジクロリド」を使っていますから、合成されるナイロンは6,10ナイロンですね。


『Mad Science』のこだわりは、化学実験をエレガントに、そして「例え危険な実験でも美しく安全に」というところにあります。
ですから、ビーカーではなくワイングラスを用います。

ワイングラスの中に「ヘキサメチレンジアミン」をまず注ぎ、そこに「セバシン酸ジクロリド」を静かに注ぎます。
両薬品は比重の関係で層を成すはずですが、うまく層状にならない場合には、バーテンダーに手伝ってもらうよう(笑)アドバイスされています。
そして、ピンセットで二液の層を掴んで引き上げる!

続きはこちら

 

その美しい光景を是非ご覧ください。


■関連リンク
美しき元素の世界! The Elements

■関連ブログ記事
元素周期表
ノーベル物理学賞日本の3氏に、化学賞も
眼に見える世界は蝋燭の炎の形

投稿者: kameno 日時: 1:34 PM | | コメント (0)

領収書あれこれ

先日出かけた資料館で資料を複写する機会がありました。
そのコピー機を利用する手続きが煩雑。
住所氏名を帳面に記載しなければ複写できませんでした。
何故住所氏名が必要かというと、どうやら領収書発行のためのようです。

20110113-01

個人的なものなので領収書は要らないとお伝えしたのですが、決まりなのでの一点張りで、5分ほど待たされていただいたのがこの領収書でした。
たかが10円、されど10円。
律儀なものです。
人件費が無駄・・・などという野暮なことはここでは言いません。

 

私も幾つかの団体に属しており、領収書を発行する機会も多いので、折角の機会ですから改めて領収書の意味と必要な記載要件について考えてみたいと思います。

そもそも領収書は「税法上経費であることの証明資料」としても使われます。
証明資料としての証拠能力を持たせるためには「お金を受領した側」により作成され、年月日・相手・内容・対価を明記することが最低条件となりましょう。
それが記載されているがゆえに客観性と証拠能力を見い出すことができます。

 

しかし、実際には「所得税法」や「法人税法」などには、領収書の書式に関する規定は存在しません。
あえて法律上で関連する規定があるとすると、


■民法第486条(受取証書の交付請求権)
弁済者ハ弁済受領者ニ対シテ受取証書ノ交付ヲ請求スルコトヲ得

■消費税法第30条 第9項
第7項に規定する請求書等とは、次に掲げる書類をいう。
1.事業者に対し課税資産の譲渡等(第7条第1項、第8条第1項その他の法律又は条約の規定により消費税が免除されるものを除く。以下この号において同じ。)を行う他の事業者(当該課税資産の譲渡等が卸売市場においてせり売又は入札の方法により行われるものその他の媒介又は取次ぎに係る業務を行う者を介して行われるものである場合には、当該媒介又は取次ぎに係る業務を行う者)が、当該課税資産の譲渡等につき当該事業者に交付する請求書、納品書その他これらに類する書類で次に掲げる事項(当該課税資産の譲渡等が小売業その他の政令で定める事業に係るものである場合には、イからニまでに掲げる事項)が記載されているもの
書類の作成者の氏名又は名称
ロ 課税資産の譲渡等を行つた年月日(課税期間の範囲内で一定の期間内に行つた課税資産の譲渡等につきまとめて当該書類を作成する場合には、当該一定の期間)
ハ 課税資産の譲渡等に係る資産又は役務の内容
ニ 課税資産の譲渡等の対価の額(当該課税資産の譲渡等に係る消費税額及び地方消費税額に相当する額がある場合には、当該相当する額を含む。)
書類の交付を受ける当該事業者の氏名又は名称
<以下略>

といったところでしょうか。

 

よく、領収書には受取者の住所や電話番号、印鑑が無いといけないと仰る方が居ますが、法律上は住所、電話番号、印鑑は必須ではなく、「誰が領収書を作成したのか」が特定できさえすればOKなのです。
極端な話、受取者のサインで良いでしょう。


領収書には最低限記載すべき事項をまとめると

(1)この書類が「領収書」であるということを明記
(2)受領金額
(3)誰から受領したか
(4)受領日
(5)受取者の名称(誰が領収書を作成したか特定できる手法で記載
(6)但し書き(必須では無いがあれば尚可)

これだけの記載があれば良いでしょう。

 

このことから分かるとおり、印刷して団体のゴム印が押されている領収書は「一見」立派ですが、むしろこの場合、誰にでも領収書を「作成」することができますので、有効性が損なわれるといってよいでしょう。
印刷の領収書の場合には、証拠能力が足りないので、それを補うために団体の(印刷やゴム印ではない)正式な印章を併用することが求められます。(「商法中署名すべき場合に関する法律」)
正式な印章を併用することにより、はじめて署名と同等の能力が発効します。

つまり、見かけは悪いですが、印刷した領収書よりは、一片の紙に全て手書きで書かれた領収書の方が、実は法的証拠能力はずっと高いのです。

 

 

営利を目的とした会社の場合のほかに、特に僧侶が関る団体は「営利を目的としない団体」が多いわけで、営業に関しない受取書に基づく領収書が発行されることになります。
関連法令である印法別表一の十七、印基通別表第一第17文書の21~26、32を見てみます。


No.7125 営業に関しない受取書
[平成22年4月1日現在法令等]

第17号文書の金銭又は有価証券の受取書であっても、受け取った金銭などがその受取人にとって営業に関しないものである場合には、非課税となります。
営業というのは、一般に、営利を目的として同種の行為を反復継続して行うこととされており、おおむね次のように取り扱っています。

(1) 株式会社などの営利法人の行為は、その営利法人が直接作成する株式払込金領収書などを除いて営業になります。
(2) 財団法人などの公益法人の行為は、すべて営業になりません。
(3) 協同組合など会社以外の法人の行為は、次のようになっています。
法令の規定などにより利益金又は剰余金の分配などをすることができることになっている法人の場合に、出資者以外の者との行為は営業になり、出資者との行為は営業になりません。
(4) 人格のない社団の行為は、次のようになっています。
公益及び会員相互間の親睦等の非営利事業を目的として設立されている場合には、営業になりません。
その他の人格のない社団が作成する受取書で、収益事業に関して作成するものは、営業になります。
(5) 個人の場合、「商人」としての行為は営業になり、事業を離れた私的日常生活に関するものは営業になりません。
なお、店舗などの設備がない農業、林業又は漁業を行っている者が自分の生産物を販売する行為や医師、歯科医師、弁護士、公認会計士などのいわゆる自由職業者の行為は、一般に営業に当たらないとされていますので、これらの行為に関して作成される受取書は営業に関しない受取書として取り扱われます。

(印法別表一の十七、印基通別表第一第17文書の21~26、32)



ということで、冒頭の財団法人や、宗教法人(非営利の部分)、SOTO禅インターナショナルや神奈川県第二宗務所のような「人格なき非営利団体」の発行する領収書については上記の内容を加味しておけばよいでしょう。


さて、以上を踏まえて、改めて冒頭の領収書を検証してみましょう。

 


・・・・あれ?いつ支払ったんだっけ???

投稿者: kameno 日時: 8:38 AM | | コメント (4)

いっぽんでも双樹

娑羅双樹について考えてみます。

お釈迦様の入滅の様子は涅槃経で記述されていますが、例えば曹洞宗でよく読まれる『仏垂般涅槃略説教誡教』(遺教経)では次のようになっています。

応に度すべき所の者は、皆已に度し訖って、沙羅双樹の間に於いて、将に涅槃に入りたまわんとす。
『仏垂般涅槃略説教誡教』


この表現から受けるイメージはどういう感じでしょうか。
「双樹の間」という表現から、頭と足先に一本づつ、2本の木の間でお釈迦様は横になられたと感じるかもしれませんね。

実際に曹洞宗の公式サイトでは、曹洞宗の年中行事>涅槃会 の項目に

お釈迦さまは2本のサーラ樹の間に用意された床で、頭を北に、顔を西に向け、右手を枕にされて寝ておられます。
曹洞宗公式サイトより一部引用)

と説明されています。

しかし、同じページにある涅槃図には8本の娑羅双樹が描かれています。
なぜこのようなことが起きるのかを考えてみましょう。


娑羅双樹は、仏教の三大聖樹

(1)無憂樹 (マメ科):釈尊降誕の場所にあった木
(2)印度菩提樹 (クワ科):釈尊成道の場所にあった木
(3)娑羅双樹 (フタバガキ科):釈尊入滅の所にあった木

のうちの一です。

 

サラノキは釈尊入滅の場所の東西南北に各々2株のこの木があったので沙羅双樹といわれる。
『標準原色図鑑全集・樹木』(保育社・昭和41年)

 

などをみると「東西南北に各々2株」の様子から漢字の双樹をあてたと説明されています。
したがって、涅槃図の娑羅双樹は2対4組の8本であるし、一本の娑羅双樹の木でも娑羅「双樹」ということになります。

このことが様々な誤解を生じさせているのかもしれません。

 

日本最古とされる平安時代の涅槃図でも8本の娑羅双樹が描かれています。

20101220-02
仏涅槃図(部分、高野山金剛峯寺所蔵、平安後期)


先の、曹洞宗公式サイトでの説明は、

お釈迦さまは2組8本の娑羅双樹の間に用意された床で、頭を北に、顔を西に向け、右手を枕にされて寝ておられます。

としたほうが判りやすいように感じます。

 

補足
※日本ではナツツバキ(夏椿、学名:Stewartia pseudocamellia)が娑羅双樹の代わりにされていますがフタバガキ科のサラソウジュ(沙羅双樹、娑羅双樹、さらそうじゅ、しゃらそうじゅ、学名:Shorea robusta)とは全く別の木です。

投稿者: kameno 日時: 7:19 AM | | コメント (0)

デシマル考

※今日の記事タイトルの「デシマル」は40数年前にヨーロッパに禅を伝えた弟子丸老師のことではありません。

ここのところドイツの方とメールでやり取りする中で
Flugkosten 50.000EUR
などという表記があったりします。
これは航空券代金が50ユーロということではなく、5万ユーロということを表しています。

このように、ドイツ、フランスなど、英語圏以外のヨーロッパでは3桁ごとの位取りに"."ドットを使うことが普通に行われています。
また、小数点には","(カンマ)が使われることが普通で、日本の表記方法とは逆となります。

12.345 という数字は日本では じゅうにてんさんよんご。ドイツでは「いちまんにせんさんびゃくよんじゅうご」と捉えてしまいます。
わかっていても、馴れないと数字の大小についてピンとこないですね。

ただ、日本でも小数点をカンマで表記する事例があります。
例えば、これは 横濱市復興局 昭和22年6月製版仮製三千分一 地形図「上永谷」の一部です。
chikeizu

標高表記で 73,0 というように小数点が","(カンマ)になっていますね。
恐らく地図の技術をフランスやドイツから導入した名残りではないでしょうか。
そういえば、0.1のことを「ぜろ”こんま”いち」と言ったりしますね。
これも何かの名残りでしょう。

小数点をどう表すかは


百二十三万四千五百六十七点八九の各国における表記は、次の通りである。
日本では 1,234,567.89 または 1234567.89 縦書きは 百二十三万四千五百六十七・八九
イギリス、アメリカでは 1,234,567.89 または 1,234,567·89
フランス、南アフリカでは 1 234 567,89
ドイツでは 1.234.567,89
インドでは 12,34,567.89
アラビアでは ١٬٢٣٤٬٥٦٧٫٨٩

■小数点にドットを使う国=日本、オーストラリア、ボツワナ、カナダ(英語話者)、中国、コスタリカ、ドミニカ共和国、エルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラス、香港、インド、アイルランド、イスラエル、韓国、北朝鮮、マレーシア、マカオ(中国語を使う場合)、メキシコ、ニカラグア、パナマ、フィリピン、プエルトリコ、サウジアラビア、シンガポール、タイ、台湾、英国、米国
■小数点にカンマを使う国= アンドラ、アルゼンチン、オーストリア、ベルギー、ボリビア、ブラジル、カナダ(フランス語話者)、クロアチア、キューバ、チリ、コロンビア、チェコ、デンマーク、エクアドル、エストニア、フェロー諸島、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシア、グリーンランド、ハンガリー、インドネシア、アイスランド、イタリア、ラトビア、リトアニア、ルクセンブルク、マカオ(ポルトガル語を使う場合)、マケドニア共和国、オランダ、ノルウェー、パラグアイ、ペルー、ポルトガル、ポーランド、ルーマニア、スロヴァキア、セルビア、スロベニア、スペイン、南アフリカ、スウェーデン、スイス、ウクライナ、ウルグアイ、ベネズエラ、ジンバブエ、モンゴル
■小数点がMomayyezとなる国= バーレーン、イラン、イラク、クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビア、シリア、UAE
(ウィキペディア「小数点」項より引用)


きれいに分かれてしまっています。
これでは問題があるとして、第22回国際度量衡会議において次のように議論され、国際単位系(SI)の結論が出されました。

Symbol for the decimal marker
The 22nd General Conference, considering thata principal purpose of the International System of Units (SI) is to enable values of quantities to be expressed in a manner that can be readily understood throughout the world,
the value of a quantity is normally expressed as a number times a unit,
often the number in the expression of the value of a quantity contains multiple digits with an integral part and a decimal part,
in Resolution 7 of the 9th General Conference, 1948, it is stated that "In numbers, the comma (French practice) or the dot (British practice) is used only to separate the integral part of numbers from the decimal part",
following a decision of the International Committee made at its 86th meeting (1997), the International Bureau of Weights and Measures now uses the dot (point on the line) as the decimal marker in all the English language versions of its publications, including the English text of the SI Brochure (the definitive international reference on the SI), with the comma (on the line) remaining the decimal marker in all of its French language publications,
however, some international bodies use the comma on the line as the decimal marker in their English language documents,
furthermore, some international bodies, including some international standards organizations, specify the decimal marker to be the comma on the line in all languages,
the prescription of the comma on the line as the decimal marker is in many languages in conflict with the customary usage of the point on the line as the decimal marker in those languages,
in some languages that are native to more than one country, either the point on the line or the comma on the line is used as the decimal marker depending on the country, while in some countries with more than one native language, either the point on the line or comma on the line is used depending on the language,
declares that the symbol for the decimal marker shall be either the point on the line or the comma on the line,reaffirms that "Numbers may be divided in groups of three in order to facilitate reading; neither dots nor commas are ever inserted in the spaces between groups", as stated in Resolution 7 of the 9th CGPM, 1948.


結論は、
小数点は"."ドット、","(カンマ)どちらを使っても構わない。
位取りには3桁ごとにスペースを空けても良いが"."ドットや","(カンマ)は用いないこと。
でした。

国際単位系(SI)スタイルでは 1 234 567.89 または 1 234 567,89 ということですね。
ですから、冒頭の表記は Flugkosten 50 000EUR としたほうが良いし、12,500円は 12 500円と書いた方が好ましいということになります。

 


蛇足ですが、小数に関して興味深い文化の分類方法があります。
それは「分数文化圏」「小数文化圏」という区分です。

分数文化圏はヨーロッパ、アメリカ合衆国、エジプトなど
小数文化圏は日本、中国、インド、アラビアなど

そういえば、欧米圏はやたらと分数を使いますね。
貨幣では1/4ドル(クォーター)、紙幣で20ドル札が良く使われるというのは分数文化圏であるからでしょう。
逆に日本では四分の百円玉や2千円札は使われない(使わない)ですね。
文化の違いが顕著に現れている例といえます。

投稿者: kameno 日時: 1:15 AM | | コメント (3)

身を支え身を整える五味粥

20101209-02
お釈迦様成道の日を迎え、貞昌院定例坐禅会では坐禅終了後に五味粥をいただきました。

20101209-01

■五味粥(貞昌院2010年版)のレシピ
・昆布で取っただし
・サツマイモ(貞昌院産)
・栗(貞昌院産)
・はちみつ
・刻み柚子(貞昌院産)
・胡麻

五味粥は普段のプレーン粥に比べて滋養のあるお粥です。
お釈迦様がブッダガヤの地に至ってスジャータ村の娘から乳粥の施しを受けた後、菩提樹の下に坐し臘月(12月)八日の朝に悟りを開かれた故事になぞらえたものです。
酒粕や味噌を加えたり、大豆や小豆、胡桃を加えたり寺院によって差異があります。


中国では、日常から「朝食にお粥」という習慣があり、体調によりお粥のレシピを変えて体調を整えています。
特に、この時期、臘月八日の臘八粥の時期になると、スーパーの店先には臘八粥の材料が山のように並ぶそうです。
材料は胡桃、落花生、栗、小豆、松の実、棗、蓮の実などなど。
臘八粥は薬膳として体力をつけ、風邪を予防する源とも成りうるものです。
禅寺では、夕食のことを薬石と言いますが、まさに食事は薬を服するが如く身を支える源となる大切なものです。

 

薬膳に基づいた臘八粥の作り方が『きれいになれるお粥レシピ』(成美堂出版編集部)に掲載されていました。
一部引用させていただきます。

■体を養う様々な食材
(1)「腎」を補う
老化による様々な体の衰えを緩やかにし、生命力を高める
くるみ・ぎんなん・栗・ごま・くこの実

(2)「血」を補う
美肌・脳の働きを良くする・精神安定
レーズン・小豆・黒豆・落花生・松の実・なつめ

(3)「気」を補う
疲労回復・胃腸機能改善
もち米・うるち米・きび・山芋・さつまいも・かぼちゃ・蜂蜜・蓮の実

これを参考に、自らの体調に鑑み、五味粥を作ってみては如何でしょうか。


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五味粥

投稿者: kameno 日時: 8:19 AM | | コメント (2)

紅いパール富士

今年は 元日の月食⇒パール富士 からスタートしました。

それはそれは見事な光景でしたが、今年を締めくくるにふさわしい光景が(晴れれば)年末に見ることができます。

12月21日夕方に見られる皆既月食です。
今回の月食は、月が登る前からスタートしており、日本では半影食が始まってから月が昇ってきます。

2010年12月21日

14時27.7分 半影食はじまる。日本全域で月の出以前 
15時32.3分 月食はじまる。 ※北海道東部の一部を除く日本の大部分の地域で月の出以前  
16時40.4分 皆既月食はじまる。 ※近畿地方以西では月の出以前 
17時17.0分 食の最大 
17時53.6分 皆既月食がおわる
19時01.7分 月食がおわる
20時06.1分 半影食がおわる

月が低い高度の時に皆既月食となるということは、ある意味チャンスです。
なぜなら、景色と併せて観察しやすいからです。

どうせなら、ということで富士山頂から登る皆既月食が観察できるポイントを探してみました。
比較的良さそうなポイントは静岡県富士宮市の国道139号線、横手沢の近辺です。
カシミール3Dでシミュレートしてみると、丁度富士山の山頂から皆既月食が終わる直前の月が昇ります。

20101208-02

 

実際にどんな風に見えるだろうかということをカシミール画像と皆既月食の写真で作成してみました。
皆既月食の終わりの時刻には月の左下部分から明るくなってくるはずですので、こんな感じでしょう。

20101208-01

なんと幻想的な光景でしょう。
見ようによっては鏡餅の上のダイダイにも見えますね。めでたい。
このまま年賀状素材として使いたい気分です。
私はこの冬から新たに始まった仕事の関係で見ることは難しいかもしれませんが・・・なんとか見てみたいなぁ~と心の隅で思っています。
いずれにせよ、月食自体は日本全国で見ることが出来るので晴れることを願いたいものです。

 

今日は成道会。

お釈迦様はブッダガヤの菩提樹の下で明けの明星を眺めながら悟りを開かれたとされています。
金星探査機「あかつき」は周回軌道に乗ることが叶わなかったという発表が、成道会の朝に行われました。
こちらは残念なニュースでした。
しかしながら7年後の2016年再び地球が金星に接近する機に再挑戦できる可能性もあります。
失敗を生かして次なるステップを期待します。

投稿者: kameno 日時: 11:56 AM | | コメント (0)

ハートレー彗星が見ごろ

ここのところ雨天が続いておりましたが、久し振りに星空を望むことができました。

今、丁度約6.5年周期の楕円軌道をもつハートレー彗星(103P/Hartley)が見ごろを迎えています。
夜半から明け方にかけて南天の見やすい位置にありますので、少し大きめの双眼鏡があれば、ぼんやりと緑色に光る彗星を比較的簡単に見つけることができるでしょう。

今日(11月2日)の午前4時には、ふたご座といっかくじゅう座の間にあって、ちょうどクリスマスツリー星団(NGC2264:写真の15MONの直ぐ傍)との競演が楽しめました。

20101102-01
(2010 11 02   4:25a.m.  CanonEOSkissX3+Tamron90mm  f3.5 6sec  ISO400 貞昌院にて)

カメラを固定してテキトーに撮影た写真ですので少し判りづらいかもしれませんが、ぼんやりと滲んでいるのが彗星です。

だんだん地球から遠ざかりつつあり、見ごろはあと一週間くらいでしょうか。

彗星の見つけ方はアストロアーツのサイトをご参照ください。


■彗星関連の主なブログ記事

ルーリン彗星が土星に接近
ようこそルーリン彗星
ホームズ彗星の動き
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投稿者: kameno 日時: 5:11 AM | | コメント (2)

羽田空港国際定期便再開

羽田空港(東京国際空港)で、いよいよ国際定期便の本格運行が再開されました。

1978年の成田空港(新東京国際空港)開港以来、実に32年ぶりとなります。
24時間対応のハブ空港として稼動していますので、空の便は格段に便利になることでしょう。

地図を元に羽田空港の歴史を振り返ってみます。

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迅速測図(1880-85)

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(地形図 明治39年測図)

大正6(1917)年、日本飛行大学校「羽田飛行場」飛行訓練施設設置。
付近に羽田運動場、羽田海水浴場、沖には羽田競馬場がありました。
大正11年の地形図に羽田運動場、羽田競馬場が記載されています。


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(地形図 大正11年修正)

東京飛行場(羽田飛行場)が日本初の国営民間航空専用空港として開港したのは昭和6(1931)年です。
面積53ha、全長300m 幅15mの滑走路が1本での運用でした。
大阪・福岡・台北・京城などへの国内線のみならず、満州国や中華民国、タイ、フランス領インドシナへの国際線ハブ空港としての運航も活発化しています。
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(地形図 昭和7年要修)

第二次世界大戦開戦により羽田空港は軍用飛行場に転換されます。
国内線や同盟国の満州国やタイ王国の他に、香港やジャカルタ、マニラやシンガポールなどイギリスやアメリカ、オランダの植民地を日本軍が占領した東南アジア各都市へ向けて、陸軍による定期便が運行していました。

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(地形図 昭和20年部修)

第二次世界大戦終戦後、日本を占領したアメリカ軍は、ハネダ・アーミー・エアベースとして沖合に拡張工事を計画。
このため、昭和20(1945)年9月21日に、羽田町鈴木新田周辺住人に対し48時間以内に強制退去の命令が出されます。
羽田地区は昭和20年に激変しました。現在の羽田空港の礎は、アメリカ軍によって築かれたのです。
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(地形図 昭和41年改測)


1964年の海外旅行自由化以降、航空機の利用客・便数が急増したため、1984年から羽田沖の海面を埋立て、空港施設を移設・拡張するという沖合展開事業が始まりました。
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(地形図 昭和51年ニ改)

1993年には、新国内線ターミナルビル(ビッグバード 第1ターミナルビル)が完成、2004年12月には、第2旅客ターミナルビルが供用開始となりました。
20101030-08
(地形図 平成13年修正)


多摩川河口付近海上に世界初の人工島+桟橋構造のハイブリッド滑走路として、D滑走路が完成。
国内線・国際線ターミナル、整備センターがあった区域に新国際線旅客ターミナルビルが完成。
そして、本日国際定期便の本格運行が再開されました。

20101030-09
(Google Mapより。2010年)


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マヨネーズとの闘い
投稿者: kameno 日時: 11:08 AM | | コメント (0) | トラックバック (1)

徳翁寺末寺の位置と街道

20101021-01

 

世代 徳翁寺歴代住職 開山となる寺院 (開山年) 備考
徳翁1世 如幻宗吾大和尚 徳翁寺(1503) 總持寺第704世
徳翁2世 興山舜養大和尚 永明寺(1542)  
徳翁3世 在天孝舜大和尚 長源寺  
徳翁4世 明堂文龍大和尚 西照寺(1574)・萬福寺・貞昌院(1582)  
徳翁5世 乾室厳隆大和尚 安楽寺・雲林寺  
徳翁6世 快応孝頓大和尚 観音寺(1615)  
徳翁7世 揚山宗播大和尚 全龍寺(1638)・龍光寺  
投稿者: kameno 日時: 10:07 AM | | コメント (0)

飛んでいった風船はどうなるの(2)

こういう夢のある話題はいいですね。

ニューヨークに住む小学生マックス君が、父親と一緒に作成したヘリウム風船につけた自作観測機器にビデオカメラとiPhoneを装着し、放出から上空10万ft(=約30km:成層圏の世界)に達し、再び地上に落下するまでの様子の撮影に成功しました。
観測機器を断熱材で保護したり、ホッカイロを入れたり、厳しい環境下でも耐えられるような工夫が随所になされています。

まずは、その映像を。

Homemade Spacecraft from Luke Geissbuhler on Vimeo.

回収のためにiPhoneのGPS機能をフル活用し、木に引っかかっていた観測機器を無事回収。
実に生々しい映像ですね。

このヘリウム風船は、世界中で、日本でも気象庁により毎日数回全国16か所の気象台から打上げられている気象観測用ゾンデ(ラジオゾンデ)と同じものです。
ラジオゾンデで用いられる600gのゴムを使用したヘリウム風船の場合、約90分で上空30kmくらいに達し、風船は膨張が限界に達して破裂し、ラジオゾンデの観測は終了します。
マックス君の風船も、ほぼ同じ飛行高度まで飛んだ訳ですね。
ゴム風船が上空でどのように破裂するかという状況も良くわかる動画です。

[豆知識]
これより上が外気圏
熱圏(Thermosphere)  高度80-800km
中間圏(Mesosphere)  高度50-80km
成層圏(Stratosphere) 高度11-50km
対流圏(Troposphere) 高度0-11km

ちなみに、スペースシャトルの飛行軌道高度はだいたい200~500kmです。



■関連ブログ記事
飛んでいった風船はどうなるの

■関連リンク
Brooklyn Space Program
ドリームビジョン(日本テレビ番組の同様な企画)

投稿者: kameno 日時: 12:33 AM | | コメント (2)

一遍上人逗留の地「ながさご」

踊念仏で知られる時宗の開祖一遍上人は、法然の弟子西山義の証空の弟子、聖達を師とし、法然上人からは法系上曾孫にあたります。
まずは『一遍聖繪』より第五の部分を引用いたします。弘安5(1282)年春に一遍上人の一行が奥州江刺の祖父河野通信の墓に参った後、松島小泉、常陸より武蔵国石濱を経て鎌倉向かう部分です。


武蔵国石濱にて。時衆四五人病ふしたりけるを見給いて。
のこりゐて むかしを今と かたるへき こころのはてを しるひとそなき
弘安五年の春。鎌倉にいりたまふとて。ながさごという所に三日とどまり給う
聖の給はく。鎌倉入の作法にて。仮益の有無を定べし。利益たゆべきならば。是を最後とおもふべき由。
時衆に示して。三月一日小袋坂よりいりたまふに。今日は大守山内へ出給ふ事あり。此の道よりはあしかるべき由人申しければ。聖思ふやうありとてなを入りたまふ。
武士むかひて制止をくはふといへども。しひて通りたまふに。
小舍人をもて時宗を打擲して。聖はいづくにあるぞと尋ねければ。聖爰にありとて出むかひ給ふに。武士いはく。御前にてかくのごときの狼藉をいたすべきやうやある。なんぢ徒衆を引具する事。偏に名聞の為なり。制止にかかへられず。乱入すること心得がたし云々。
『時宗聖典』巻下2(時宗宗学林編)「一遍聖繪」第五 より一部引用


引用文中、下線を引いた「ながさご」について、長後(ちょうご・古くは長郷)と推定するものが多く(例:えのしま・ふじさわポータルサイト:藤沢市運営) 、「長後説」が有力となっています。

ところが、様々な資料を付き合わせると、長後ではなく、永谷の永作(ながさく)と考えるほうが自然であるという見方もできそうです。


kamakura4 

文中の武蔵国石濱は、現在の石濱浜神社(上地図の右上端)です。
鎌倉時代には、現在より約2メートルほど海水面が高く、海岸線や川幅がだいぶ違いました。 
(上図参照)
 

参考までに、時宗の元本山「当麻無量光寺」は 嘉元元(1303)年、二代他阿真教により念仏道場として開山。現本山の 「清浄光寺(遊行寺)」は 正中2(1325)年、四代呑海上人による開山ですので、弘安5(1282)年にはまだ両堂宇はありません。

 

一遍上人一行の石濱から鎌倉までのルートは、海岸沿いに南下し、多摩川を渡ったあと、

(1)三ツ沢~和田~岩間宿~石名坂~弘明寺~餅井坂~永谷~舞岡~小袋坂~鎌倉
(2)三ツ沢~和田~保土ヶ谷宿~境木~柏尾~舞岡~小袋坂~鎌倉

のどちらかのルートを通って鎌倉入りを試みたと考えられます。
⇒大畠洋一著作集さんのサイト 保土ヶ谷宿の成立と交通路の変遷 がとても参考になります。

なお、(2)よりも(1)の方が古くから成立していた道(鎌倉古道下之道:鎌倉初期)であると推定されます。

そうであれば武蔵国石濱から鎌倉への当時の街道を考慮すると、『一遍聖繪』に記載される「ながさご」は餅井坂と舞岡の間にある「永作(ながさく)」と考えるほうが自然です。

さらに言えば、一遍上人が3日間留まったのが永作であったのならば、当時永作にあった貞昌院の前身の天性寺上之坊であった可能性もあります。

20080129-01.jpg


天神社別当貞昌院、天神山と号す、曹洞宗(後山田村徳翁寺未)。旧は上之坊下之坊と号せし台家の供僧二宇在りし が共に廃亡せしを天正十年に至り、其廃跡を開き、当院を起立す、開祖は文龍(天正十九年四月十六日寂す)と云ふ、本尊は十一面観音(長八寸行基作)。神明宮二、羽黒社、浅間社、以上貞昌院持

「注」上の坊は上永谷町5358番地附近(永作公園)一帯、現、田辺氏宅東方地域、下之坊は上永谷町3400番地附近一帯、現、鈴木氏宅西方の山腹、故に鈴木家を寺下と呼称す、両坊共に七堂伽藍を具備せしと。
『新編相模風土記』永野項より引用、下線と「注」はkamenoが付記


 

永谷郷の永作に逗留した一遍上人一行は、3月1日、鎌倉での踊り念仏の布教が成功するかしないかに自分の教えの当否を掛け、鎌倉に向かいます。
しかし、鎌倉に入ろうとした際に、丁度落慶に向けて工事の進む円覚寺に居た北条時宗により警固の武士に行く手を遮られてしまいます。
(北条時宗は念仏を鎌倉から追放する政策をとっていました)
鎌倉入りを拒まれた一遍上人の一行は、小袋坂から鎌倉に入ることを止め、片瀬の浜に回り、そこで舞踊台を作り踊り念仏を行いました。

20101016-02
(国宝『一遍聖繪』片瀬より)

周囲に多くの人びとが集まっていますね。
自らの教えの当否を掛けた舞台の答えが、明確に現れています。

 

今日の記事は檀家さんとの雑談の中で出た話を元に検証を加えて作成してみました。
「ながさご」は果たして長後なのか、永作なのか。
検証が進みましたら、また追記します。

投稿者: kameno 日時: 1:34 AM | | コメント (0)

松ケ崎横穴古墳群の現状

松ヶ崎古墳群の現状については港南歴史協議会でも度々話題になっており、一度詳しく見てみたいと思っていましたが、なかなか 現地に赴くことが出来ず、昨日になってようやく叶いました。

まずは、松ヶ崎古墳に関する2つの調査報告をまとめてみます。
両者の記述に差異がみられます。
その原因は周辺の土地開発や道路拡張、自然環境の変化による古墳の崩落のほか、かなり草木が生い茂っている場所であるために見つけることができなかったということがあるのではないでしょうか。

 

『神奈川県埋蔵文化財調査報告・港南台』 (昭和51年刊)の記述 『港南の歴史』 (昭和54年刊)の記述
20100922-02 20100922-01 
注・写真と調査古墳の図をkamenoにより合成

相模湾に流入する柏尾川の支流に、水源を円海山の丘陵に求めて流れ込む。鼬川やその上流の稲荷川がある。これらの川が開いた沖積低地を生産の場として利用しながら、旧鎌倉郡鍛冶ヶ谷村の集落が形成されていった。

松ケ崎横穴古墳のあるところは、この鍛冶ヶ谷村と宮ヶ谷村の境で、古くより松ケ崎と呼ばれる舌状地形の南側斜面である。現在は港南区日野町榎戸3801番地の山林で、この台地上には、県立港南高等学校が建設されている。
<中略>
松ケ崎の南斜面に分布する横穴古墳群は、不揃いだが上、下二段に分列して、8穴が開口している。斜面一帯は雑木に覆われ更に雑草が級密に繁茂しているために、他に埋没しているものもあると思われるが、探査することはできなかった。
外部より開口していることが確認出来たものでも、斜面の表層が崩壊浸蝕されて横穴の中へ流入し、僅かに覗くことができる程度のものであった。
<中略>
外部より観察した結果、下段に横列する5穴のうち、その中央部にある1穴は、複式玄室の構造をもつ横穴で羨門の部分は欠失していたが、前室と玄室の区別が明瞭であり、前室は方形で流入した土砂、岩塊によって半ば埋没していた。
他の横穴は複式のものではないようであったが覗き見る程度では、確証は出来ない。
然しこの斜面に分布する横穴古墳群は、比較的古い形式のものと、それより新しい形式のものとの2形態に分類できるようであり、方形で復式の玄室をもつものは、横穴古墳の編年上古い形式に属するものではないだろうか。

最近現地を再度訪れる機会があったが、この傾斜面の上端部に補壁工事が施されているのを見た。開発地域内の遺跡保存が、いかに困難であるかのあかしともなろう。横穴古墳は傾斜面に残されても、外側に石垣の補壁工事が施された場合は、遺跡は消滅したことに等しいであろう。

松ケ崎横穴古墳群は、古墳時代後半期の墳墓であり、この墓群が成立するためには、この附近にその母体ともなる集落址が存在しなければならない。古墳時代後半期と考えられる集落址は、この横穴群より北の直線距離で図上480mの地点に榎戸第2遺跡の集落地がある。更に南へ図上500mの位置に稲荷森部落があり、その裏手の台地に土師器片が散布していることが確められている。この両遺跡が松ケ崎横穴古墳群に最も近い距離にあると思われる。なお、稲荷川に臨む台地上には、他にも士師器、須恵器などの散布する場所があり、いずれがこの横穴古墳群と有機的な関係があったかは論断できないが、鼬川や稲荷川の形成した沖積低地を生産のきばんとして成立発展してきた古墳時代後半期の集落が、この横穴古墳群の近くに多数存在していた事実は、この水系とそれに伴う沖積低地の生活圏に所属して活動していた部落集団のいずれかが構築したものと考えることが出来よう。

所在地 港南区日野町榎戸3801番地の山林

神奈川県立港南台高校のある丘陵上の西側、東京電力の鉄塔のある舌状台地南斜面の裾の部分に松ケ崎横穴古墳群は立地する。この地域一帯は港南区と戸塚区の区境にあたる部分で東の方へ流れ出る川は日野川となり大岡川を経て東京湾に注ぐ。西の方へ流れ出る川は稲荷川・鼬川・柏尾川となり相模湾に流出する。この分水嶺の両側にある集落が戸塚区鍛治ケ谷であり、港南区日野町の宮ヶ谷であった。

この付近は現在では開発のためかっての樹枝状の丘陵地形は削平され平担地となったが、横穴古墳の現存するこの地域は現状のまま保存する計画になっている。

写真の松ケ崎横穴古墳は上下2段に8穴が確認(港南台遺跡調査報告書1978)されている。この中の5穴を調査したがそのうちの2穴は中に入ることができるが他は入り口付近がくずれ、また、開発工事による土砂が中に流入したり、水が溜り中に入ることはできない。この調査は1979年2月編集委員と笹下中学校社会研究部員が行なったが8穴のうち、3穴は確認できなかった。開発工事による消滅と思える。

この横穴古墳の成立年代は古墳時代の終末期にあたる、7世紀後半のものであろう。図上の写真の傾斜地の樹林の中に図のような配置で構築されている。1・2は単式の羽子板状の平面を示し3~5は前室と奥室のある複式の横穴古墳である。
5号横穴は複式のものである。<中略>この羨門は斜面の土砂の流入がある。前室は奥行き2.7m・幅1.8m・高さ1.56m、前室の奥壁中央には写真中の幅0.7m高さ0.5mのアーチ型の入口がある。奥行き2.18m・幅1.5m・高さ1mの遺骸を納めたと思われる奥室がある。
1号古墳は高さ0.7m・幅1mの羨門から奥行1.7mの羨道、更に奥行3.2m・幅2.5m・高さ1.95mの奥へ行くに従って広がる羽子板状の平面をもつ。

このような横穴古墳が成立するためにはこの付近に古墳時代の集落が存在しなければならない。北側に榎戸第二遺跡、南に稲荷森遺跡があり、周辺には土師器片が散布している。またこの松ケ崎の西方には戸塚区の鍛治ケ谷横穴古墳群。七石山横穴古墳群・滝ケ久保横穴古墳群が続く。
鼬川・稲荷川の流域に広がる沖積地で水田耕作がおこなわれ、生活の舞台となり、このような古墳文化をはぐくんだものと考えられる。



下の写真は、昨日撮影した前述の報告書と同じ場所(松ヶ崎古墳全景)です。
高圧電線の鉄塔の形の変化や周辺の住宅の様子に約40年もの時代の変遷を感じます。
それでも、古墳群は県立港南台高校(現在は県立立野高校が管理)敷地にあるために開発から逃れることができました。舌状地形の輪郭もかつての形を残しています。

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GoogleMapの航空写真で『港南の歴史』に記載されている1~5の横穴をプロットしてみました。
【下の航空写真参照】
右下の矢印は、松ヶ崎横穴古墳群全景を撮影した場所です。
なお、①②③④⑤がそれぞれ『港南の歴史』に記載されている1号~5号の横穴です。
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『港南の歴史』によれば、①②が単式、③④⑤が複式とのことですが、③④⑤は草に覆われていたためか、既に失われてしまっているか、発見できませんでした。
しかし、⑤は本文にあるように相当大きな複式横穴墓とのことですから、草が無くなる冬の時期に丹念に調べればきっと見つかるでしょう。

 

■航空写真①の位置

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直ぐに見つけることができたのは↑こちら。
航空写真でいう②の位置です。位置口が狭く半ば埋まっていたので良くわかりませんが、単式羽子板状のように見えます。

 

■航空写真②の位置

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2番目に見つけた横穴は、①の横穴墓の直ぐ右横にある横穴墓です。航空写真でいう②の位置です。
位置関係と状況から判断して『神奈川県埋蔵文化財調査報告』にある「下段に横列する5穴のうち、その中央部にある1穴 」は、この横穴墓と見て良さそうです。
『神奈川県埋蔵文化財調査報告』『港南の歴史』によると、これよりさらに右側に3つの横穴墓がありそうですが、びっしりとヤブカラシなどの草に覆われていて、とても入ることはできません。
草の無くなる時期に、立野高校の許可を取った上で丹念に調べてみたいものです。

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以下は『港南の歴史』では記載の無い横穴墓です。

 

■航空写真⑥の位置

下写真の横穴墓は①の横穴墓の直ぐ西側にあり、航空写真では⑥と記載しました。この⑥が昨日見た中で一番大きなものでした。
なぜ、港南の歴史編集委員と笹下中学校社会研究部員による調査でこれだけ大きな横穴墓が見逃されていたのか不思議です。
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前室の奥壁中央にはアーチ型の入口があり、遺骸を納めたと思われる奥室もきちんと残されています。
保存状態も良く、前室天井の鑿岩模様も、奥室入口の淵取模様もはっきりしています。


■航空写真⑦の位置

⑥の直ぐ西には、↓崩壊し埋没している横穴=航空写真の⑦=がありました。
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ということで、この日見つけることが出来たのは4穴=航空写真でいうところの①②⑥⑦でした。
松ヶ崎横穴古墳群は、運良く開発から逃れて現状保存されてかつての姿を残していますが、今後適切な保存が為されないと失われてしまうでしょう。

投稿者: kameno 日時: 1:27 AM | | コメント (2)

ダイヤモンド富士を望む古墳群

今日から彼岸です。
お墓参りをされるかたも多いと存じますので、今日はお墓に関する記事を書いてみます。

港南区には幾つかの古墳が確認されています。
その多くは開発などにより失われてしまいましたが、唯一残されている古墳が(旧)港南台高校敷地内の舌状台地南斜面に位置する松ヶ崎横穴古墳群です。

 

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(図は『港南の歴史』昭和54年 港南の歴史発行実行委員会編 P53より引用)


古墳時代(畿内では3世紀後半から7世紀)にかけては、弥生時代から発生した稲作などの農耕生活により生じた貧富の差や階層分化が生まれはじまりました。
また、鉄器の普及により耕地は拡張され、経済力の上昇により国家としての統治形態が整い始め、発生した支配階級がより明確になりました。
地域共同体の司祭的な首長がその地位を確固たるものとするために、土を盛り上げて作る前方後円墳や前方後方墳などの古墳が多く作られたため古墳時代と名づけられています。

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©蛙男商会


首長よりも地位が低位の人びとや一般庶民は山の斜面に横穴を設けて埋葬していたようです。

その一つである松ヶ崎横穴古墳群の付近は武相国境の分水嶺に位置し、北東へ流れる川は日野川・大岡川を経て東京湾に注ぎ、南西に流れる川は稲荷川・鼬川・柏尾川となり相模湾に注ぎます。
この分水嶺の西側、現在の鍛冶ヶ谷付近には「たたら場」の遺構が数多く点在し、また現在の港南環境センター付近の一帯には港南台遺跡として縄文時代中期以降の住居跡が発掘調査されています。
(なお、港南台遺跡住居群は港南台開発のために既に失われてしまっています)

 

 

集落があるということは埋葬する場所があるということで、先に述べたように港南台周辺には松ヶ崎古墳群(横穴式古墳群)が形成されていったのです。
この松ヶ崎横穴古墳群は、武相国境分水嶺の舌状台地南斜面につくられていますので、見晴らしがとてもよく、真西には富士山を望むことができます。
秋彼岸入りの頃には、夕日は富士山の山頂に沈みます。ダイヤモンド富士です。

 

今年の彼岸入りの日(9月20日)にこの松ヶ崎古墳群近辺から見られるであろうダイヤモンド富士をシミュレーションしてみました。

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なお、昨年はこのように美しいダイヤモンド富士を望むことができました

松ヶ崎古墳群がこの位置に作られたということは、彼岸の入りにこのような光景を望むことができる場所であるということと少なからず関係があるように思えます。
港南区で一番と言っても過言ではないほど見事な光景が見られるのです。

お墓参りの後、もしも天気が良さそうでしたら、是非足を運び古来の方々に手を合わせていただくことをおすすめします。振り返ると見事なダイヤモンド富士が見られるかもしれません。
(ただし古墳群の中に無断で立ち入ったり付近の住民に迷惑となる行為は慎みたいものです)



追記
港南区で唯一残されている松ヶ崎古墳群も、残念なことに徐々に崩れはじめてしまっています。
このままでは遠くない将来に完全に消滅してしまうことでしょう。
その価値を認め、適切な保存管理がなされることを望みます。

投稿者: kameno 日時: 3:42 AM | | コメント (0)

儚い露も貴重な水源

古来より朝露は儚いもののたとえとされてきました。

この朝露は、空気中に含まれている水蒸気が放射冷却などの影響で植物の葉や建物の外壁などで水滴となったものです。

 

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ここのところ一ヶ月ほど雨らしい雨は降っていませんが、それでも早朝の本堂の銅瓦もこのように朝露でびっしりと覆われています。

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境内を散歩すると、足元が濡れてしまうほど水に満ち溢れています。

なぜ葉の表面に朝露がつきやすいのかはブログ記事 ロータス効果 でも書いたとおり、葉の表面が撥水効果をもつ性質があるからです。

 

この朝露、特に今年の夏から秋にかけてのように降雨が無い時には生物たちにとっては貴重な水資源となります。
自然の朝露を利用した栽培方法を「露地栽培」と呼びますね。
蛇足ですが、寺院境内建物でも露地と呼ばれる部分があります。
茶室にも露地があります。
原典は『妙法蓮華経 譬喩品』のようです。

爭出火宅 是時長者見諸子等安隱得出 皆於四衢道中 露地而坐 無復障碍 其心泰然 歓喜踊躍・・・・・



雨が無く暑い毎日が続いているなかでも虫たちが元気に生き続けているのは、朝に一日分のエネルギーを蓄え、暑い日中は草の陰でひっそりと過ごすという自然の智慧を実践しているからでしょう。

水滴を纏った虫たちの煌きを下記のサイトで見ることが出来ます。(虫嫌いな人は注意)
The stunning pictures of sleeping insects covered in water droplets

 

 


陽が昇っていくにしたがって朝露はたちまち消えてしまいます。
このように儚い朝露ですが、重要な役割を果たしているのです。

投稿者: kameno 日時: 7:48 AM | | コメント (2)

一番じゃなくても一番になれる

コンピューターの性能を誇示するために円周率を何桁まで計算できたかで表すことがあります。
従ってコンピューターの進歩とともに記録は更新されていくものであり、現在世界最高桁数計算の記録を持つコンピューターはさぞかし高性能のスーパーコンピューターなのかと思いきや、ごく一般のパソコンでも「時間さえかければ」世界中のスーパーコンピューター以上の結果を出すことが可能であるというニュースです。

 

円周率計算2兆5769億8037万桁! 筑波大が世界記録樹立、ギネス申請
(産経新聞 2009/08/17)

という一年前の報道がまだ記憶に新しい中での大幅記録更新です。

 

円周率5兆けた、PCで計算 長野の会社員、3カ月かけ
(朝日新聞 2010/08/05)

記録は長野県飯田市の会社員近藤茂さんと米国のアレクサンダー・J・イーさんによる小数点以下5兆桁!です。
計算に90日間、検証に64時間を要し、2010年8月2日に記録が達成されました。

その時に使用されたコンピューターは
CPU 2 x Intel Xeon X5680 @ 3.33 GHz
メモリ 96 GB DDR3 @ 1066 MHz
HDD  16 x 2 TB

さすがに計算結果を保存するために膨大な記憶容量が必要となりますが、百万円程度あれば組み立てられるレベルのパソコンです。

ソースサイトに記録を達成した円周率計算ソフトも公開されています。
こちら

 

 

折角計算ソフトが公開されているのでさっそく私のパソコンで計算してみました。

決して高性能とはいえないパソコン
Processor(s):          Intel(R) Core(TM)2 Duo CPU E8400 @ 3.00GHz
Logical Cores:         2
Physical Memory:       2,145,705,984 bytes  ( 2.00 GB )
CPU Frequency:         2,999,674,784 Hz 

に、このブログ記事を書きながらというマルチタスクを強いる過酷な条件のもとで・・・・・

 

20100809-01

 

2千5百万桁までは1分もかからずに計算されました。
円周率 5千万桁目は「2」のようです。

 

もう少し時間をかけて・・・・・

 

ちょうどブログ記事が書き終わる頃、278秒ほどかかって1億桁(100,000,000桁)まで計算できました。


9948682556 3967530560 3352869667 7734610718 4471868529  :  ~ 99,999,950桁目
7572203175 2074898161 1683139375 1497058112 0187751592  :  ~100,000,000桁目

 

どうやら、円周率 1億桁目も「2」みたいですよ。

 


■補足
円周率の計算といえば、ドイツの数学者ルドルフ・ファン・コイレン(1596-1610)年が一生涯をかけて、正32212254720 (=60×229) 角形の辺の長さを元に手計算により円周率を35桁目まで計算した逸話を思い出します。彼はこの結果を大変誇りとし、自身の墓石に計算結果を刻みました。数学者の熱意ですね。

投稿者: kameno 日時: 6:54 AM | | コメント (0)

赤は色落ちしやすい

暑い日が続きます。
貞昌院駐車場のノウゼンカズラは太陽の光をいっぱいに浴びて元気に育っています。
もう花のピークは終わりましたが、残りの花が鮮やかに輝いています。
空も抜けるような青さですね。
(なぜ空が青く見えるのか、その理由も今日の記事と関連性があります)

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太陽光のエネルギーはとても大きく、地表に降り注ぐ光エネルギーを電気に換算すると1m2当たり約1kwになります。 実に大きなエネルギーですね。

掲示板に張っておいた印刷物も1か月でご覧のとおり。駐車場に設置している屋外トイレの表示板もすっかり赤の部分が退色してしまっています。

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ここで、改めて「赤色」は退色しやすいということを実感します。
黒や青は残っていても、赤は消えやすい傾向にあります。

それには理由があります。

太陽が放出しているエネルギーは、波長と粒子両方の性質で構成される電磁波です。
その波長は下図のような連続スペクトルの構成となっていてこのうち、人間の目に見える領域(波長380nm~780nm)が可視光線領域と呼ばれる部分です。

solar_irradiance 
(図はWikiペディア「太陽光」項より)


可視光線領域は波長の長い順(下図の右から左方向)に赤・橙・黄・緑・青・藍・青紫となり、青紫よりも波長が短い領域が紫外線(UV)、波長が長い領域が赤外線となります。

solor-image2

私たちが物を視覚的に認知するということは、(それ自身が光っているものを除いて)物体に光が当たって、その反射される光を認知するということになります。
物の性質によって反射される光の周波数が異なりますから様々な色調に見える訳です。
「赤く」見えるということは、その物体が赤い色を反射し、それ以外の波長、例えば紫や青の光を吸収する傾向にあるということです。

また、光は波長が短いほどエネルギーが大きくなります。
紫外線が強いエネルギーを持つというのはそのような理由です。逆に赤い光は波長が長くエネルギーが低い電磁波(光)です。


赤い物体は、エネルギーの低い電磁波を反射し、エネルギーの高い紫や青の電磁波を吸収する性質にあるために、その強いエネルギーのために分子構造が壊されてしまい、色が抜けてしまうというわけです。

赤が退色しやすいというのはそのような理由です。

オランダの国旗は、元来オランダのユニオンカラーである「オレンジ色」が使われていましたが、退色しやすく、日光に弱いためにより濃い赤に変更されました。
それだけシビアな問題なのです。

 

■蛇足ですが日本の国旗の「赤い丸」は過酷な環境でも比較的退色しにくいアゾ色素が利用されています。
CD-RやDVD-Rにもアゾ色素が使われていますね。
赤い色を使う際には、退色の影響を受けやすいということを考慮して用いることが必要となります。

 

■さらに蛇足

長く保存したい赤(朱色)といえば、印鑑の印影がありますね。
最近は染料インキをスポンジに染込ませたもので印鑑を押すことが多くなっていますが、今日の記事のとおり日光に曝すと印影が消えてしまうことがあります。
重要な書類などの場合は大問題です。

従って重要な書類や落款などには「朱肉」を用いるべきです。
朱肉の原料、辰砂は硫化水銀(HgS)からなる鉱物で、丹砂、朱砂、水銀朱などがあります。「丹(に)」とも呼ばれます。
古来は天然の辰砂を使っていましたが、現在では水銀と硫黄から合成した硫化水銀に松脂、櫨蠟、 ひまし油などを混合して朱肉が作られます。
朱肉の印影は重厚な味わいがあり、何万年もの経年変化も殆ど無い安定した性質があり、偽造される危険性も少なくなります。


■関連ブログ記事

結界をなす朱の意味

投稿者: kameno 日時: 8:25 AM | | コメント (0)

大船観音はどこから見える?

大船駅西口にほど近い丘の上から街を見まもる大船観音は、大船の街の至るところから拝むことが出来ます。

街の至るところ・・・

では具体的にどの範囲から大船観音を望むことができるのでしょうか。

 

逆に考えると、これは 大船の街をみまもる観音様 の記事で作成した 大船観音・白衣観音様頭上からの360度パノラマ でどこまで展望できるかということでもあります。

 

フリーソフト、カシミール3Dには「可視マップ」機能がありますので実際に計算してみました。

大船観音の場所は日本高密メッシュ標高データによると標高43m。
これに観音像の高さ25mをプラスして、68mのポイントがどの範囲から見えるかを計算します。
つまり、大船観音の頭の一部でも見える範囲です。

200716-01

赤い部分が大船観音が見える範囲として計算できました。
大船駅の周辺は柏尾川に刻まれた起伏に富んだ地形ではありますが、かなり広い範囲で見えていることが判ります。

計算範囲をさらに広げていくと、富士山の山頂や東斜面はもとより、

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何と何と中禅寺湖の北側や、南アルプスからからも理論上大船観音の頭を望めることがわかりました。

 

北側の可視限界は、高薙山山頂(標高2180m):大船観音より北に165km
西側の可視限界は、東岳(悪沢岳・標高3141m):大船観音より西北西に123km

であります。

 

■見通し判定

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高薙山山頂←→大船観音

200716-03 
東岳(悪沢岳)山頂←→大船観音

 

尤も、観音様は多くの人々の救済を求める「声を観て」救済に赴く訳でありますから、人間の目線での「可視」「不可視」などは意味のないものかも知れませんね。

 


■関連ブログ記事

大船観音はどこを向く?

投稿者: kameno 日時: 10:58 PM | | コメント (0)

認知症への理解と援助

「認知症の理解と援助」という内容の研修会に参加してきました。

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kamenoメモでいくつかかいつまんでまとめてみます

 

【用語の定義】
認知症とは
「一度獲得した知的機能(記憶・認識・判断・学習など)の低下により、自己や周囲の状況把握、判断が不正確になり、自立した生活が困難になっている人の状態」

■認知症をよく理解するための9大法則・1原則

(1)記憶生涯
記銘力低下=話したことも見たことも直後に忘れるほどの物忘れ。同じことを繰り返す
全体記憶の障害=経験したこと全体を忘れる
記憶の逆行性喪失=現在から過去に遡り忘れていく

(2)症状の出現強度
身近な人に対して認知の症状が出る

(3)自己有利
自分に不利なことは認めない

(4)まだら症状
正常な部分と認知症の部分が混在する

(5)感情残像
理性の世界から感情の世界へ

(6)こだわり
説得や否定はこだわりを強めるのみ

(7)作用・反作用
強く反応すると強く反ってくる

(8)認知症症状の了解可能性
老年期の知的機能低下の特性から全ての認知症の症状が理解、説明できる

(9)衰弱の進行
認知症の人の廊下速度は非常に速い

以上の法則を踏まえ、認知症の人の形成している世界を理解し、大切にする。その世界とのギャップを感じさせないようにするという原則を実践することが大切。

例えば(5)の法則を踏まえて、相手を褒める、感謝する、話の中で相槌をうつ、共感「よかったね」を付け加える、謝る、事実でなくても認める

(2)(6)の法則を踏まえて、こだわりの原因をみつけて対応する、そのまま放っておく、第三者に登場してもらう、 場面転換をする、地域の協力理解を得る、一手だけ先手を打つ、本人の過去を知る、長期間は続かないと割り切る・・・・

などなど、具体的な事例を元に研修は進んでいきました。


認知症の問題は、高齢者だけではなく、若年記に発症する事例も少なくありません。援助する側からいつ援助される側になるかも判りません。
認知症への正しい理解と対処、そして早期診断が大切であるということでした。

 

近年、平均寿命の急速な伸びによりライフサイクルの変化が顕著になっています。
例えば子育て後の期間(末子独立後、親は何年生きるか) をみると

■大正 男性 6.4年 女性10.6年
■現在 男性 24.3年 女性32.4年

ひとり世帯、夫婦ふたり世帯の増加、精神や身体に特に障害をもたず、元気で活動できる高齢者が増加しています。
また、要介護認定者の2人に1人、居宅にいる要介護認定者の3人に1人、施設に入る要介護認定者の8割は認知症が見られるということです。
「何らかの介護、支援を必要とする認知症がある高齢者(認知症自立度II以上)」は
2005年 169万人
2015年 250万人
2025年 323万人
となるという報告(『高齢者介護研究会報告』2003.6.26)もあります。

高齢化社会が幸福な社会をもたらす源になりますよう、心から願います。

投稿者: kameno 日時: 7:26 AM | | コメント (2)

横浜刑務所南方派遣殉難者慰霊碑

今日の記事は 横浜刑務所とテニアン北飛行場 の続報記事です。

港南区役所に隣接する横浜刑務所敷地に「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」が祀られています。
これは、太平洋戦争直前、日本統治下のテニアン島などに飛行場建設を行なった所謂「囚人部隊」の慰霊碑です。 しかし、石碑の裏側には看守・職員11人の名が刻まれているものの、受刑者については全く触れられていませんでした。

それでは受刑者たちは何処に祀られているのか。
その場所を港南歴史協議会の皆様と訪ねてみました。

場所は日野公園墓地(横浜市港南区日野中央)に隣接した横浜刑務所受刑者合葬墓地区画です。
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横浜刑務所受刑者合葬墓地区画へは、日野公園墓地の区画から斜面を下った先にあります。 
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鬱蒼とした杉木立の合間に墓石が並んでいます。
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表面「(獄?)中死者之墓」
裏面「大正11年10月 神奈川縣監獄吏建立」

この翌年に関東大震災が発生します。
全体的に大きなひび割れを補修した形跡がありますので、大震災で壊れてしまったのでしょうか。

区画前の灯篭(灯篭は戦後建立)には
「世話人 大本山総持寺副監院 教誨師 海津良彦」 とあります。
新潟県楞厳寺の住職様でもあります。当時の横浜刑務所担当教誨師でいらしたのでしょう。

 

区画内にある「南方殉難者之碑」

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表面「南方殉難者之霊」

太平洋戦争中重要ナ国策ヲ遂行スルタメ図南報告隊トシテ トラック諸島モエン島(舊名 春島)ニ於ケル構外作業ニ従事シ 絶大ナ功績ヲ残シツツ不幸中道ニシテ空襲ノ弾火ニ倒レ或ハ疫病ニ冒サレ異郷ニ散華セルモ南漠ノ地ニ假葬ノママ故国ニ葬ムルノ術ナカリシガ昭和四十七年十月漸ク遺骨収集団ノ派遣ヲ得テ遺骨ヲ千鳥ケ淵戦没者墓苑ニオサメ ソノ分骨ヲ此ノ地ニ埋ム 祖国ノ繁栄ヲ祈願シツツ孤島ニ殉ゼシ諸霊ノ苦難ヲ偲ビ其ノ冥福ヲ祈念ス
昭和四十八年十月六日 横浜刑務所長 倉見慶記

裏面

昭和十七年7月ヨリ昭和二十年十月マデノ現地死亡者四百四十二名ヲ合葬ス

 


横浜において南方で殉職、殉死した受刑者の合同慰霊祭を、教誨師会にやっていただきました。このとき私は涙が出ました。というのは、神仏各宗派の教誨師さんが、全員慰霊祭のときに般若心経を合唱してくれたわけでございます。これは宗派の違いを超えてやっていただきました。そして収容者の分骨された遺骨を改造された教誨室に数ヶ月間安置いたしまして、その墓地を教誨師会に作っていただきました。本来は国が作るべき墓地を大部分の施設では教誨師会の力で作っていただいたわけでございます。(『第30回近畿教誨師研修会記録』昭和57年11月より)

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港南歴史協議会の皆様と、建立当時と同じ般若心経を読経し慰霊法要を営ませていただきました。

 

横浜刑務所受刑者合葬墓地区画の場所を1947年と2007年の航空写真で見てみます。

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○の位置が浜刑務所受刑者合葬墓地区画です。
当時から森の中にひっそりと建てられていたことが伺えます。受刑者の墓地であるからなのでしょうか。
隣接する日野公園墓地側の墓苑区画は昭和40年前後に開かれました。


横浜刑務所受刑者合葬墓地区画が日野公園墓地の区域外であることと、道路の状況から、おそらく当時は鎌倉街道方面から参拝されたと考えて良さそうです。

 


■関連ブログ記事
横浜刑務所とテニアン北飛行場
投稿者: kameno 日時: 2:08 PM | | コメント (0)

横浜刑務所とテニアン北飛行場

港南区役所に隣接する横浜刑務所敷地に「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」が祀られています。

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太平洋戦争直前、日本統治下のテニアン島などに飛行場建設を行なった所謂「囚人部隊」の慰霊碑です。
しかし、石碑の裏側には看守・職員11人の名が刻まれているものの、受刑者については全く触れられていません。

ここに、横浜刑務所とテニアン北飛行場、横浜大空襲、広島長崎原爆の一連の流れをまとめてみました。

横浜刑務所は、根岸にあった刑務所が関東大震災で被害を受け、また周囲の都市化が進んだため、現在の上大岡周辺地元の誘致を受けて現在の地(港南区役所の隣)に昭和11年5月竣工した刑務所です。
竣工してまもなく、日本が戦争へと突入する情勢の中で、南方へ受刑者たちを派遣することが決定されます。




国のため…信じた囚人 北マリアナ・テニアン島

広島、長崎に原爆を投下した米軍B29爆撃機の発進基地テニアン。太平洋戦争直前、その飛行場建設に網走や札幌、函館各刑務所はじめ全国から約千人の「囚人部隊」が動員された。日本の南洋進出を担った北マリアナの小島は米軍占領後、本土空襲の拠点に転じる皮肉な運命をたどった。
1939年(昭和14年)、対米開戦をにらみ飛行場建設を急ぐ海軍の要請で、司法省は前例のない受刑者二千人の南洋派遣を決めた。テニアン島と、マーシャル諸島ウオジェ島の二島に各1000人。
戦時中の刑事行政をまとめた「戦時行刑実録」(矯正協会編)によると、道内の刑務所は網走の136人を筆頭に札幌30人、函館22人、旭川(支所)19人の計207人を選抜。刑期の残りが1年半以上ある約300人の希望者の中から、50歳以下で猛暑の重労働に耐えられる頑健な者に絞り込んだ。
予想外に南洋希望者は多かった。「罪人でなく、一兵卒として国のために働くことに誇りを感じたと思う。任務を果たして仮釈放の期待もあっただろう」。元札幌刑務所看守長で、著書「北海道行刑史」にテニアン派遣を記述した重松一義さん(77)=東京都府中市、元中央学院大教授=は言う。
厳寒の北海道を出発、横浜港発の輸送船で40年2月、上陸した。炎熱下の密林で巨木を倒し、砕いたサンゴなどを敷いて舗装した。
網走勢は人数も多く、美幌飛行場建設の経験から手際の良さは群を抜いていたという。当時小学生の宜野座朝憲(ぎのざちょうけん)さん(77)=那覇市、沖縄テニアン会会長=は、遠くから受刑者を見た。「粗末な小屋が並び、網走の重罪人がいると父から聞いて子供心にどきどきした」
集団赤痢や腸チフスで24人の死者を出しながら、飛行場は真珠湾攻撃直前の41年10月、完成した。
北海道新聞より




このあたりの経緯を『横浜刑務所落成記念誌』(2000年6月20日横浜刑務所発行)より詳細に見ていきましょう。
(なお、資料の所在はハマちゃん様よりお教えいただきました。ありがとうございました)


昭和6年9月18日満州事変が勃発、上海事変、日華事変へと日本を取り巻く状況は戦時体制一色に染められてていきました。
横浜刑務所においても、他の刑務所と同様に軍服の肩章、暴雨外套、敷布、軍用石鹸等の軍需製品を主に海軍から受注して大量に生産していました。
また、構外作業として飛行場建設といった大規模なものが、全国から受刑者を集めて行なわれました。
横浜刑務所では、昭和13年7月から4ヶ月間北海道網走郡の飛行場建設作業に30人を派遣しています。

しかし、横浜刑務所の特筆すべきところは国内のみならず、南方の島に職員・受刑者を派遣しているということです。横須賀海軍鎮守府に近いということが理由です。

昭和14年10月、司法省は横浜刑務所を拠点として、全国から受刑者を集め、受刑者2000人の南方諸島・テニアン、ウオジェ両島飛行場等の建設作業への派遣出役を決定します。
派遣部隊は「南方赤誠隊」と命名されました。
全国からの受刑者の結集後、
昭和14年12月18日ウオジェ島へ先遣隊(職員9名・受刑者20名)
昭和14年12月22日テニアン島へ赤誠隊(職員56名・受刑者300名)
昭和14年12月22日ウオジェ島へ赤誠隊(職員43名・受刑者300名)
以降、両島にはそれぞれ約1000名が派遣されています。

両島における作業は南方の灼熱、繁茂する密林、高低差の激しい地形、数々の風土病といった悪条件下のものであり、その中で職員・受刑者を問わず赤誠隊一丸となっての突貫工事でした。
ウオジェ島は昭和16年1月16日に就業延人員284,180名をもって、テニアン島は昭和16年10月23日に就業延人員387,807名を持って全工事が竣工。両島の工事期間中に病気・事故等で職員10名、受刑者50名が犠牲となりました。
この犠牲者を弔うため昭和17年11月21日、横浜刑務所において赤誠隊及び図南報国隊の殉職者11名の合同慰霊碑が旧庁舎正門前に建立され、岩村司法大臣、中尾刑務所長の参列により序幕慰霊法要が営まれました。
それが冒頭の石碑です。

 
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(左)炎天下、広大な飛行場用地を手作業で整地する「囚人部隊」=『日本行刑史散策』から
(中)テニアン北飛行場の現在。ジャングルの中に東西に貫く4本の滑走路が見えます。kameno撮影
(右)砂を敷詰めた2500m級の滑走路。エノラゲイはここから飛立ちました。kameno撮影


 


サイパン・ウオジェでの工事竣工後、トラック島への派遣要請により、トラック島春島図南報国隊と名を変えましたが、昭和16年に勃発した太平洋戦争の局面悪化で本国から次第に孤立し、凄惨な状況に追い込まれます。
昭和19年にはトラック島からの帰還船が米国の魚雷攻撃を受け撃沈、トラック島への大空襲により作り上げた滑走路、宿舎等は損壊、焼失。赤誠隊、図南報国隊員として南方に派遣され、その地に倒れた刑務官は40名、受刑者は442名にのぼり、その大半の遺骨はトラック島に仮埋葬されました。


日本の大きな誤算は、太平洋上での主力艦隊同士の一大決戦によって勝敗が決すると信じていたことであると思います。
従って、南洋の小島の防備が後手に回されてしまいました。
一方、連合軍は先ずは海兵隊を駆使して南洋の小島を制圧し、その飛行場拠点として日本本土に攻撃を行なう作戦を重点的に行ないます。
これにより、南洋群島では太平洋戦争後半において連合軍の上陸を許す結果となり、サイパン・テニアンの飛行場から日本各地への空襲の拠点となってしまいました。

 
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B29が並ぶサイパン・アイズリー飛行場・CC:Wikiペディア


折りしも、あと数日で横浜大空襲の日、5月29日を迎えます。
横浜は日本各地に比べてかなり遅い時期に空襲が始まっています。
しかし、それは歓迎すべきことではなく、横浜が原子爆弾投下の候補地となっていたために空襲が行なわれなかったという、ただそれだけの理由に過ぎません。


1945(昭和20)年5月10日に行なわれた第2回目標選定委員会での原子爆弾の投下目標は下記の通りでした。

1.京都市:AA級目標
2.広島市:AA級目標
3.横浜市:A級目標
4.小倉市:A級目標


(選定理由・直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること、爆風によって効果的に破壊しうむものであること、来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの)
・・・そして、投下地点は都市中心に投下し1発で完全に破壊することと、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるように選定都市への空襲が行なわれませんでした。


横浜大空襲は1945(昭和20)年5月29日に始まります。
理由はその前日に行なわれた第3回原爆投下目標標選定委員会で横浜が目標から外されたことによるものでした。


 

横浜大空襲も、1945(昭和20)年8月6日広島へ、8月9日長崎へ落とされた原子爆弾も横浜刑務所からの「赤誠隊」により建設された飛行場を拠点として行なわれました。
生き残った「赤誠隊」の方たちはどのような気持ちでこの報道に向かい合ったのでしょうか。


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原子爆弾はテニアン島でB-29に搭載され、広島と長崎に投下されました。


・・・横浜刑務所の「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」は、敗戦後「戦争協力の責任を問われる可能性のある文書、証拠の物品」の一として連合軍の進駐を配慮し、砕かれ地中深く埋められてしまいました。

約20年の時を経て、昭和39年6月石碑は再び掘起こされ補修復元の上、再慰霊祭が行なわれました。

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冒頭の石碑の写真随所に見られる大規模な補修跡、上部左が欠けた姿・・・・・砕かれ地中に埋められていたことを生々しく物語っています。



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投稿者: kameno 日時: 10:43 AM | | コメント (2)

ロータス効果

蓮は仏教を象徴する植物として珍重されます。

蓮は泥より出でて泥に染まらず

・・・蓮は泥の中で育ち、清らかな花を咲かせます。煩悩に満ち溢れ昏迷の中にある清浄の象徴とされる所以です。
花だけでなく、葉も泥中にあって、常に美しさを保っています。

植物は自分では自ら動いて汚れを拭い去ることが出来ないため、清浄を保つ様々な工夫をしています。

その工夫の一つが葉や花の表面に施されている微細構造です。
さらに表面の化学的な特性とが相俟って、降った雨は真ん丸な水滴となります。
水滴が花や葉の上で汚れを絡め取りながら転がっていくことにより表面を綺麗に掃除していくのです。

雨模様の境内を巡って、この大自然の智慧を写真に撮ってみました。

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雨の日の植物たちは美しく映えます。
単に水の反射だけで光っているのではなく、汚れが流され本当に綺麗になっているのです。
綺麗になった表面に表面張力で真ん丸になった水玉が飾られキラキラと輝きます。


これをロータス効果といい、建物の屋根や車、衣料品などの撥水加工として応用されています。
太陽光発電パネルの表面を特に掃除しなくても、雨により汚れが流され発電効率が保たれるのも、このロータス効果の一つです。

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(CG by William Thielicke・Wiki pediaより)

大自然の智慧に学ぶことは際限なくあります。

投稿者: kameno 日時: 8:21 PM | | コメント (0) | トラックバック (1)

国定佛誕灌仏会@台湾

国が変れば仏教のスタイルも変ります。
例えばお釈迦様の誕生を祝う「釈尊降誕会(花まつり)」一つをとっても、行なわれる日付や法要の形態は同じ仏教とは思えないほどです。



北伝仏教の伝来した地方では、一般に釈迦の誕生日は中国暦4月8日とされているが、その典拠は必ずしも明らかではない。
インドと基本的に同系統の暦を用いる南伝仏教圏では、釈迦の誕生日はインド系太陽太陰暦第2月15日(ウェーサーカ祭)であるとされている。
インド暦の2月は中国暦の4月から5月に相当するため、中国暦4月に翻訳されたと考えられている。また、法顕の仏国記には「建卯」月の8日または1日から15日にかけて、グプタ朝治下のインド各地で祝祭が行われていたとある。
中国語で「卯の月」とは春分を含む月であり、インド暦の正月祭(例えばタイにおけるソンクラーン)が起源である可能性もある。
現在においては、正月などの他の伝統行事と同じように、日本と日本以外の全ての東アジア圏や世界各地の華人社会とで日付の慣行が全く異なる。
日本では、グレゴリオ暦4月8日、または寺院によっては同5月8日(月遅れ)を灌仏会とするのが一般である。他方、日本以外の東アジア圏や華人社会ではこのようなグレゴリオ暦への読み替えという考え方は存在せず、従来通り中国暦4月8日をもって灌仏会とする
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




今年(2010年)5月9日、台湾・台北市の中華民国総統府(かつての台湾総督府)前で行なわれた釈尊降誕会(國定佛誕灌仏会)の様子が届きましたのでご紹介いたします。
大船観音「ゆめ観音アジアフェスティバル」でも交流のある台湾佛光山寺(臨済宗系)が主体となり各宗教、宗派合同による法要です。
馬英九中華民国総統・中国国民党主席も参列されています。

台湾での国定佛誕灌仏会は、「千僧万衆祝仏誕、一心十願報母恩」(千僧万衆が仏陀の生誕を祝い、10の心願にて母に報恩する)ということで、母の日と融合して行なわれています。
したがって、ウェーサーカとも建卯8日とも関係無く、5月第2日曜日開催となっているのです。

それにしても、凱達格蘭大道(全長400m両側10車線)を埋め尽くす僧侶と参列者・・・圧倒的な迫力ですね。


(国定佛誕灌仏会・浴佛節)での般若心経

 ⇒佛誕灌仏会全体の様子はこちら
 

世界各地での般若心経読経法は先日ブログ記事にしたとおりですが、この台湾での般若心経は、原文が日本と同じですから耳に馴染みます。

台湾の人口は約2300万、そのうち約1000万人が仏教信者と言われています。
仏教信者の数は、20年で倍増しました。
その要因としては
「中国の台頭などで先行き不安感も出ており、心の安寧を仏教に求めている」
「社会構造の変化や高齢化」
などがあるといいます。

法要の行い方、信徒がどのように参列されているのか、情報発信の仕方・・・・大いに学ぶところがありますね。




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台湾仏教を担う尼僧たち
世界を巡る般若心経
第11回ゆめ観音アジアフェスティバル報告(2)
ゆめ観音2007報告(2)
ブッダもキリストも誕生日は分からない

投稿者: kameno 日時: 9:12 PM | | コメント (0)

梅に疲労軽減効果

梅に疲労軽減効果 県が共同研究で実証

和歌山県は26日、産学官の共同研究で、梅果実成分の肉体疲労軽減効果を実証したと発表した。梅由来のクエン酸と梅酢ポリフェノールの併用摂取で効果が高まることも分かった。県は「梅の効能を裏付けることで、売り上げ増につなげたい」と話している。
共同研究は文部科学省の補助事業。県工業技術センター(和歌山市)とサッポロ飲料(本社・東京)、近畿大学生物理工学部(紀の川市)で行っている。
実験は梅干し製造時に生成する梅酢から取り出したポリフェノール、クエン酸、その両方を含む飼料の3種を3週連続でマウスに与え、それぞれ遊泳時間の変化を調べた。
どの飼料でも1、2、3週すべての時点で、遊泳時間が通常のマウスを上回った。中でもポリフェノールとクエン酸併用摂取の効果が最も大きく、2週目で通常の1・2倍を超えた。
梅は古くから健康食品とされており、サッポロ飲料が2007年に行ったイメージ調査でも7割が「梅は健康に良い」と回答した。しかし、効能を数値化した例は少なく、今回の実証は意義が大きいという。
中でもこれまで廃棄対象だった梅酢は、安全性の高い新素材として活用が広がる可能性が高まった。県産業技術政策課は「新しい加工品への活用はもちろん、既存の梅干しや梅酒にも健康情報を付与することで、梅産業全体の活性化になる」と期待している。
サッポロ飲料は「30年以上、和歌山産梅果汁の飲料を販売している。直ちに新商品を投入できるわけではないが、共同研究を継続し、梅成分と疲労軽減のメカニズムを解明したい」と話している。
(紀伊民報 4月27日)




寺院の境内には梅がよく植えられています。
単に花を愛でるというだけではなく、その実が実用的であるという理由もあるでしょう。

遠くからお越しいただいたお客様をおもてなしするために「梅湯」をお出しします。
梅湯とは、蜜湯に、割り箸に挟んだ梅干を添えたものです。
 

単に飲み心地が良いというだけではなく、疲労を癒す効果があるということが実証されたようです。
永年培われた智慧でもありますね。



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写真は貞昌院の梅干。

投稿者: kameno 日時: 8:08 AM | | コメント (2)

元素周期表

昨日GlyphWikiについてブログ記事を書きましたので、漢字の元素周期表を作成してみました。
マウスを文字に合わせると元素記号と名前が表示される仕組みにしています。

  1A 2A 3A 4A 5A 6A 7A 8 1B 2B 3B 4B 5B 6B 7B 0
  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18
1 H 水素   He ヘリウム
2 Li リチウム Be ベリリウム   B ホウ素 C 炭素 N 窒素 O 酸素 F フッ素 Ne ネオン
3 Na ナトリウム Mg マグネシウム   Al アルミニウム Si ケイ素 P リン S 硫黄 Cl 塩素 Ar アルゴン
4 K カリウム Ca カルシウム Sc スカンジウム Ti チタン V バナジウム Cr クロム Mn マンガン Fe 鉄 Co コバルト Ni ニッケル Cu 銅 Zn 亜鉛 Ga ガリウム Ge ゲルマニウム As ヒ素 Se セレン Br 臭素 Kr クリプトン
5 Rb ルビジウム Sr ストロンチウム Y イットリウム Zr ジルコニウム Nb ニオブ Mo モリブデン Tc テクネチウム Ru ルテニウム Rh ロジウム Pd パラジウム Ag 銀 Cd カドミウム In インジウム Sn スズ Sb アンチモン Te テルル I ヨウ素 Xe キセノン
6 Cs セシウム Ba バリウム L
Hf ハフニウム Ta タンタル W タングステン Re レニウム Os オスミウム Ir イリジウム Pt 白金 Au 金 Hg 水銀 Tl タリウム Pb 鉛 Bi ビスマス Po ポロニウム At アスタチン Rn ラドン
7 Fr フランシウム Ra ラジウム A
Rf ラザホージウム Db ドブニウム Sg シーボーギウム Bh ボーリウム Hs ハッシウム Mt マイトネリウム Ds ダームスタチウム Rg レントゲニウム Cn コペルニシウム Uut
Uuq
Uup
Uuh
Uus
Uuo
   
  L La ランタン Ce セリウム Pr プラセオジム Nd ネオジム Pm プロメチウム Sm サマリウム Eu ユウロピウム Gd ガドリニウム Tb テルビウム Dy ジスプロシウム Ho ホルミウム Er エルビウム Tm ツリウム Yb イッテルビウム Lu ルテチウム  
  A Ac アクチニウム Th トリウム Pa プロトアクチニウム U ウラン Np ネプツニウム Pu プルトニウム Am アメリシウム Cm キュリウム Bk バークリウム Cf カリホルニウム Es アインスタイニウム Fm フェルミウム Md メンデレビウム No ノーベリウム Lr ローレンシウム  

 

金属には「金偏」、非金属には「石偏」
常温で気体の元素には「气」、 常温で液体となる元素には「水偏(さんずい)」や「水」がついています。
周期表を漢字で眺めてみると新たな発見もあります。
漢字は素晴らしいとつくづく感じます。



※原子番号 105番 ドブニウム ? 108番 ハッシウム は、昨日のブログ記事で紹介した拡張文字コードを使用しないと表示されません。
※漢字の画像元はGlyphWik より引用しています。
※個人的感想ですが、原子番号 112番 Cn コペルニシウムは、漢字の要素に「水」を入れておくべきだったんじゃないかなぁ・・・

投稿者: kameno 日時: 10:44 PM | | コメント (2)

リコールを起こさないソフトウェアのつくり方

この春、『リコールを起こさないソフトウェアのつくり方』が技術評論社より出版されました。
出版元の技術評論者様より献本いただきました。


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リコールを起こさないソフトウェアのつくり方 (組込みプレスSelection) (単行本(ソフトカバー))
酒井 由夫 (著)

出版社: 技術評論社 (2010/3/19)
ISBN-13: 978-4774142166

 




内容紹介
さまざまな電子機器がソフトウェアで制御されるようになった昨今、トヨタのハイブリッド車プリウスのブレーキ問題をはじめソフトウェアが絡んだリコールが年々増加しています。ソフトウェアは見えないだけに、何がどのようにして問題を起こしているのか簡単には解明できません。
本書では大規模、複雑化したソフトウェアにどのようにして問題が入り込むのかを実例をもとに解き明かし、日本のソフトウェアプロジェクトにフィットしたマネージメント技術および、ソフトウェアの品質と開発効率向上の両立を実現するためのソフトウェアの資産化の技術を解説します。また、付録で「MISRA SA;MISRAソフトウェア安全解析ガイドライン」の概要を紹介しています。


リコールを起こさないソフトウェアのつくり方

目次
Part1 ソフトウェアの危うさの本質を体感してみよう
Chapter 1 ソフトウェアの危うさを知ろう
Chapter 2 危ないソフトウェアのプログラム例とケーススタディ
Chapter 3 ソフトウェアはなぜ危ないのか
Chapter 4 ソフトウェアの品質を高く保持するために
coffee break アメリカ人と日本人
Part2 日本的ソフトウェアプロジェクトの管理はここから
Chapter 5 ソフトウェア開発の理想と現実
Chapter 6 日本のソフトウェアプロジェクトに求められる取り組み
Chapter 7 ソフトウェア構成管理
Chapter 8 ソフトウェア変更管理
Chapter 9 レビュー
coffee break 問題解決能力:自ら考え行動する力
Part3 ソフトウェア資産化の技術がリコール防止につながる
Chapter 10 ソフトウェア開発のプラットフォーム
Chapter 11 ソフトウェアシステムとソフトウェア搭載機器の価値
coffee break 3 ものづくり戦略とソフトウェア品質:品質=Qualityの話
Chapter 12 再利用資産を抽出するためのアプローチ
Chapter 13 再利用資産を抽出する手順
coffee break 4 UML導入のススメ
Chapter 14 再利用資産の抽出のケーススタディ
Chapter 15 再利用資産の抽出後のアプローチ
coffee break 5 テストカバレッジ
Chapter 16 安全性が求められるシステムに対するアプローチ
Chapter 17 安全アーキテクチャの検討
Chapter 18 ソフトウェアを資産化して品質と開発効率を高める




この本の中のChapter 17 「安全アーキテクチャの検討」で、当ブログの一部が引用されています。
どこで繋がりがあるかわかりませんね。

ところで、この本はトヨタ・プリウスのリコール問題をはじめ、最近話題となっているテーマについて技術的に掘り下げ纏め上げられている本です。
ソフトウエア開発にかかわる技術者のみならず、さまざまな分野で応用できる本だと感じます。
本屋さんにも並んでおりますので、是非お手にとって読んでみてください。

 
コーヒーブレイクとして「アメリカ人と日本人」
・・・日本の製品が欧米の製品より高品質なワケ・・・・・・

このような本の合間合間にあるコラムもとても面白いですよ。

投稿者: kameno 日時: 12:38 PM | | コメント (0)

ライブカメラの気まぐれ画像2

貞昌院のライブカメラに使用しているMaxellのWS30が時々きまぐれな作風の画像を作り出しています。
しばらく調子が良かったのですが、ここ数日、また「きまぐれ」を起こすようになりました。


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色数を大胆に落とし、色が変わる部分に墨線が入る技法を用いた画法をリーニュ・クレール様式という。 現代的な浮世絵とも解釈され、日本ではEIJIN、わたせせいぞうが有名である。

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点の集合や非常に短いタッチで表現する画法を点描法という。 印象派による鮮やかな色の配列の視覚混合をフランスの画家、ジュルジュ・スーラがさらに追求し、点描主義(新印象派)を確立、ポール・シニャックやカミーユ・ピサロらを生み出した。 水墨画では、米芾や米友仁による、水墨の点を集合させて表現する米法山水が有名である。

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緑と黄色から成る方形の「コンポジション」といえる。 この画風は抽象表現の実験が続く中でモンドリアンによって生み出された。水平と垂直の直線のみによって分割された青・赤・黄の原色を用いたモンドリアンの作品群が知られる。

■関連ブログ記事

ライブカメラの気まぐれ絵画

投稿者: kameno 日時: 2:30 PM | | コメント (2)

トイレの神様仏様

今月10日に発売された『トイレの神様』がちょっとした反響を呼んでいます。
植村花菜さんの、小学生の頃おばあちゃんと暮らしていた実体験を元に実体験を元に書き下ろられた曲です。

おばあちゃんからプレゼントされた

トイレには それはそれはキレイな 女神様がいるんやで

という言葉が印象的です。


きっと、2010年を代表する曲の1つになるのではないでしょうか。


余談 

お寺にも烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)という『トイレの神様』がいらっしゃいます。
インドの火の神アグニが元であるとされ、大威力烏枢瑟摩明王経などにも説かれています。

禅寺では、トイレのことを東司(とうす)といいます。
その東司を守護しているのが烏枢沙摩明王なのです。


曹洞宗の開祖、道元禅師の著された『正法眼蔵』にも東司で用を足す際の心得、作法が詳細に記されています。

両辺を汚すことなかれ 前後にそましむることなかれ 『正法眼蔵』「洗浄」

東司も修行道場・七堂伽藍の1つであり、ここを大切に使用し、清浄に保つことも修行であるのです。
次のような川柳を掲げているお寺様もありました。

急ぐとも 外にこぼすな 玉の露 吉野の花も散れば見苦し

急ぐとも、心静かに手を添えて、外に漏らすな松茸の露 (詠み人知らず)

修行道場を訪ねた際には、是非『トイレの神様』を探してみてください。



■関連リンク
植村花菜Official Blog
つらつら日暮しWiki「洗浄」項

投稿者: kameno 日時: 12:23 AM | | コメント (0)

チョコレート色の電車

yamanote.gif
昨年、山手線にチョコレート色の電車が走っていました。
これは品川駅でその電車に出会った際にケイタイで撮影したもの。
明治製菓と山手線100周年のコラボレーションだったようです。

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山手線は「まあるい緑の山手線♪」というように、緑色というイメージが強いのですが、1909年から始まる歴史を Wikipedia などで調べてみると緑色の時代というのは意外と短いことがわかります。


山手線の色の変遷を右の図にまとめてみました。
歴史の半分以上がチョコレート色(正確には葡萄色)ですね。

このように昭和30年代まではチョコレート色が残っていたようです。
恐らくは東京オリンピック開催も決定し準次新型の電車に置き換えられていったのでしょう。

流石に昭和30年代のチョコレート色の山手線は見たことがありませんでしたが、私が小学生の頃は横浜線や南武線、鶴見線などにもまだまだ残されおりました。


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冷房など無く、天井の扇風機が車内の空気をかき回していたり、走っているときのモーターの音が「ガガガガガッガガ?」と五月蝿いうなり声を上げたりして、その人間くささが好きで、電車待ちをしていてチョコレート色の電車が来ると内心とても嬉しかった記憶があります。

ということで、久し振りにチョコレート色の電車に出会って昔の思い出が蘇りました。

今の電車は性能はよいのでしょうけれど、乗ってワクワクするようなものってあまり無いような気がします。

投稿者: kameno 日時: 12:09 AM | | コメント (4)

涅槃図を読み解く

涅槃会では、お釈迦様の入滅の様子を描いた「涅槃図」を掲げたりします。
このように、宗教的な物語のある絵画を「説話画」といい、その「説話的絵画」に描かれている内容を解き語ることを「絵解き」といいます。

2月15日の涅槃会に向けて、涅槃図を眼にする機会があると思います。
涅槃図は基本的な決まりごとがあり、その基本から派生した様々なバリエーションがあります。
いくつかの基本を押さえた上でご覧いただくとさまざまなことが見えてくると思います。

20100211-01.jpg

涅槃図は、お釈迦様が誕生されてから入滅されるまでの、いわゆる「八相」のうちの涅槃(入滅)を主題としています。

ブッダガヤの菩提樹の下、悟りを開かれ(成道)後45年間に亘る各地での説法を終え、いよいよ死期を迎えたお釈迦が沙羅双樹の下に牀座を設け、静かに臨終の時を迎る情景です。
■入滅されたのは旧暦2月15日とされますから、上空には満月が描かれます。
■空には忉利天から降下した釈尊の生母、摩耶夫人がお釈迦様をお迎えに表れます。
■牀座の周囲には八本の沙羅の木。これは八正道を表すとされています。
■沙羅の木は時期はずれの花を咲かせ入滅を悲しみます。項垂れている花が鶴ににていることから鶴林という語が生まれました。
■沙羅の木には釈尊の使用した鉢とも、水を入れた革袋とも言われる袋が掛けられています。
■沙羅双樹の向こう側にはクシナガラの熙連河が描かれます。
■釈尊の入滅を悲しむ弟子、菩薩、羅漢たち。釈迦の足に須跋陀羅(註)尊者が手を掛けます。気絶して倒れているのは阿難尊者。一比丘が水を注ぎます。
■動物たちや虫たちも集まり悲しみに暮れます。描かれる動物たちは時代により変化していきますが52種類(五十二衆)というのが基本となります。


20100211-03.jpg


描かれている動物たちの中で「猫」が描かれていないということがよく話題に上ります。
大抵の涅槃図には猫が居ません。
理由は諸説ありますが、室町時代以前は猫は魔物扱いされ、涅槃図に描かれる五十二衆の中に含まれることがありませんでした。

20100211-02.jpg


ただ、こういうものには必ず例外があるもので、室町時代初期の禅僧・吉山明兆の描く涅槃図には大抵猫が描かれています。涅槃図を仕上げている時に一匹の猫が近寄ってきて、涅槃図に猫が描かれないことを哀れんで、自らの筆による涅槃図には猫を描いたということです。


また、昨年の市仏連涅槃会の会場となった戸塚区R寺様の涅槃図にも猫が描かれています。
こちらは菱川師宣によるものだそうです。
戸塚区R寺様のブログ「さんぜ通信」にリンク


涅槃図を見るにつけ、謎解ときを交えながら、その描かれた背景に思いを馳せることにより仏教への親しみも深まっていくのではないでしょうか。

いくつか謎を箇条書きにしてみます。
是非調べてみてください。


★お釈迦様は北枕であったのか。そうであれば何故か。
★沙羅双樹の沙羅の花ってどんな花か
★十大弟子(舎利弗、摩訶目犍連、摩訶迦葉、須菩提、富楼那弥多羅尼子、摩訶迦旃延、阿那律、優波離、羅睺羅、阿難 諸尊者)は何処にいらっしゃるか
★涅槃図には阿那律尊者が二重に描かれている。何故か。
★お釈迦様が入滅される原因となった、純陀がお釈迦様に供養した食べ物は何か。
★牀座に泣き伏しているのは誰か。
★気絶した阿難尊者を介抱しようとしているのは誰か。
★お釈迦様の足が汚れている理由は何か。
★老女と須跋陀羅尊者が似ているのは何故か(上記註)。
★菩薩、羅漢たちの種類は?
★動物たちがお釈迦様の元に到着した順番は?
★動物・虫の種類は時代により経典によりどのような違いがあるか。


などなど。
一つの絵から派生する興味は尽きないですね。

 



 

お釈迦様が入滅されて2500年。
肉体は滅びても、その教えは世界各地で受継がれて生かされています。
今日の定例坐禅会にも多くの参加をいただきました。

20100211-06.jpg

この時間、大分明るくなってきました。
日の出の時刻が段々早まっていることが実感できます。



■関連ブログリンク

みんな読んでるか?い? (つらつら日暮らし) 
涅槃図 (tera日記) ※こちらにも涅槃図に猫が描かれています

投稿者: kameno 日時: 7:16 AM | | コメント (4) | トラックバック (1)

永谷に伝わる高札の考察

今月末より貞昌院本堂室中に江戸時代この永谷の地に立てられた高札を展示しています。
この高札は、元々は下野庭にある旧家の物置にあったものですが、維持していくことが難しくなったため、貞昌院で保管展示を引き受けることになったものです。
古いものであるため、虫食いの穴が随所に見られます。

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このような貴重な文化財は、家主が代替わりする度に散逸の危機にさらされます。
地域が一体となって文化財を保存を行なう取組みをしていかないと後で取り返しがつかないことになってしまうでしょう。
地域に伝わる文化財の大切さを啓発し次世代へ受継ぐために多くの方にご覧頂きたいと思います。

高札に書いてある内容は以下のとおりです。


大津御預役所高札

近頃浪人ども水戸殿浪人 或は、新徴組などと唱え ところどころ身元よろしきものども 攘夷の儀を口実に無心もうしかけ、その余り公事出入り等に携わり かれこれ申しおどし、金子、差し出させ候たぐい これあり候ところ、おいおい増長におよびみだりに勅命などと申し触れ、在々農民を覚類に引入れ候たぐいもこれあるやにあい聞え 今般御上洛、仰せいださる折がら捨ておきがたくこれにより以来、御料、私領、村々申し合せおき、帯刀致しおり候とも浪人体にて怪しく見受け侯分は容赦無く召し捕りて、手向いいたし侯わば切り殺し 候とも打ち殺し候ともいたすべく旨 仰せいだされ候あいだ、悪事に携わざる者どもはそうそう旧主へ帰参の儀、あい願い神妙に奉行いたすべし、もし悪事に携わり或は子細これあり旧主へたち戻り難き分は、ありていに、訴いいずべく候とも始末に応じ罪を免し又は難儀相成らざる様、取りはからいつかわすべく候 
万石以上、以下ども用向きこれある家来、旅行至させ候らわばその度々きっと道中奉行へあい達し先ぶれ差し出すべく、領分知行よりまかり出で候もの共も先ぶれ差し出しいずれもこの程、相触れ候とおり調印の書付をもって関所にて、相通すべく、万一先ぶれ差し出されず、旅行いたし或は旧主へ帰参もいたさず召し捕らわれ候せつに至り手向いいたし、切り殺され侯らわば、其の身の不念に候あいだ、其の旨存ずべく候

右の通り
公儀より仰せいだされ侯あいだ村々取締らず、これ無き様堅くあい守るべく者也

亥   大津
十二月  御預役所



この高札は、江戸時代独特の文体で書かれています。
内容は十四代将軍徳川家茂が将軍として229年振りに行った御上洛のため、街道筋の治安を強化するために出されたものと考えられます。
人々は旅行することを控え、村から勝手に移動してはいけない。
浪人の取締りを厳しくすること、もしも悪事などを行なって村に戻れない場合には役所に届ければ便宜を図る、などが書かれています。
三代将軍徳川家光以来十三代までの長い間、将軍が京都へ行くことはありませんでした。
当時の上洛とは将軍とともに重要書類全てを運び込み、幕府そのものが移動する程大変なことだったようです。
高札が建てられたのは1863(文久3・癸亥)年、御上洛が行なわれたのは1864(文久4)年ですから、御上洛の一年前から鎌倉の片田舎、現在の上永谷周辺にまで高札が立っていたということは、いかに御上洛の警戒が厳しかったかが良くわかります。


(参考文献『お母さんが伝えるふるさと下野庭』 昭和63年発行・しものば郷土史編集委員会編)

投稿者: kameno 日時: 11:27 PM | | コメント (0)

ミウラ折りから宇宙を観る

昨晩何気なくテレビを見ていたら、NHKの番組『爆笑問題のニッポンの教養』で三浦公亮先生が出演されていました。


三浦先生の考案したミウラ折りはさまざまな分野で応用されています。
例えば大きな紙に印刷されている地図は、どのように折りたたむかによって使い勝手が大きく変わってきます。
これを一瞬のうちにたたみ、使うときに開くことができる便利な折り方、それがミウラ折りです。


一瞬で開くことができ、畳むときも一瞬。そして、折り目を南北に合わせることもできますし、折り目が破れにくく構造上も安定しているので開いたときに読みやすい。

お守りの中に納められた経典のようなものにも応用できます。

20100127-03.jpg

チューハイの缶にもこの折り方が見られます。

20100127-02.jpg
キリンのサイトより引用


この缶は単に持ちやすさのために折り目がつけられているのではなく、アルミ缶のもつ「ふにゃふにゃ感」を、構造的に補うという役目も果たしています。
缶を開ける前には炭酸の圧力で折り目が出ていませんが、缶を開けると圧力が抜けてミウラ折りの形に変化します。

地図の折り方や、チューハイの缶のほかに太陽系探査衛星「はるか」のアンテナ、スペースシャトルのソーラパネル、宇宙船の構造物(PCCPシェル)としても応用されています。
宇宙に運ぶロケットの中では小さく折りたたまれていて、宇宙空間でそれを広げるというわけです。


具体的な折り方は、太陽系探査衛星「はるか」のVSOP計画に携わっていた私の弟(亀野誠二)のサイトに詳しく紹介されています。
地図をミウラ折りにしてみよう

是非紙を広げて試してみてください。


ミウラ折りに表れるパターンは、基本的に4つの平行四辺形が繰り返される「二重波形可展面」となります。
三浦先生は、円筒形の紙の筒の端を机にぐしゃりと押しつぶしたときに表れるパターンから研究を深め、ミウラ折りの原理に辿りつきました。


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(c)NHK


潰れて、一見ぐしゃぐしゃになった状態から、構造的に安定するパターンを導きだしているところが素晴らしいですね。
誰でも日常的に見る何気ない現象の中から着想しそれを発展させるという発想力の賜物といえます。
しかし、当初はその有意性について気づくものはほとんどいなかったそうです。


20年以上の時を経て缶のデザインに応用され世に出されるきっかけとなったのも、開発していた東洋製罐の技術者が研究室に置かれていたミウラ折りの紙の筒をみたことによるものです。
試行錯誤を経て「ダイヤカット缶」として製品として世に出されることとなりました。
それにしても、日本の技術力は凄いものです。
一度作った折り目を再び折り返す伝統的な「折り紙」の手法を円筒形の缶に応用し、量産化することを実現したのですから。


チューハイの缶には、隠されたいくつかの数学的なトリビアもあります。

・缶につけられた菱形のパターンは一周いくつになっているか。それは何故か。
・缶を開けたときに折り目に沿って折りたたまれるが、印刷された模様が歪まないようになっている。どのような工夫がなされているか。
・缶を開けたときに折りたたまれるので、容積が小さくなるはずであるが、どの程度小さくなるか。


考えながらチューハイを飲むと、良い酒のつまみになるかもしれません。

 

それにしても、大自然の中では既に何億年も前からミウラ折りの原理が使われています。
木々の新芽の中に折りたたまれた若葉、昆虫の羽根・・・・・
このような智慧の一部に、私たちがようやく気づきはじめたというところでなのしょう。


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(左)セミの羽化。貞昌院境内で撮影。羽がだいぶ伸びてきました
(右)太陽系探査衛星「はるか」。宇宙空間でアンテナを伸ばします

投稿者: kameno 日時: 12:09 PM | | コメント (2)

サロス周期と今月の天文現象

今月(2010年1月)は様々な天体現象が目白押しです。
主なものは

1月1日 部分月食
1月15日 金環日食(西日本では日没帯食)
1月25日 プレヤデス星団(すばる)食
1月30日 今月2度目の満月(大きな満月)


ここでピックアップした現象は、地球、月の軌道がもつ特徴に起因した特別な現象です。
そこに隠されている秘密について考えてみましょう。


月は地球の周りを、地球は太陽の周りを回っています。
太陽?月?地球 となるときに新月
太陽?地球?月 となるときに満月

となるということを単純に考えると、新月のたびに日食、満月のたびに月食となりそうなものですが、実際にはそうなりません。
折角ですから、なぜそうならないかということの説明をワードで図として作ってみました。

 
20100119-01.jpg
 


月が地球の周りを回る軌道は、地球が太陽を回る軌道よりも約5度傾いています。
また、地球からの太陽・月の見かけの大きさは、約0.5度(10円玉を腕いっぱいに伸ばして眺めた程度)です。
日食、月食はそれぞれ3つの天体がほぼ一直線(例えば日食は見かけ上約0.5度の範囲内)に並ばないと起きませんから、新月ごとに日食にならず、満月ごとに月食にならないということになります。


地球から見た見かけの太陽の軌道を「黄道」
地球から見た見かけの月の軌道を「白道」
といい、これも当然約5度の軌道面の傾きがあり、それが交わる点を「昇交点」といいます。

日食、月食は「昇交点」付近で起こることになります。

上図でいえば「昇交点」は地球が公転軌道上「A」の位置関係に来たときですね。
このときに月が満月であれば月食が起こりますし、新月であれば日食が起こります。

すなわち、地球の公転と月の公転に関する数字の最小公倍数が、日食、月食周期に関係してきそうだということがわかります。

地球から見た太陽が昇交点から昇交点にもどる周期は 346.6201日 (これを1食年といいます)
新月から新月(あるいは満月から満月)までの周期は 29.530589日 (これを1朔望月といいます)

ですから、この2つの最小公倍数は、ほぼ食年の19倍、朔望月の223倍となります。

19 食年 = 6585.782日
223 朔望月 = 6585.3212日

6585.3212日 = 6585日+0.3212日 =  18年11日7時間42分32秒 (うるう年の関係で18年10日7時間?の場合あり)

この周期で日食、月食が起こることになります。
これをサロス周期といい、アッシリア時代には既に知られていた周期であります。


ここでポイントはサロス周期の約8時間(1/3日)のずれです。
地球上のある地点で日食(月食)が見られたとして、その18年11日後には約+8時間のずれのため地球の経度で約120度ずれたポイントに日食(月食)帯があらわれます。
3サロス周期経つと、同じ地点にもどってきますので、昨年の南西諸島一帯で見られた日食は1サロス周期後には経度120度ほど離れた場所で同様の日食が見られますし、3サロス周期後には2009年と同じ地点で同様の日食が起こることになります。


実際にはサロス周期は1つだけでなく、地球全体で日食・月食ともにおよそ40もの系が同時進行しています。
逆に考えれば、 1サロス周期の間に地球上のどこかで日食・月食が概ね40回程度起こるということです。
その確率として、1サロス周期あたり
日食:皆既日食は11?14回、金環日食11?15回、金環皆既食0?3回、部分日食11?17回
月食:皆既月食が13?17回、部分月食が9?15回、半影月食が13?17回

となります。



さて、今月のこれからの天文現象に話を戻します。
まずは1月25日の すばる(プレヤデス星団)食。

「風の中のす?ばる?」

冬の夜空でひときわ目立つおうし座の散開星団、すばる(プレアデス星団=M45)を月が隠します。
このように月が背後の星を隠す現象を恒星食といいますが、すばる食に関しては、数年前から度々起こっていました。
サロス周期の関係で、18?19年程の周期で起こりやすい時期が巡ってきます。

1月25日はその周期の最後のすばる食です。
今回を最後に、2024年まですばる食は見られません。
双眼鏡程度で充分楽しめますので晴れていれば冬の夜空を見上げてみることをお勧めします。

Stella teaterですばる食を観測地点横浜としてシミュレーションしてみました。


 


もう一つ、1月30日 今月2度目の満月です。
月は楕円軌道で回っていますので見かけ上の月の大きさは変わります。
1月30日は一年の中で再も地球に接近します。
また、地軸が傾いていることにより、冬の太陽は低く、その反対側にある満月は高い位置に来ます。
さらに冬晴れの天気となれば、夜空にひときわ大きく、明るく、高く輝く満月が望めること間違いありません。
特別な満月となります。

蛇足
逆に、低い満月(正確には満月ではない)を愛でるのが中秋の名月です。


■おすすめの本

『天体観測の教科書 星食・月食・日食観測編』―天文アマチュアのための (単行本)
広瀬 敏夫 (編集), 相馬 充
価格: ¥ 2,310

『Total Solar Eclipses and How to Observe Them』 (Astronomers' Observing Guides)
Martin Mobberley (著)
価格: ¥ 2,882

投稿者: kameno 日時: 9:08 AM | | コメント (0)

神奈川から日食は見られるか

今年は元日早々から月食を見ることができました
その次の新月の日、1月15日には今度は日食を見ることができます。

しかも、この日食は今世紀最大の継続時間をもつ金環食となります。
金環食を見ることができる範囲は中央アフリカからモルジブ、ミャンマー、中国の青島を通る地帯です。
日食の継続時間は実に最長11分8秒となります。

20100112-01.jpg
(インド洋におけるシミュレーション:Stella teaterにより作成)

nasaのサイトに詳細が掲載されています

日食帯の西端である青島では、金環日食が終了した状態で日が沈んでいきます。

残念ながら日本では西日本で部分日食をみることができるだけとなりますが、それでも一ヶ月の間に月食と日食が見られることになります。


さて、ここで次なる興味は、日本で何処までの範囲で部分日食を眺めることができるかということです。

日本付近の日食図をもう少し詳細に計算してみると・・・・・

20100112-03.jpg
(上図はパソコン上で行なった計算ですので多少の誤差はご了承ください)


関東地方西部が限界のようですね。
条件がそろえば、もしかしたら見ることができるかもしれません。
神奈川県での日食欠けはじめの時刻は16時48分ですから、この時刻に太陽を見ることができれば、部分日食を見ることができるということになります。

とりあえず、見ることができた場合の状況をシミュレーションにて

20100112-04.jpg



追記

昨年も東南アジア地域で1月に金環日食がありました
しかも、旧暦の元日に日食となる特別な日食でした。
(今年の日食は旧暦では12月1日です)


追記2

再来年(2012年)には関東地方でも金環日食が見られます。
その時を楽しみにしていましょう。

投稿者: kameno 日時: 9:10 AM | | コメント (2)

名勝史蹟四十五佳選

『市史通信』第6号(2009/11/30 横浜市史資料室発行)に興味深い記事が出ていました。
「1935年神奈川県名勝・史蹟投票」です。

全文はこちらで見ることが出来ますので併せてご覧ください。

名勝史蹟四十五佳選 (1935年選出)
名勝・史跡 場所 票数
1 石小屋 愛甲郡半原 284,726
2 妙香寺 横浜市北方町 275,770
3 峰の灸 横浜市峰町円海山 239,345
4 玉泉寺 横浜市中村町 218,220
5 八菅神社 愛甲郡中津町 168,880
6 早川城趾 高座郡綾瀬村 166,204
7 石老山 津久井郡内郷村 163,165
8 浅間神社 横浜市浅間町 146,967
9 八景ノ棚 高座郡麻溝村 146,393
10 宮ヶ瀬渓谷 愛甲郡宮ヶ瀬 131,222
11 道了尊御本地 中郡成瀬村 123,417
12 ペルリ上陸記念碑 三浦郡久里浜 121,684
13 丹沢の大滝 津久井郡鳥屋村 116,718
14 金砂山子育観音 藤沢町 111,775
15 北向庚申神社 高座郡座間村 109,722
16 鬼子母神常照寺 横浜市南太田町 105,437
17 重国城趾天満宮 高座郡渋谷村 95,169
18 城山城趾 津久井郡内郷村 92,829
19 鮎の水郷田名 高座郡田名村 83,413
20 花水河口 平塚市 80,350
21 志田山朝日寺 津久井郡串川村 71,895
22 青柳寺 高座郡大野村 69,718
23 称名寺百観音 久良岐郡金沢町 64,114
24 三眼六足稲荷 高座郡東厚木 62,145
25 与瀬神社 津久井郡与瀬町 60,616
26 綱島温泉桃雲台 横浜市綱島町 59,374
27 永谷天満宮 鎌倉郡永野村 50,729
28 大ダルミ 津久井郡千木良村 50,311
29 若雷神社 都筑郡新田村 46,799
30 三浦畠山地蔵尊 三浦郡葉山町 46,593
31 畠山重忠霊堂 都筑郡都岡村 44,142
32 波切不動の滝 都筑郡新治村 42,373
33 吾妻神社 中郡二宮町 41,461
34 宝泉寺 高座郡小出村 39,646
35 柏山稲荷 藤沢町大庭 39,607
36 金蔵院安産子育観音 横浜市磯子 39,270
37 広沢寺温泉 愛甲郡玉川村 38,481
38 金目観音 中郡金目村 38,196
39 円満寺白衣観音 横浜市久保町 38,100
40 座間神社 高座郡座間村 37,816
41 白滝不動尊 横浜市中区根岸町 37,666
42 龍源院弁財天 高座郡座間村 36,578
43 旧城寺 都筑郡新治村 36,252
44 日限地蔵尊 鎌倉郡永野村 35,638
45 滝出現見合不動尊 高座郡御所見村 34,837

1935(昭和10)年に横浜貿易新報社(現在の神奈川新聞社の前身)創立45周年記念事業として行なわれた、神奈川県内の45か所の「名勝・史蹟」を読者投票で選定する『名勝史蹟四十五佳選』のいきさつが詳細に書かれています。

選定のコンセプトは「新しくして古き歴史とともに拓かれて来た近代県神奈川」は「『武相の天地』が描く『風光の神奈川』」であるが、その存在は「宝の持ち腐れ」であり、名勝史蹟による土地の発展は著しいものがあるのに、「有名地も声なくしては忘れられてゆく」のであり、そこで「欲求するものは『世に出す機会』である」というものです。
地元では有名だけれども、外部にはあまり知られていない名勝・史跡を新しく発掘し、選定しようという意気込みが感じられます。

この投票は、選定された45か所の名勝・史跡に記念標の建立、10位までに扁額の進呈、紙面上での紹介や絵葉書・写真帳を作製して紹介宣伝することが謳われており、新聞紙上でも報道が繰り返されたこともあって相当盛り上がったようです。

総投票数は実に450?500万票にもなったそうです。凄まじい数ですね。

結果は左表の通り。


当時の「隠れた」人気スポットが良くわかります。
なお、「新しく発掘」という観点から、既に有名な場所の得票が少ないという点も特徴です。
確かに金沢八景・城ヶ島・江ノ島・杉田・箱根・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・寒川神社・建長寺・円覚寺・平間寺・總持寺などは入っていないですね。
ちなみに見事1位となった石小屋とは、中津川渓谷のことです。


着目すべきは現在の港南区エリアから3箇所が選定されているということ。

3位 峰の灸(横浜市峰町円海山・239,345票)
27位 永谷天満宮(鎌倉郡永野村・50,729票)
44位 日限地蔵尊(鎌倉郡永野村・35,638票)

凄いですね?


3位の峰の灸っていうのは、円海山にある護念寺です。
古典落語『強情灸』にも登場するほど、江戸時代から「お灸」が有名で、字名を取って「峰の灸」と呼ばれていました。
当時の地図を見ると、かねさわ道(現在の笹下釜利谷道路)田中付近から峰の灸へ尾根道を辿る参道が見られます。
現在は洋光台、港南台の大規模開発、横浜横須賀道路の工事などによって、この参道はほとんど原形をとどめておりません。
20091217-01.jpg
※参道を赤で着色しました。赤丸で囲った卍が護念寺です。
(1/20000地形図「戸塚」・大正10年測図)


 

27位 永谷天満宮は、まさに貞昌院が別当として護っていた貞昌院に隣接する神社で、当時から地元に限らず各方面からの参拝者を集めていたことを伺わせます。
往時の天神山は桜山で、伊勢佐木町あたりの芸者たちがこぞって花見に訪れたそうです。


44位 日限地蔵尊も相当有名だったようで、永野小学校付近から永谷天満宮の脇を通り、上永谷5丁目を抜けて日限山に続く参道は、4の付く縁日の日には参道を人が埋め尽くしていたそうです。沿道には茶店も並び、賑わっていました。
現在は車がやっとすれ違えることができる程の細い道です。
20091217-02.jpg
※参道を赤で着色してみました
(1/20000地形図「戸塚」・明治36年測図)

これらの場所が神奈川の『名勝史蹟四十五佳選』に選ばれたという歴史的経緯は誇るべきことでありましょう。

追記
歴史を紐解いていくことは面白いですね。
今日のNHK『ブラタモリ』は横浜をブラタモリ。象の鼻中華街からのスタートでした!


■関連ブログ記事
高浜虚子一行の永谷村探勝
日限地蔵尊

投稿者: kameno 日時: 8:59 PM | | コメント (2)

12/19こうなんの歴史講座

民企画運営講座 第6回 こうなんの歴史が貞昌院で開催されます。

日時:2009年12月19日(土) 10時00分 ? 12時00分

会場:貞昌院 客殿 

○ テ?マ: 港南区・明治創立の学舎のあゆみ

○ ナビゲータ : ワタクシが勤めさせていただきます。
          (亀野哲也・ 貞昌院副住職)

○内容

?.港南区・明治創立の学舎のあゆみ


港南区には、明治時代に日野、永野、日下、桜岡 の 4小学校が開校しました。
その後、5番目の小学校開校は、実に昭和36年の南台小学校であります。
その時期から急速な人口増加と共に増え続け、平成20年には21校を数えました。
(現在は逆に1校減少し、21校となっています)

また、日野、永野、日下、桜岡 の 4小学校開校以前には、地域の学舎の歴史もあります。
地域における学校の歴史を明治創立の4小学校の歩みから辿っていきます。 

20081028.jpg

貞昌院から見た永野村立尋常高等小学校(現在の永野小学校/大正12年)
田んぼがずっと広がっているあたりも、今は環状2号線が通り、すっかり様子が変わってしまっています。

※特別ゲストとして、地域を古くから知る平井さんにお越しいただく予定です。

投稿者: kameno 日時: 6:47 PM | | コメント (0)

明治創立の学舎のあゆみ

横浜市港南区には、明治時代に創立された小学校が4校(永野小学校・日野小学校・日下小学校・桜岡小学校)あります。 その歴史を纏めて一覧表として作成してみました。

これは、現在編集作業が進められている 『こうなんの写真アルバム』(仮題) ?明治創立の学舎に残された写真物語? のための基礎資料となります。

それぞれの時代ごとに近隣の寺院と大いに関係が有ったことがわかりますし、宅地開発、人口増加と共に校舎・分校が枝分かれしていく様子もよくわかります。

港南区・明治創立の学舎のあゆみ (参考:横浜市港南区役所ふるさとこうなん、『港南の歴史』、各小学校のあゆみ)

 

<港南区の歴史>

永野小学校

日野小学校

日下小学校

桜岡小学校

江戸時代

現在の港南区の地域は、武蔵国久良岐郡に属する上大岡・雑色・関・松本・最戸・久保・宮ヶ谷・宮下・金井・吉原の各村と、相模国鎌倉郡に属する永谷上・永谷中・上野庭・下野庭の各村からなる。

寺子屋
(天神社=貞昌院ほか)
  寺子屋
(洞雲閣ほか)
寺子屋
(下大岡寺子屋ほか)

明治初期

永谷上村と永谷中村が合併して永谷村に。

       

1872年
明治 5年

雑色・関・松本の3か村が合併して笹下村に、宮ヶ谷・宮下・金井・吉原の4か村が合併して日野村に。

棲心庵学舎設置
(永谷村字八木2648番地)
     

1873年
明治 6年

    第一大学第七中学区第五五番小学日野学舎
(字宮前2047) 
笹下東樹学舎設置
(関村の東樹院)
 
1874年
明治 7年
  野庭学校設置
(正応寺を仮校舎とする)
棲心庵学舎は永谷学校と改称
    最岡学舎設置
(来迎寺=現在の千手院)

1875年
明治 8年

   

日野学校と改称

  最戸学校と改称

1877年
明治10年

  野庭学校新築
(永谷村字山田町1698番地)
 

笹下学校と改称

 

1878年
明治11年

笹下の東樹院隣接地に久良岐郡役所を開設。

       

1879年
明治12年

  水田の権田ケ谷戸に永谷学校新築。(永谷村字八木2690番地

勝海舟より「永谷学校」の書が贈られる。

     

1880年
明治13年

   

公立日野学校となる

   

1884年
明治17年  

      関村の大火によって笹下小学校が焼失。
笹下学校、上笹下学校に分離
 

1885年
明治18年

   

村立日野学校となる

   
1887年
明治20年
        最戸学校は最戸尋常小学校と改称
(大岡学校に尋常高等併置)

1889年
明治22年

町村制が執行される。

笹下村と日野村が合併して日下村に、上大岡村・最戸村・久保村の3村が合併して大岡川村に、鎌倉郡の永谷、上野庭、下野庭の3村が合併して永野村に。

永谷学校と野庭学校が併合し、永野学校(本校)、野庭学校(分校)となる。

     
1890年
明治23年
        (大岡・井川・最戸学校が合併し大岡川学校と改称)
※現在の南区エリアのため( )

1891年
明治24年

 

小学校設備準則により永谷学校が現在の永野小学校の位置に移転。

     

1892年
明治25年 

 

野庭学校が永谷学校の隣に村役場出張所の建物として移転。永野学校創立。

村立尋常日野小学校と改称

村立笹下尋常小学校
村立上笹下尋常小学校に改称
 

1893年
明治26年

 

鎌倉郡永野村立尋常小学校と改称

     

1901年
明治34年

   

久良岐郡日下村立日野尋常高等小学校と改称。

   

1903年
明治36年  

     

笹下・上笹下の2校を合併して久良岐郡日下村笹下に校舎を新築し、尋常日下小学校の開校式をあげる

 

1911年
明治44年  

大岡川村の一部が横浜市に編入(現在の南区エリア)    

校歌・記念式歌の使用を許可される

(横浜市に編入され市立最戸尋常小学校となる)

1912年
明治45年
大正元年

        (久良岐郡大岡川村に旧名を引継ぎ村立尋常高等大岡川小学校として、久良岐郡大岡川村中里向田68番地に分離創立)

1913年
大正 2年

町に電灯がつき始める。

       

1914年
大正 3年  

     

記章(校章)制定 

 

1915年
大正4年

 

鎌倉郡永野村立尋常高等小学校と改称、高等科併設 

     

1920年
大正 9年

上大岡駅前の鎌倉街道沿いに水道が敷かれる。

     

(久良岐郡村立大岡川尋常小学校と校名変更)

1921年
大正10年

     

久良岐郡村立日下尋常小学校と改称

 

1923年
大正12年

関東大震災で大きな被害を受ける。

 

久良岐郡村立日野尋常高等小学校と改称

  (2階建て校舎を除き全壊)
休校中は近隣3寺院にて分散授業

1926年
大正15年
昭和元年

        (新校舎落成。10教室)

1927年
昭和 2年

第3次市域拡張で、久良岐郡日下村・大岡川村が横浜市に編入。区制施行に伴い、日下村・大岡川村は中区に編入。中区上大岡町・笹下町・日野町・最戸町・大久保町と改称。  

横浜市立日野尋常高等小学校、現在地に移転

横浜市立日下尋常高等小学校と改称 

(横浜市立桜岡尋常高等小学校と改称)

1929年
昭和 4年

弘明寺?日野町間に市営バスが運転開始。

       

1930年
昭和 5年

湘南電気自動車(現:京浜急行電鉄)が黄金町?浦賀間に開通。上大岡駅開設。

       

1933年
昭和 8年

日野共葬墓地(現:日野公園墓地)開設

       

1936年
昭和11年

横浜刑務所が根岸から現在地(港南四丁目)に移転 。市域拡張で、鎌倉郡永野村は中区に編入。中区上永谷町・下永谷町・野庭町と改称。

横浜に合併のため,横浜市立永野尋常高等小学校と改称 

横浜市立永野青年学校併設

     

1940年
昭和15年

     

校旗制定 

 

1941年
昭和16年

 

法令改正により、横浜市立永野国民学校と改称 

横浜市立日野国民学校と改称

横浜市立日下国民小学校と改称

新校地を中区大久保町13番地に得る。新校舎起工式を行う。

1942年
昭和17年

       

横浜市立桜岡国民学校と改称。

1943年
昭和18年

中区の一部56か町の区域をもって南区を新設。南区となる。

青年学校を桜岡青年学校に統合 

 

木造2階建て22教室が完成し、新校地に移る

1944年
昭和19年

  疎開児童を受け入れる   疎開児童を受け入れる 分区により、南区大久保町13番地となる。木造平屋建て4教室(後に講堂として改築)が完成。

1945年
昭和20年

横浜大空襲(港南区のエリアは空襲を免れる)

   

東福寺や東樹院で分散授業

戦争が激しくなり、児童56名が箱根宮城野村への集団疎開が始まる。

1947年
昭和22年

六三制実施

横浜市立永野小学校と改称 

横浜市立日野小学校と改称

横浜市立日下小学校と改称 

横浜市立桜岡小学校となる。

戦争が終わり、全児童疎開先から引き上げる。

1948年
昭和23年

 

給食開始 

     

1950年
昭和25年

南区役所港南出張所開設(管轄内の世帯数3,990戸、人口19,748人)

     

学校給食が始まる。

1951年
昭和26年

   

学区変更(日野・笹下)

   

1953年
昭和28年

神奈川県戦没者慰霊堂、講和条約締結記念事業として建立。

 

創立80周年記念式典

創立50周年記念式開催

 

1955年
昭和30年

     

野草園が全市に紹介される

 

1957年
昭和32年

市営バスが野庭口?横浜間を運行。

 

プール竣工

   

1961年
昭和36年

       

創立50周年。

南台分校が開設、8教室305名(笹下町2213)

1962年
昭和37年   

     

校庭中央の桜の木を切る

 

1963年
昭和38年

     

校歌制定(創立60周年)

南台小学校、分離開校

1965年
昭和40年

     

体育館落成 

 

1966年
昭和41年

 

芹が谷分校開校 

吉原分校開校

   

1967年
昭和42年

 

芹が谷分校独立 

吉原小学校開校

 

プールが完成

鉄筋3階建て8教室完成(現在のA棟の一部)

1968年
昭和43年

       

下永谷分校開設(18教室874名)

鉄筋3階建て10教室完成(現在のA棟の一部)、給食室完成

下永谷小学校、分離独立

1969年
昭和44年

南区の一部8か町の区域により港南区を新設。(管轄内の世帯数25,928戸、人口95,545人)。

     

藤の木分校開設、8教室275名(大岡町池の谷戸1722-1)

藤の木小学校分離開校(南区)

1970年
昭和45年

人口10万人突破

体育館完成・校歌制定,開校記念日とする 

校旗新調

 

 

1971年
昭和46年

港南区総合庁舎落成港南保健所・港南消防署・港南公会堂開設

   

洋光台第一・第二小学校独立開校(磯子区) 

講堂兼体育館落成記念式典

1972年
昭和47年

横浜市高速鉄道1号線(市営地下鉄)が上大岡?伊勢佐木長者町に開通。

校舎鉄筋化完了 

創立100周年記念式典

特殊学級設置

 

上大岡小開校に伴い、学区の一部変更。
鉄筋4階建て16教室完成(現在のB棟)

1973年
昭和48年

国鉄(現:JR)根岸線全線開通、港南台駅開設。
市住宅供給公社野庭団地入居開始

野庭小学校分離開校 
芹が谷南小学校開校

訪問指導学級併設

第1期東側鉄筋4階建て校舎完成。第2期北側鉄筋3階建て校舎・屋上プール完成。

日下のあゆみ70年史発行

 

1974年
昭和49年

環境事業局港南工場と余熱利用施設(港南プール・蓬莱荘)完成。

日本住宅公団港南台団地入居開始。

日限山小学校開校分離 

港南台第一小学校開校

創立70周年 

新校舎落成記念式典 

 

1975年
昭和50年

人口15万人突破

 

日野南小学校開校

 

緑化植樹完了

1976年
昭和51年

市営地下鉄(上大岡?上永谷)が延伸、港南中央駅・上永谷駅開設。

永谷小学校分離開校
相武山小学校開校分離
下野庭小学校開校

港南台第二小学校開校    

1978年
昭和53年

     

特殊学級開設

 

1979年
昭和54年

区制10周年。区の花に「ひまわり・ききょう・あじさい」を制定。

横浜横須賀道路の一部開通

  港南台第三小学校開校    

1980年
昭和55年

上大岡駅前にバスターミナルが完成。

 

最後の木造校舎解体

第2運動場新設落成 

 

1980年
昭和55年

 

丸山台小学校分離開校

     
1981年
昭和56年
  野庭東小学校が野庭小学校より分離開校。      

1982年
昭和57年

 

創立90周年記念式典

創立110周年記念式典

鉄筋2階建て校舎新築(図書室・研修室)

 

1983年
昭和58年

横浜市南部病院の開院

 

小坪小学校開校

 

住所変更により、港南区大久保1-6-43となる。

1984年
昭和59年

人口20万人突破

     

給食室、体育倉庫その他の改修工事完成

プール改築・竣工式

1985年
昭和60年

市営地下鉄上永谷駅-舞岡駅間開業   新設プール完成。
住所表示変更(日野7-11-1)
校庭整備 学習園 植樹完成
  学習園・学習池・花壇が完成、植樹完了

1986年
昭和61年

       

郷土資料館、A棟3階に開設

多目的教室(学習センター)開設

1987年
昭和62年

     

学校前に歩道橋ができる 

 

1992年
平成4年

 

創立100周年記念式典

     

1993年
平成5年

   

住所変更日野町→日野中央二丁目

90周年記念式開催 

 

1994年
平成 6年

区制25周年。区のシンボルマーク・鳥(シジュウカラ)・木(クロガネモチ)を制定。

   

特殊学級再開設

 

1996年
平成 8年

     

はまっ子ふれあいスクール開設

 

1998年
平成10年

環状2号線暫定開通
港南ひまわりトンネル(市内最長547m)開通

防災備蓄庫完成

防災備蓄庫設置工事

校庭整備・飼育小屋移築工事

プレハブ建て郷土資料館開設

2000年
平成12年

   

はまっ子ふれあいスクール開設

   

2002年
平成14年

   

創立130周年記念式典

創立100周年記念式典開催 

郷土資料館完成
「豊栄のぼる新世紀へ」 100年史発行

 

2005年
平成17年

       

プレハブ棟:図工室、はまっ子ふれあいスクール完成

2006年
平成18年
  野庭小学校、野庭東小学校廃校。両校合併、野庭すずかけ小学校となる。      

2009年
平成21年

区制40周年

       
 

<港南区の歴史>

永野小学校

日野小学校

日下小学校

桜岡小学校

投稿者: kameno 日時: 2:46 PM | | コメント (2)

紅葉は朝に見よう

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昨日、日本テレビ『所さんの目がテン!』で、紅葉の特集がありました。
その中の一齣。
「紅葉が一番美しく見えるのは、一日のうちで何時か」

ほとんどの人は昼前後が一番という認識ですが、答えは朝。
紅葉は陽があたると徐々に葉が萎んでしまい、昼過ぎにはくちゃくちゃになってしまいます。
日が沈んで夜露に当り、葉に水分が吸収されると葉は「シャキーン」と元の形に戻る。
したがって、朝が一番の見頃だという内容でした。

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そうそう。
朝の紅葉は格別です。
今朝の境内で何枚か撮影してみました。
右写真は裏庭のイロハモミジです。昨夜は雨が降っていましたので更にキラキラ輝いています。
葉に朝露の水滴が残っているうちに朝日が差し込む紅葉は本当に美しいですね。

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■関連ブログ記事
紅葉チャート2009

投稿者: kameno 日時: 10:23 AM | | コメント (0)

根岸線物語 本郷台編

昨日のブログ記事で、根岸線の路線構想図の中で、新大船(現在の本郷台)から大船に直線で結ばれる構想があったことがわかります。
この路線は具体的にどのような路線を想定していたのでしょうか。

航空写真と地図から検証してみましょう。

まず、現在の状況から。
環状4号線(県道23号線)「笠間十字路」に立つと、東北東方向に斜めに伸びる直線道路が眼に入ります。


大きな地図で見る

この道路は、戦後まもなくに撮影された航空写真にもはっきりと写っています。
太平洋戦争中、現在の本郷台駅周辺は、旧大日本帝国海軍の第一海軍燃料廠がありました。
したがって、戦時中はこの道路はとても重要な役割を果たしていたことがわかります。


栄区役所のホームページには次のような記述があります。




1938年(昭和13年)から、現在の本郷台を中心とする、小菅ケ谷、公田、桂地区の大水田地帯をつぶして、海軍の燃料廠が建設されました。この地域は本郷村の穀倉地帯で、春はレンゲ草が咲き乱れ、夏は一面の青田が広がり、秋ほ稲穂の黄金の波が美しい豊かな田園地帯でした。
今の城山橋の手前が正門。柏陽高校の運動場の東づめが東門。警察学校横のT字路が西門で、現在柏陽高校、消防学校、警察学校、栄区役所、野村コーポ、本郷台駅及び駅前高層住宅群、栄土木事務所、下水処理場、信光社等のところがその本部。栄警察署、南農協本郷支所、公会堂・栄スポーツセンター、消防署、保健所、地区センター、本郷中学校は工員宿舎・養成工寮・購買部等の付帯施設でした。共済病院は付属病院で、このほか鎌倉女子大は分室、笠間の公務員宿舎は将校クラブ、小菅ケ谷住宅や岩井口付近のほとんどが職員宿舎でした。
大船から笠間十字路を経て警察学校への道路もこの時に造られ、それによって水道が初めて本郷に引き込まれました。この道路は水道みちと呼ばれました。また、この道路に沿って、大船駅から鉄道の引込線が敷かれ小型のSLが貨車をひいて走り、電気も高圧線が引き込まれ、周辺の住宅にも昼間の通電がされました。原宿六浦線もこれと関連して、追浜の海軍航空隊と燃料廠と厚木の航空隊を連結する道路として建設されましたが、笠間大橋は完成しないうちに終戦となりました。これら燃料廠関係の施設の建設は本郷村の開発についての方向付けをしたことになり、今日の本郷の基本図となっています。便利になった事や所がたくさんありますが豊かで美しい本郷村は歴史の彼方へ消え去ってしまったのです。
第一海軍燃料廠と横浜市との合併(栄区役所)より引用 下線はkameno付記



つまり、海軍の戦艦、航空機、ロケット戦闘機「秋水」などに使用する燃料、潤滑油を研究、製造していた施設が現在の本郷台にあり、そこに結ばれる貨物船が引かれていたのです。

第一海軍燃料廠が建設されたのは1938年(昭和13年)。
航空写真を判読すると、現在の大船駅北口出口あたりにプラットホームが見え、ここから笠間十字路?第一海軍燃料廠まで線路が延びています。
笠間大橋はまだ出来ていませんね。
20091129-10.jpg
(1946/03/05米軍により撮影 国土変遷アーカイブより)
※鉄道の線路を赤線でなぞってみました。なお、南側に見える工場は、三菱の工場と思われます。


第一海軍燃料廠の部分を拡大してみました。
20091129-11.jpg

第一海軍燃料廠内部には

第一?第六研究室、第一?第九実験室、特殊潤滑油製造所、ヘックマン式真空蒸留室、グリース製造所、耐爆熱実験室、第一過酸化水素連接濃縮工場、第二過酸化水素連接濃縮工場、過酸化水素フラスコ濃縮工場、第一航空発動機実験場・実用機械、第二航空発動機実験場・ロケット燃料テスト、特殊燃料実験場、高圧燃料実験、潤滑油試験機関室 ディーゼルエンジン実験場・31型単箱ディーゼル及61型高速試験機関、ボイラー燃焼実験場、石炭液化実験場、低温低圧実験場、揮発油重合実験場、原油蒸留実験場、化学工業研究室や、それに付随する宿舎、病院などの施設があったようです。

ここからトラックにより追浜の海軍工場とを結ぶ軍用道路(現在の環状4号線)を通り、貨物列車により工場引込線から大船を通って物資が追浜や横須賀方面へ物資が運ばれました。

第一海軍燃料廠は、1952年(昭和27年)に駐留軍により接収され「米軍大船PX」となります。

根岸線建設計画において、新大船(本郷台)駅の設置場所については、この米軍大船PXが最適であると検討されます。
PXの全敷地面積は35万平米あり、米軍から払い下げされる目処がついたこと、周辺地区と併せて新しい街の形成が見込まれることにより、PX敷地北側を駅用地として確保できるように交渉が開始されました。
また、大船ー本郷台間は飯島を回り込み半円状に結ばれる路線が選定されました。


根岸線建設の時期と同時期には、東海道線の増線工事も同時進行で行なわれており、そのために根岸線の本郷台?大船間を先に行い、大船で一部根岸線を東海道線増線工事の切替に使用するということがなされたようです。
そのために、根岸線は横浜?港南台、本郷台?大船の部分が先に出来、港南台土地区画整理事業との兼ね合いがあった港南台?本郷台の部分が最後に竣工することとなりました。(昨日のブログ参照)


同一範囲の地図を並べてみました。
20091129-18.jpg 20091129-19.jpg
(左)地形図「戸塚」昭和20年部改・昭和22年発行  (右)地形図「戸塚」平成13年改測・平成14年発行

※なお、左側地図には史料をもとに第一海軍燃料廠の施設名称をkamenoが付記しています。


最後に、鉄道路線の変遷図を作ってみました。 青線は国鉄(JR)旅客線、赤線は貨物線、緑線はモノレールです。

20091129-15.jpg
戦時中

20091129-16.jpg
昭和40年代前半

20091129-17.jpg
昭和50年代



参考文献
栄区の歴史「38 昭和のころ」 - 横浜市栄区役所
いたちかわらばん(通算30号)- 横浜市栄区役所
『根岸線工事記録』(昭和49年3月 日本鉄道建設公団東京支社)

投稿者: kameno 日時: 12:07 AM | | コメント (5)

根岸線の歴史と港南台駅誕生物語

港南区を通る唯一のJR路線、根岸線(年配の方には桜大線といったほうが馴染みがあるかもしれません)。その歴史的経緯をまとめてみました。
今日の記事は、以前のブログ記事 歴史に学ぶ港南台の会勉強会 の補足記事となります。

 

■根岸線計画の主な経緯

大正11年4月11日 鉄道敷設法別表(昭和12年4月1日一部改正)「神奈川県桜木町より北鎌倉に至る鉄道」
昭和31年2月24日 鉄道建設審議会「昭和31年度から調査を開始すべき新線」として調査線に編入「この線は桜木町から大船附近に至る線で、重要な都市の旅客交通を担当するとともに、横浜港湾臨海工業開発計画上まことに効果大なる線である。本線は複線電化すべき線として着工すべきである。」

昭和32年7月5日桜木町一大船問の運輸大臣の建設認可
昭和32年 調査測量
昭和33年 桜木町一磯子間の路線決定
昭和34年 建設工事に着手
昭和39年3月23日 日本鉄道建設公団発足
昭和39年5月19日 横浜一磯子間営業開始

横浜?磯子間は比較的すんなりと営業開始となりました。問題はここから先の区間です。

根岸線磯子-大船間の路線選定にあたっては
(1)日野廻り
(2)田中廻り
(3)杉田廻り
の3ルートが検討されています(下の地図参照)。

20091128-01.jpg
図:根岸線計画の変遷 (kameno作成、青が現在のルート)

もしも日野廻りのルートが採択されていれば、現在の港南中央から鎌倉街道沿いに国鉄が通り、七曲から大船に抜けるというルートとなっていますから、港南中央、吉原、清水橋あたりに駅が出来たかもしれないですね。港南区の歴史も大きく変わったわったことでしょう。

しかし、結果的に杉田廻りの路線が採択されます。

20091128-02.jpg
図:第一次工事計画変更線路縦断面図(杉田・新大船=本郷台間)『根岸線工事記録』より
(港南台地区に駅は計画されていなかった)

当初設置予定の駅は、新杉田矢部野(現在の洋光台)、新大船(現在の本郷台)、そして大船に結ばれます。
この時点では港南台の駅計画は無く、しかも現在よりも南に500メートルほどずれた路線計画(地図の湘南日野を通る赤い線)でした。
後に地元の要望により湘南日野駅の設置が検討されます。
この湘南日野は、現在の港南台よりも南に500メートルの位置です。


このように鉄道公団は、当初、根岸線計画の中で港南台駅設置を想定していなかったのですが、結果的に港南台駅が設置されるに至るには、昭和41年3月に出された「根岸線延伸路線の駅設置について」の要望書が契機となっています。

 

以降の経緯をまとめてみます。

表:矢部野?大船間ルート変更、港南台駅設置に関する協議経過
(『根岸線工事記録』P88をもとに再編)








鉄道建設公団内部 地元関係 住宅公団関係 国鉄関係
 

41/3/25 根岸線延伸路線の駅設置について。
日野駅(住宅公団第2期)
横浜市長→鉄道公団総裁

41/10/7 町内会長および地元市会議員にルート説明・測量入りについて説明(旧ルート)


41/3/4 港南台土地区画整理事業区域決定及び事業決定

41/10/11 都計街路1.3.5号1.3.28号1.3.30号の告示

41/11/25 洋光台港南台駅の設置について
住宅総裁→鉄道公団総裁(要望)

41/12/17 港南台駅の予定なし
鉄道公団総裁→住宅総裁

41/6/27 工事実施計画その1回答(大船連絡設備を除く)
国鉄総裁→公団総栽

41/8/9 大臣認可(その1)


42/3/30 線路中心軌道測量完了(旧ルート)

42/8/24 工事実施計画その1変更上申保留となる)

42/10/14 湘南日野駅の設置を含め矢部野-新大船間のルート変更の検討
  42/7/13 港南台駅設置(要望)住宅総裁→鉄道公団総裁

42/10/16 港南台駅設置の要望と費用一部負担の申入れ
住宅総裁→鉄道公団総裁
42/710 工事実施計画その1変更下協議東京支社長→関東支社長

42/8/19 関東支社長了承の回答

42/8/8 大船駅連絡設備について計画、着手の依頼(44/10)国鉄総裁→公団総栽

42/11/27 矢部野-大船間開業調査依頼
東京支社長→関東支社長
43/3/14ルート変更につき1住宅公団と協議6/7 43/11/2 横浜市戸塚区、飯島町、小菅ヶ谷町、鍛冶ケ谷町、南区日野町関係地主に中心改測および巾杭建植の立入説明

43/ 11/12 駅名変東陳情(洋光台港南台)横浜市長→東京支社長

43/8/1 費用負由は1/2とする覚書
東京支社長・首都圏開発本部長

43/8/29 事業計画について地元説明

43/9/11(1/3000図面提示する)

43/10/2 都計街路1/3/28号告示の変更及び2.1.26号の追加

43/12/17 事業計画につき県・市へ意見聴取


43/2/17 新大船?大船使用開始を45/10に要望
国鉄総裁→公団総裁(照会回答)
44/3/30 線路中心、巾杭建植完了(新ルート)

44/7/30 用地測量完了予定
44/6/12 用地測量の立入説明 44/1/27 県回答

44/1/30 市回答

44/2/6 事業計画、施行規程大臣申請

44/9/8 同認可
44/6/6 矢部野-大船間その1変更下協議
東京支社長→関東支社長


根岸線のうち、港南区を通る部分の大半は、日本住宅公団が施工する港南台土地区画整理事業の区域内を通ります。
昭和40年当時公団が根岸線の磯子?大船間のルート決定の時点では港南台地区は大まかな構想しかなく、根岸線のルートは宅地造成の構想に近い線で現地形を勘案して鉄道公団としてのルートを杉田廻りルートに決定しています。
しかし、この当初計画は港南台地区の第百土地株式会社、並びに周辺の民間団地の中央を横断する計画となるため、造成開発や販売に重大な支障を与えるとして測量中止の申し入れがありました。
また、この時点で住宅公団は既に港南台地区の土地区画整理事業に一部着手ししていたこともあり、鉄道公団は住宅公団に対して第百土地および周辺団地を避け500メートル北側にずらしたルート変更の内容を説明し、協力方を要請したところ、この案の受諾とともに港南台駅新設の要望の申し入れが行なわれました。

新駅設置に要する工事費の折半負担と、根岸線のルート変更案に住宅公団が応じるという条件で設計協議が合意に達し、昭和44年6月6日国鉄関東支社長に「矢部野(洋光台)-大船間工事実施計画その1の変更」申請書が提出されます。

「矢部野(洋光台)-大船間工事実施計画その1の変更」について

変更理由書

「1」矢部野?新大船間は日本住宅公団港南台土地区画整理事業区域および民間宅地造成地内を通過し、これら計画道路との交さ、ならびに県市道との交さにつき詳細検討の結果、旧ルートによる工事の施行が困難なため、横浜起点14k373m05より17k810m69の間の線路を北側に最大約500m移動し、ずい道で通過することが得策である。

「2」また、同上区間に新たに発生する通勤、通学客ならびに将来増が予想される一般旅客の輸送を考慮して横浜起点15k980mに港南台駅を設置する。

 

これにより、路線のルート変更と、駅構造を切り土ではなくトンネル構造への変更が行なわれることとなりました。
港南台駅は住宅公団が新駅設置に係る相当の部分を負担することにより「新たに」現在の場所に設置されることとなりました。
実に港南区(当時は南区)唯一の国鉄駅であります。

港南台-本郷台間の工事が一番最後となり、 昭和48年4月9日に根岸線は全線開通となりました。


参考文献

『港南台の歴史(港南台駅開業まで)』(港南台バーズ)
『根岸線工事記録』(日本鉄道建設公団東京支社・昭和49年3月)

投稿者: kameno 日時: 1:07 AM | | コメント (2)

大船観音はどこを向く?

大船の街を見守る大船観音。
その白衣観音像がどこを向いて鎮座しているのでしょうか。

今日はそれを検証してみましょう。

以前、大船観音の頭上に登らせていただいたことがあります
その時に目線の先にを辿ると、大船から鎌倉方面に延びる横須賀線の曲線、その向こうに見える山々。
概ね大体鎌倉市街地中心部のほうを向いているということはなんとなく判っていました。

20091124-01.jpg

Google earthでどこに向いているかを詳細に検証してみます。

20091124-02.jpg

図の赤い線が目線です。

20091124-03.jpg

大船観音の目線の先には鎌倉大仏(もしくは長谷観音)があるという噂がありましたが、実際はそれよりもやや東。
鎌倉駅と鎌倉大仏の間を通って由比ガ浜に抜けています。

もしかすると、昭和4年の初期の大船観音建造時には鎌倉大仏に向けて観音像を設計していたのかもしれません。
そうだとしたら概ね鎌倉大仏に向けようと建造したものの、若干の誤差が生じてしまったのでしょう。


では、鎌倉大仏はどこを向いているのでしょうか。

20091124-04.jpg

こちらもGoogle earthで調べて見ます。


20091124-05.jpg

真南よりやや西側を向いていますね。
だいたい伊豆大島の方向を向いていているようです。
ただし、鎌倉大仏に関しては、室町時代の津波で移動しているようですので、大仏殿に収まっていた当初は真南を向いていたのかも知れません。


ついでといっては何ですが、自由の女神像がどちらを向いているかも調べてみると・・・・・

20091124-06.jpg

湾を越えて・・・・・・

20091124-07.jpg

南アメリカ大陸の東側を向いていることがわかります。
フランスは自由の女神から見て左の方向ですね。

20091124-08.jpg

自由の女神像は、送り主のフランスの方向を向いていると思われがちですが、決してそうではありません。


 

建造物がどの方向を向いているかということは、非常に重要な意味をもちます。
前に港南図書館で開催された「横浜港の七不思議講演会」で、田中先生は横浜港開港当初の主要な建物は開港したての「横浜港」の方向に向けられていたということを検証されていました。

それぞれに隠された意味を探るということも面白いことですね。

投稿者: kameno 日時: 11:59 PM | | コメント (3)

イチョウ黄葉予測

境内のシンボルともいえる2本のイチョウの葉がだんだんと黄色く染まってまいりました。
まもなく見事な黄金色となります。

イチョウの黄葉は、見頃を迎えたかと思ったら一気に散ってしまいます。
タウンニュースでは昨年、記事として取り上げていただき、港南区役所発行の「まち自慢ガイドブック」では表紙を飾りました。
各方面より、今年の見頃の時期の問合せがありますので、過去の記録からイチョウの見頃を予想してみました。
(※1998年はきちんとした記録をとっていません)

ginkgo2009.gif

上記図中、[50%]は散り始めて全体の半分程度が散った日付、[100%]は殆ど散った日付を示しています。
また、色は大体こんな感じで黄葉が進行したという目安です。

このように、毎年かなりばらつきがあることがわかります。
10月から11月にかけての気温の変化によって色づきの進み方が違いますし、散り始めの時期に風の強い日が有るか無いかによっても異なります。
予想は難しいものです。

それでも敢えて予想するとすれば、今年は比較的気温の低い日が多いので、昨年(20087年)よりやや早い進行ではないでしょうか。
12月1日前後が見頃であると思います。


本日(2009年11月20日)撮影したイチョウはこのような感じです。
20091120-01.jpg


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投稿者: kameno 日時: 12:41 AM | | コメント (0)

松根油を煮出した釜

港南の絵本をつくろう会による、「昔の豊かな遊びを子どもたちに伝えるプロジェクト」が進行中です。


かつての豊かな遊びを、一緒に未来に引き継いでいきませんか!

「遊び」は子どもの育ちに欠かせないもの。
 港南区では、子ども達はどんなところでどんな遊びをしていたのでしょう。
『港南の絵本をつくろう会』は、昔のさまざまな遊びをヒアリング集にまとめ、将来的には絵本にすることを
目指しています。


まずは、各年代ごとに地域にお住まいの方から遊びの想い出を中心にヒヤリングを行なっているところです。


20091109-01.jpg

どの方も、子どものころの思い出を語るときの表情は生きいきとしています。
まるでその時の様子を目の当たりにしているようです。

ヒヤリングの内容は、順次、纏められていきます。
形になった時点でまたお知らせいたします。

たくさんの発見もあったのですが、その中の一つをご紹介します。
それは、戦時中に生産していた「松根油」にまつわる話です。


永谷地区は幸いなことに、大規模な空襲を受けることは無かったのですが、東京、川崎方面より多くの疎開を受け入れていました。
貞昌院にも境内に十数人の家族と、やはり十人前後の兵隊さんが生活をしておりました。
兵隊さんたちは主に何をしていたかというと、山から松の木と根を堀り出してきて、それを下野庭に作られた釜で乾溜し、飛行機の燃料を作っていたということなのです。
これは松根油と呼ばれるもので、村人たちはその松の根の掘り出しと製造の手伝いをしていたそうです。
松根油と戦時中の永谷


今日のヒヤリングでも、松根油の話題となり、その中で「松根油を煮出すのに使っていた釜は、貞昌院の天水桶となっていた」ということが新たに判りました。

簡単に纏めると次の通りです。


「戦時中は鉄の供出のため戦前まであった天水桶は撤去されていた」
「戦中、松根油を煮出した釜が戦後不要になったため、貞昌院の本堂に持ってこられ、天水桶として設置した」
「しかし、鉄の質が悪いため、何十年か経つうちに腐食し穴が開いてしまった」
「そこで、新しい天水桶(現在あるブロンズ製のもの)を寄進することにした」

この2行目のことは初めて聞きました。
驚きです。


古いアルバムを取り出して、以前の天水桶が写っている写真を探してみました。


20091109-03.jpg
(貞昌院29世寛量大和尚結制・昭和36年4月9日)


このころは本堂の正面に棕櫚の木があったのですね。
屋根はまだトタン葺きでした。
背景に見える黒いものが天水桶です。


穴が開き始めて水が漏れ出した頃の大きな真っ黒いドラム缶のような天水桶は、子どもの頃の記憶としてしっかり刻み込まれています。

その天水桶が、松根油を煮出した釜だったとは・・・・・

投稿者: kameno 日時: 11:21 PM | | コメント (0)

石頭希遷禅師月忌考

大本山總持寺では、毎月25日に常照殿において無際大師月忌(がっき)法要が営まれます。

無際大師とは、中国禅宗第8祖・石頭希遷禅師のことです。
『参同契』の経典を撰せられたといえば禅宗の系譜の上で重要な禅師であったかが判ると思います。

こちらも併せてご参照くださればと存じます。

  ⇒大本山總持寺に祀られるミイラ仏

無際大師月忌は冒頭に述べたように毎月25日(12月が御正当)となります。
その差定(式次第)は次の通りです。



【常照殿に於いて無際大師月忌 差定】
 ・前後三拝
 ・参同契
 ・回向(上慈恩)
(正当十二月は九拝差定・逮夜有)

ところが、今月行なわれていた御両尊御征忌会の差定のとおり、10月は14日に石頭希遷禅師月忌が営まれています。

總持寺御征忌会第3日
第3日(10月14日)
朝課罷
石頭希遷禅師月忌(於・放光堂)

差定
 ・置茶湯
 ・前後三拝
 ・参同契
 ・回向
 ・法要罷 石頭希遷禅師真前にて焼香


 
ここで、何故14日に石頭希遷禅師月忌が営まれているかを考察するために差定の変遷を辿っていくと、どうやら總持寺に石頭希遷禅師のミイラ仏が安置されるようになってから、御両尊御征忌会随喜衆により「御真前」への拝登を、という要望もしくは法要都管寮の配慮があって差定として定着することとなったようです。

当時は、石頭希遷禅師が總持寺に安置されるということは大ニュースとなったのでしょう。
きっと御征忌中の石頭希遷禅師月忌は多くの随喜衆で放光堂(当時の法堂)が溢れかえっていたのではないかと思います。

現在では大祖堂での課罷法要と同時進行で内勤として営まれておりますので、法要には都管寮、両班寮、堂行寮の随喜のみとなっています。


なお、石頭希遷禅師のミイラ仏が日本に来た経緯については、複雑な経緯があり、中国版ウィキペディア(维基百科)には次のように記載されています。




石头希迁 (重定向自石頭希遷)
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石头希迁(700年-790年),禅宗大师。先於曹溪六祖門下出家為沙彌,惠能去世時,年僅十四歲,後依於六祖門下青原行思而開悟。曾在南岳一块巨石上结庐而居,称"石头和尚",他這一系禪法,也因此被稱為石頭宗。提出"触目是道"的禅宗修行方法,有「石頭路滑」之稱。希迁的再传弟子创禅宗曹洞宗、法眼宗、云门宗。
石头希迁在南嶽衡山南寺坐化。太平洋戰爭期間,日本人把石頭和尚真身搬到日本,至今仍供奉在日本總持寺。初期總持寺把石头希迁的真身開放給遊人參觀,後來已經收藏起來,謝絕參觀
石头希迁著有《參同契》、《草庵歌》。 

来自 维基百科,自由的百科全书




下線はkamenoが付記しました。
当該下線部の記述は「在2008年11月27日 (四) 12:31所做的修订版本」とありますから最近書き加えられた記述ですね。
中国としては本音として返して欲しいのでしょう。


しかし、この記述は正しくなく、
「辛亥革命(1911)の時にミイラ仏を祀った寺が革命軍により焼かれたが、石頭希遷大和尚の研究家・山崎彪氏が火の中からミイラ仏を救い出し、三井物産の船で日本に運んだ。」
ということが史実です。
日本人山崎彪氏がいなければ、ミイラ仏は灰燼に帰していたことでしょう。
 

【追記】
维基百科 石头希迁 項下線部を修正してみました。

石头希迁在南嶽衡山南寺坐化。辛亥革命期間,革命军放火寺院烧了。日本人在火灾中搭救石頭和尚真身,搬到日本,至今仍供奉在日本總持寺。


中国語が堪能な方、さらに適切な表現がありましたらお願いいたします。


■関連ブログ記事
大本山總持寺に祀られるミイラ仏

投稿者: kameno 日時: 11:23 AM | | コメント (2)

亜炭を運ぶトロッコ

まずは、次の写真をご覧ください。

20091017-01.jpg
昭和6(1930)年当時の上大岡、和田山から弘明寺・最戸耕地方面を望む
CC by 港南歴史協議会


戦前の、炭鉱から亜炭を運び出すトロッコとその線路が写っている貴重な写真です。
付近には広大な水田が広がっていました。
稲藁が干されていますから丁度秋の収穫シーズンですね。
影の状況から察するに午後2時くらいに撮影されたものでしょう。

以前の記事 港南区の炭鉱と戦争の影でご紹介した炭鉱坑口の写真から延びる線路が見えます。


さらに詳細に写真を見ていきます。
20091017-02.jpg 20091017-03.jpg

赤い線でトロッコの線路をなぞってみました。
線路脇には、トロッコが幾つか見られます。トロッコは青丸で囲いました。
茶色の線は道路です。
写真の右上(緑丸)には湘南電気鉄道(現・京浜急行電鉄)の車両が見えます。一両編成ののんびりした電車ですね。
黄金町 - 浦賀間に湘南電気鉄道として鉄道が開通したのは昭和5(1930)年ですから開通したてですね。
この写真の撮影時期から数ヵ月後、横浜から野毛山のトンネルで敷設された京浜電鉄延長線と日の出町で接続、横浜・浦賀間の相互運転となります。

写真ではよくわかりませんが、このような車両だったのでしょう。


和田山(慰霊堂近辺)からの眺望をカシミールで再現したものを並列配置していました(上段右側)。
赤線で囲った四角の範囲が写真の範囲と一致します。
丘の稜線、道路の形など現在の地形から偲ぶことが出来ますね。

写真が撮影された場所「和田山」は、最戸2丁目、現在の戦没者慰霊堂の丘です。
なお、「和田山」の地名の由来は、近辺の急な坂道を利用して鎌倉幕府の要職にあった和田義盛が関所を設けたことによります。

このことからわかるように、鎌倉古道下之道が通っておりますので、古来から交通の要所でありました。


大正時代から戦中にかけて貴重な燃料資源としての亜炭が採掘されていたという事実を物語る貴重な資料です。

20091017-04.jpg
地形図戸塚(昭和6年修正・昭和8年発行)



冒頭の写真には右部分をパノラマで写した続きの写真があります。

20091017-01.jpg20091017-05.jpg

右側の写真は上大岡駅方向を映しています。
こちらの写真にも左から5番目の架線柱の付近に湘南電気鉄道の車両が見えますね。


20091017-06.jpg


一枚の写真から得られることが沢山あることを実感できる写真です。


■関連ブログ記事

港南区の炭鉱と戦争の影
鎌倉古道下之道-2
鎌倉古道下之道

投稿者: kameno 日時: 1:40 PM | | コメント (2)

真光寺の丘から見た黒船

港南区には次のような昔話があります。




丘の上の黒船見物(上大岡)

むかし、江戸時代の終りのころのお話です。
ある日、突然、浦賀沖に、アメリカの軍艦がやってきました。
日本人が、よその国へ行ったり、外国人が来たりしてはいけなかった時代でした。
港から離れていた村人たちは、のんびりと畑仕事をしていました。
子どもたちも、よく親の手伝いをしていましたが、暇をみつけては、野山をかけまわりうさぎを追いかけたり、木の上に登ったり、次から次へと遊びを考えだしては、仕事の合間に遊んでいました。
きょうも、小高い山の木のてっぺんに登って、はるか遠くをながめていた子どもたちが、竹づつをのぞくと、真黒い、みたこともない船が、丸い輪の中に現れたのでした。
びっくりした子どもたちは、それぞれ、すっとんで家に帰りましたが、家には誰もいません。じいちゃん、ばあちゃん、親たちまでが、庄屋の家の庭先に集まつて、ワイワイガヤガヤさわいでいたのです。
浦賀では、一日中半鐘が鳴っているとか、真黒い大きな船が煙りをはいては、ボー、ボーと大きな音をだしているというのです。
目をつりあげ、口をぎゅつと結んだ武士が、馬にむちをあてては、西へ東へ、血そうを変えながら走らせているとか、街道沿いの人たちは、家の中にかくれて、息をつめてなりゆきを見守っているとか、杉田村へ野菜を売りにいってきたじいさんが、まるで見てきたかのように、まくしたてていました。
金沢の小柴沖まで、黒船が入ってきていると聞くと、戦になるかも知れないと、おびえながらも、黒船を一目見ようと村人たちは、すっかり、お祭り気分になってしまいました。
「さあさあ、仕事さ、かたづけて、見にいくぞ!お前たちも、早よう、手伝えよー」
上大岡の真光寺の高台が、見晴らしも良く絶好の見物場所になったのでした。
一人、二人、また一人と、うわさをききつけた近隣の村人たちで、あれよ、あれよという間に、人だかりができました。
そのうち、おだんごや、お茶を売る者までが現れて、いっそうにぎやかになりました。黒船がいた八日間、この高台は、黒船見物の人々でにぎわったそうです。
港南歴史協議会のサイトより)




このように、江戸時代末期・嘉永6(1853)年に初めて浦賀に来航し、翌年の嘉永7(1854)年に再度来航した黒船艦隊を、物珍しさからたくさんの人々が黒船見物に押しかけ、茶店まで出ていたようです。

kurohune.jpg
「茶店から黒船見物を楽しむ人々」『黒船来航風俗絵巻』

冒頭の物語は、ここ港南区(当時は武蔵国久良岐郡)でも黒船見物で賑わった様子が描かれています。
・・・・しかし、本当に上大岡真光寺の丘から東京湾を眺めることが出来たのでしょうか。


昨日開催された港南歴史協議会定例会の場でその話題となり、現在はマンションや立ち木などで検証しづらいということがありました。
そこで、障害となるマンションがない状態だとどのように見えるのかをシミュレーションしてみます。

kurohune2.jpg

明治初期に作成された迅速測図(上の地図)で見ると、汐見台(磯子区)の丘さえクリアーできれば、真光寺の丘からも根岸?小柴?浦賀沖を見渡すことができそうです。


大岡あたりからスタートし真光寺の丘を越え久良岐公園方面へ抜けるルート(下図の赤い線)を辿るとどのように東京湾が見えるのかをカシミールを使って検証してみます。
kurohune3.jpg

上記ルートの中でベストポイントは、ムービー開始30秒の場所、地図上の「A」の場所です(後述)。
 

目線の高さに合わせ、対地高度2メートルでムービーを作成しました。

※注:判りやすくするために高さ方向の倍率を3倍にしています

やはり真光寺の丘からは東京湾がよく見えたはずだということが判ります。


浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピー」(USS Mississippi 同)、「サラトガ」(USS Saratoga 帆船)、「プリマス」(USS Plymouth 同)の巡洋艦四隻からなっていた。大砲は計100門あり、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。無論、日本を脅す為に意図的に行ったものであり、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようだ。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 黒船来航項 (下線はkameno付記)



とありますから、東京湾をやりたい放題勝手に航行していたことも伺えます。
対し、村人たちも花火感覚で楽しんでいたというのも大したものです。
冒頭の物語の様子が目に浮かびます。

黒船来航当時、真光寺の丘からは、このように見えたことでしょう。


kurohune7.jpg
カシミール3Dによりkameno作成

つい先ほど、このポイントで実際にパノラマ写真を撮ってみました。
残念ながら台風前の雨でしたので、海は見えませんでしたので後日晴天の日に再度撮影してみようと思います。

kurohune6.jpg

投稿者: kameno 日時: 12:06 AM | | コメント (4)

港南区域の変遷

先の記事で港南区と栄区の境界の変遷について話題が出ました。
早速検証のため地形図から境界線を抽出してみました。

kuiki.jpg


橙=大正10年測図
緑=昭和41年改測
青=昭和51年二改

なお、大正10年の地図には武相国境線も描かれておりますので、そのまま橙の線で描きました。

境界線のパスを平成13年修正地形図の上に落としてみます。


kuiki2.jpg
平成13年修正地形図

<この記事は追記します>

投稿者: kameno 日時: 11:52 PM | | コメント (0)

何処からの、何時の光景でしょう

コーヒーブレイク的なクイズです。

ちょっとしたクイズです。

このシミュレーション画像は、何処からの光景でしょうか。
また、年月日は・・・・?


富士山に沈むダイヤモンド富士、そして、そのすぐ左上に細い細い月。
手前には海が広がります。

quiz.jpg

これから見られる(はずの)光景です。

投稿者: kameno 日時: 8:48 PM | | コメント (0)

「芥子劫」は何年か

昨日の記事の続きです。

一劫が何年かを計算してみましょう。

【計算上の定義】
芥子劫を1辺1由旬の城に芥子粒を満たし、100年ごとにそれを1粒づつ取り出して、芥子粒が空になるまでの時間とします。

【計算上の仮定】
1由旬の城を一辺が7km=7,000,000mmの立方体とします
また、芥子粒を直径0.5mmの球とします

800px-Poppy-seeds.jpg
(芥子の実。Wikipedia「ケシ」項より引用)

さて、一番単純な計算方法は、一つ一つの芥子粒がそれぞれ0.5mmの立方格子に入った状態で、この格子を角砂糖をジャングルジムのように積んでいくことを考えます。

すると、一辺には 14,000,000 個の芥子粒が並びますので、これを3乗して
2,744,000,000,000,000,000,000 個の芥子の実が詰ります。 
読み方は 27垓(がい)4400京(けい)個。

100年に1つづつこれを取り去るわけですから、全部取り去るまでには

274,400,000,000,000,000,000,000 年の歳月を要します。 
読み方は 2,744垓(がい)年。

ここまで計算したうえで、実際には芥子の実はさらに「きっちりと」詰まっていることが予測されます。
イメージとしては、八百屋の店先に積まれている蜜柑のような積み方です。


 
このことを考えたのがヨハネス・ケプラーです。
ケプラーは1611年、「物質を構成する粒子は体積を最小とするように自己を組織化するだろう」という構成原理に基づき、「六方最密充填」と「面心立方格子」が最高密度の配置であると予想しました。


menshin.jpg
これが面心立方格子。こんな具合に詰まれている場合に最も充填率が高くなると予想しました。


このケプラーの予想は、実に約400年後の1998年、トマス・ヘールズによりコンピュータを使って虱潰しに精査するという手法により、ほぼ証明に至りました。

ということで、冒頭の単純に立体格子状に縦横に積んでい方法ですと、その充填率は球の体積の公式より π/6 (= 52.3598・・・%)

六方最密充填、面心立方格子による充填率は、√2π/6 (= 74.08・・・%)

となりますので、芥子粒の数は √2π/6 ÷ π/6 = √2 倍増えます。

つまり、時間もそれに比例して増えますので、


一劫は274,400,000,000,000,000,000,000 × √2 = 388,000,000,000,000,000,000,000 年くらいだろうという計算結果となりました。


※ここまで適当に計算していますので、間違いあればご指摘ください

それにしても、このケプラー予想問題は、問題自体は単純でありますが、球を積むときにはどのように積むことが一番充填率が高いのか、未だ完全に証明されていないということが面白いですね。
もしかすると、面心立方格子よりももっと充填率の高いつめ方があるかもしれないのです。

これは人類の永遠の課題なのかも知れません。

投稿者: kameno 日時: 8:30 AM | | コメント (0)

只管に土を運ぶ働きアリ

駐車場の一角にちょっとした土の山ができています。
山というと大げさでしょうか。高さ数センチ、幅1メートルくらいのものです。
この下はアスファルトなのですが、すっかり埋まってしまっています。

20090909-01.jpg

暫く観察していると、次々とアリたちが土の粒を運んでいます。
このようなことを何十日も繰り返し続けて山を築きあげたのでしょう。

彼等には、「おっくう」という概念は無いのでしょうね。
ただ、只管に土粒を運んでいます。

 
先月は、夏休み土曜塾で、地獄の一番深いところにある「阿鼻地獄」での刑期が「1中劫」であるとされていることを学びました。

この「劫」という時間の単位は、仏教的数学観におけるきわめて長い時間の単位です。

具体的には1辺1由旬(だいたい7km程度だと考えられる)の大岩があり、そこに100年に一度、天女が降りてきて衣の袖でその表面をなでる。そんなことを繰り返してついにその岩がすりきれ無くなるまでの時間を一劫といいます。

これは、『雑阿含経』に記述される「磐石劫」の概念とされています。

劫には、もう一つの概念があります。
「芥子劫」と呼ばれるものです。


それは・・・1辺1由旬の城に芥子粒を満たし、100年ごとにそれを1粒づつ取り出して、芥子粒が空になるまでの時間・・・・・とされています。

ちょうどアリたちが運んでいる土粒が、芥子粒くらいの大きさですので、そんなことが頭に浮んできました。

20090909-02.jpg  

アリが一回に運ぶ量はごく僅かです。
しかし、それを只管繰り返すことにより、眼に見える成果となり、時には 蟻の巣は雨の日どうなるの? の記事でご紹介したオーストラリアのアリたちのように巨大な建造物を造りあげることもあります。

「おっくう」という言葉は、漢字で書くと「億劫」となりますね。
1辺1由旬の城に芥子粒を満たし、100年ごとにそれを1粒づつ取り出して、芥子粒が空になるまでの時間のさらに一億倍という、とてつもない時間の概念です。


もしも、最終目的の巨大構造物と、一回の土粒の運搬量を比較して考えてしまうと、それこそ「おっくう」になってしまい、はじめの一歩を歩みだすことすらできなくなるかも知れません。

けれども、アリたちはそんなことは全く考えず、ただただ土粒を運びます。
そして気がつくと、大きな蟻塚が出来上がっている。
ただそれだけのことなのですね。


何事も「おっくう」がらずに、まずは一歩足を進めてみなさい、そんなことを教えてくれているようです。
そこから何かがきっと生まれてきます。

投稿者: kameno 日時: 11:11 PM | | コメント (0)

地図から見える中華街・象の鼻

地図を過去に遡っていくと、街がどのように形成されていったかが明確に判ります。

例えば横浜中華街がなぜ周囲の街区と異なった方向を向いているのかということも見えてきます。

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よく言われることは、中華街は当時の中国人が風水思想に基づいて、わざわざ東西南北の街区として区画を整備したというものですが、街の形成を時系列に辿ると、これが間違いだということが判ります。

その謎解きをされたのが横浜開港資料館・伊藤泉美さんです。


伊藤さんは、中華街が他と違った街区を形成している理由として次の3つをを提示しました。


■理由1:土地の高低差
現在の中華街エリアは「横浜新田」と呼ばれた一帯でした。
横浜新田とその周囲の土地との高低差が一つ目の理由。


■理由2:立ち退きを迫られた村民の思い
横浜新田が「外国人居留地」に指定されたため、この地区に住んでいた村人たちは土地を幕府から立退きを余儀なくされました。立退一時金給付査定のために従来の田畑の区画形状が残された。

■理由3:偶然東西南北に区画割された土地を華人が好んだ
関内地区は海岸線にあわせた街路のため、東西南北に沿っていない。
しかし、現在の中華街エリアだけは上記理由で東西南北の街区ができている。
風水を重んじる中国人は、あえてこの場所を居留地として選んだことが考えられる。


横浜開港150年企画(横浜中華街公式サイトへ)
横浜開港資料館
横浜中華街 おいしさネットワーク


これを踏まえてさらに、様々な古地図を検証していくと、横浜新田が川と堀に囲まれていた地形であり、堀と川と新田の田んぼ道がそのまま、現在の中華街の街区となっていることがより明確に判ります。

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横濱村外六ケ村之図 安政6(1859)
図中の赤字はkameno記載

この横濱村外六ケ村之図と、1/20,000地形図 横浜(明治39年測図41年製版)を重ねて作成してみました。
(こちらの図は上が北となります)
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中華街のみならず、江戸時代の地形が、現在の街区に大きな影響を残していることがわかります。


開港以前にあった「象ケ鼻」は、その場所が埋立てられ第一代横浜駅(現在の桜木町駅周辺)となりました。

投稿者: kameno 日時: 9:40 AM | | コメント (0) | トラックバック (1)

横浜港の七不思議講演会

港南図書館を会場とした歴史講座が開催されました。
前回は私が勤めさせていただきました


今回第2回目開催も横浜開港150周年記念として「横浜港の七不思議」をテーマに、田中祥夫さんによる講演が行なわれました。
主催は港南歴史協議会です。

今回も応募に対して抽選となるほどの反響があり、会場は満員となりました。

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講演内容は、自身の著書『横浜港の七不思議』をもとに横浜港にまつわる謎解きをしていく講演でした。

その謎とは・・・・・

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(1)「象の鼻」の不思議
大桟橋の根元にある「象の鼻」。
この波除堤は、安政6(1859)年に造られた2つの突堤(東波止場・西波止場)を、慶応の大火災後に延長し、従来まっすぐだった突堤を、象の鼻のような形に変えたものです。
しかし、何故そのような形で曲げられたのでしょうか。


(2)横浜築港の不思議
横浜港は日本の重要な貿易港でありながら、開港から約35年間も外国船が横付けできず、沖合いに停泊し艀から荷物や人を積み下ろす状態が続いた。
なぜ築港がこれほどまでに遅れたのでしょうか。

(3)大桟穂の不思議
開港から25年経過し、ようやく明治27年に鉄桟橋(現在の大桟橋の前身)が出来上がる。
この工事費がどこから来たかというと、長州藩か攘夷に走った下関事件で日本が列強国に払わされた賠償金を、アメリカ政府が返還したものが大桟橋建設の原資となったのです。
一度支払われた国家賠償金が、なぜ何年も後に、しかも賠償額そのままきっちり返還されたのか。


(4)「メノリケン波止場」の不思議
「象の鼻」は、かつてイギリス波止場の通称があった。
その先端に築造された鉄桟橋(大桟橋の前身)が、なぜメリケン波止場と呼ばれるに至ったのか。


(5)石造ドックの不思議
旧横浜船渠会社(通称横浜ドック)のドック築造には、外国人技師ではなく、佐世保軍港の日本人技師・恒川氏がその設計に携わった。
なぜ、日本人を、そして恒川氏が選ばれたのか。


(6)新港埠頭の不思議
大正3年に出来た新港埠頭により、横浜港の機能は格段に向上した。
この築造工事は大蔵省により行なわれた。
通常、港の土木事業は内務省土木局が行なっていたが、なぜ内務省でなく大蔵省で行なわれたのか。


(7)「横浜市歌」の不思議
横浜市民に親しまれている「横浜市歌」は、開港50周年の年に森鴎外により作詞された。
森鴎外は、市歌としては浜松市と横浜市のみ作詞している。
なぜ、森鴎外が横浜市歌を作詞することになったのか。


横浜港にはたくさんの謎が隠されています。
田中氏は、 梅原猛氏の『隠された十字架―法隆寺論』 (新潮文庫)にある「法隆寺の七不思議」になぞらえて、「横浜港の七不思議」として、謎をとりあげ、その謎解きを展開していきました。

謎解きの種明かしはここでは行ないません。
興味ある方は是非氏の著書をご購読ください。

また、今回の講演の内容は、神奈川県内全域のケーブルテレビで放送されます。
9月1日(火)夕方6時からの「「デイリーニュース」にて1分ほどの紹介、さらに、10月26日?11月1日までの「TVフォーラム」(ケーブル局により放送時間は異なります)にて、講演内容を1時間に編集して放映される予定です。


 


 

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『横浜港の七不思議』
田中祥夫:著
新書判/248頁
1,050円(税込)
ISBN:9784896602005


◆著者略歴◆
田中祥夫 (たなか よしお)
1931年東京生まれ。早稲田大学第一理工学部建築学科卒。 横浜市役所に勤務し、街づくりや住宅計画に携わる。 1991年「明治前期における建築法制に関する研究」で日本都市計画学会賞(論文)受賞。

東海大学大学院、関東学院大学で非常勤講師をつとめ、 現在、国土交通省中央建設工事紛争審査会委員。 工学博士。 著書に、『ヨコハマ公園物語』(中公新書)、『神奈川県建築史図説』(共著/神奈川県建築士会)など。

投稿者: kameno 日時: 12:21 AM | | コメント (2)

四十九日は御霊前か御仏前か

皆さまは、四十九日の法事・法要に参列するときには「御仏前」、「御霊前」どちらの熨斗袋をお持ちしますか?

ここで、興味深いことが判りました。

市販されている「冠婚葬祭マナー集」や、ネットで公開されている「マナー集」では、「御仏前」、「御霊前」 両説入り混じっています。

 

■「御仏前」説の例

通夜から三十五日の法要までなら、不祝儀袋に「御霊前」と表書きするか、そう書かれた不祝儀袋を使います。
冠婚葬祭ホットライン より引用)

 

■「御霊前」説の例
49日の忌明け後の法要までは「御霊前」、それ以後は「御仏前」もしくは「御佛前」を用いる。
(生活知恵袋 より引用)

 

四十九日法要での熨斗袋の表書きは「御霊前」「御仏前」両説入り乱れていますね。
どの冠婚葬祭マナー集を見ても、大抵はこのような2通りの回答のどちらかが書かれています。

だいたい割合としては、やや「御仏前」優勢といった感じでしょうか。
それでも「御霊前」とするマナー集もかなりの割合を占めています。

ここで、死を迎えてから行われる法要について整理して考えてみます。

世間一般常識とされているものは、七七日(四十九日)に御霊前と御仏前の境界線が引かれています。
四十九日法要での熨斗袋の表書きが「御霊前」「御仏前」なのかは、どの時点で「仏」になるかということの考え方によるものです。

 

■死を迎える

■枕経

■通夜

■葬儀
・引導

■初七日
■ニ七日
■三七日
■四七日
■五七日
■六七日
■七七日(四十九日)
・位牌開眼
■納骨(納骨時期は施主により異なる)
■初盆
■百か日
■一周忌

 

以前のブログ記事 年回法要にまつわるお話 も併せてご参照ください。

 

宗派による違いも見られます。
例えば、浄土真宗などでは、死を迎えると直ちに成仏するという考えですから、■死を迎える の時点から「御仏前」がマナーですね。

では、曹洞宗はというとどのように考えたらよいでしょうか。

私見を書かせていただくと、

(1)葬儀の「引導」により成仏がなされ
(2)四十九日法要で、(既に仏となっていることを前提として)正式な位牌開眼を行う

ということですから、引導を渡した瞬間、あるいはその後直ぐに仏となり、四十九日には既に仏となっていると考えてよいのではないでしょうか。
世間一般常識よりは前の時点ということになります。

すると考えると、枕経、通夜、葬儀開式前にお持ちするのなら「御霊前」、引導が渡された瞬間からは「御仏前」でも良いということになるでしょう。

実際には、初七日から参列される方は殆ど居ないと思われますし、次に参列される機会といえば、四十九日法要であるでしょうから、「御仏前」として良いという考えです。

 

なお、この「御霊前」「御仏前」という考えは、宗派のみならず、地方により大分考えが異なることもわかりました。
時間があれば、その差異について纏めてみたいと思います。

「御霊前」「御仏前」の違いは、場合によっては失礼にあたる可能性がありますから、 もし、「御霊前」「御仏前」どちらをお持ちするのが不明である場合は、「御香典」としてお持ちするという方法もあります。
これなら、どちらとしても通用します。

投稿者: kameno 日時: 9:26 AM | | コメント (7)

港南区の炭鉱と戦争の影

港南区には、かつて炭鉱がありました。
まずは現在の上大岡周辺を当時の地図で確認してみましょう。
明治時代の地図には炭鉱標記が見られませんので、明治末期から大正期に出来た炭鉱であることがわかります。
(上大岡駅周辺はまだまだ田んぼと畑が広がっていたのです)
また、米軍の地図にも記載されていることから戦後暫く採掘されていたようです。

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(地形図・戸塚・大正10(1921)年測量,大正14年発行)

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(米軍Army Map Service: Japan City Plans TypeF 1946 / Lignite mineの標記があります)

炭鉱といっても良質の石炭が生産されたわけではなく、亜炭と呼ばれる木質系の燃料です。

亜炭(あたん、英: lignite)とは石炭の中でも、最も石炭化度が低いものをいう。地質学上の用語としては褐炭が正しいが、日本においては行政上の必要からこの語が用いられる。
品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、仙台市・名古屋市、または長野市など大規模?中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 


港南区内には最戸、日野、野庭町など炭鉱がありました。
神奈川新聞(平成8年6月4日版)にはそれぞれの炭鉱について次のような体験談が掲載されています。


最戸の炭鉱⇒「千手院のがけで大正のころ掘っていた。炭鉱員が仕事を終え帰った後、ひそかに坑内のトロッコで遊んだ」「戦中もよそから来た親子二人が別のがけ(県戦没者慰霊堂前)で数年間掘った」「低温で石炭のように炎が出ない。燃えかすが多くて、臭かったな」

野庭の炭鉱⇒「明治のころ、上野庭(現野庭町の南側)で掘った。日野の吉原(現日野二丁目)でも大正期のころ掘った。知る人は地元でももうわずかだ」「祖父から、穴は奥で2つか3つに分かれていると聞いた。コウモリがいた。私は怖くて奥まで入れなかった」
 


港南区の亜炭炭鉱についての特徴をまとめると次のとおりです。

(1)港南区最戸、日野、野庭町、戸塚区下倉田町に広がっている
(2)亜炭の採掘は大正7、8年ごろ及び戦時中が最盛期
(3)つるはしを使っての手掘り。
(4)亜炭層は30-35センチの厚さ。空気穴(立て坑)を二本掘り、横穴を約1000メートル掘った。
(5)亜炭層は緩傾斜にあり坑道は横穴だった
(6)亜炭を運び出すため農道拡張、トンネル掘りも行われた
(7)明治末から大正期に採掘されたが、一部は戦時中に燃料不足のため再び掘られた。

 

このうち、戦時中の横浜鉱山(最戸町)についてさらに詳細を紐解いてみます。

大正期にも採掘が行われていたが、さらに拡大生産するため昭和15年試掘開始、昭和17年より操業
鉱山主は東燃料工業株式会社
神奈川県では最初の大規模な亜炭鉱山
坑道の入口は大久保新地。
左坑道100間、右坑道 30間の2つの水平坑道があった
鉱夫10名が日産10トンの亜炭を産出


当時使われていたトロッコは木枠の箱で車輪は鉄だったようです。
写真は昭和17年に撮影された横浜鉱山坑道の入口(最戸町大久保新地)です。

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昭和17年当時の新聞には「横濱の眞中に鉱山?亜炭が続々・注文殺到」との見出しが付けられています。

(昭和17年に東燃料工業が)掘出すと同時に石炭の殆ど手に入らぬ現在、各方面から注文が殺到する。
県では亜炭が産出するといふのは初めてのため、マル公(注1)はもとより9・18停止価格令(注2)にも載っていないため、亜炭の二大産地に問合わせ慌てていまマル公算出中だといふ。
ここから産出する亜炭は木質で4200カロリー、平均で3700カロリーで、石炭の6000カロリー以上と比べて遥かに及ばぬが、常磐炭の四級品程度、普通工場のボイラー程度なら十分使用できるし、山形、岐阜等から高い輸送費をかけて移入するのと違ってリヤカーで20分もすれば市の中心地に運べるのだから採算は十分とれるとあり、鉱夫10名とは一寸飯事のような鉱山ながらなかなか活気づいているのは正に燃料国策時代、現場監督談。

(注1 マル公:日中戦争下の価格等統制令および第二次大戦後の物価統制令による公定価格)
(注2 価格等統制令=昭和14年勅令第703号)
(昭和17年6月の新聞記事より引用、脚注kameno付記)


日本には資源はまだまだ豊富にあるのだという大本営発表的な意図も含まれている可能性はありますが、資源入手が困難な時期にあっての亜炭産出はよほど貴重なことであったことがうかがい知れます。

 


 
亜炭の生産を見ていくと、その背景には戦争の影、戦局が常につきまといます。
これだけ亜炭が産出された背景には、工業化の進展による燃料の確保、そして戦中に有っては燃料の輸送事情が悪化したことによるものです。


日本が大東亜戦争に突入せざるをえなくなった主因は、米軍などにより石油など工業生産に不可欠な石油輸送を封鎖されてしまったことにあると言えましょう。

例えば、1920年代から1930年代において立案された米国海軍による オレンジ計画(War Plan Orange) では、米国が制海権を握り、日本の海路を抑える作戦が取られています。

大東亜戦争開戦に至るまでににおいては、日本の石油供給を止めるために米国は

1939(昭和14)年 米国航空用ガソリン製造設備、製造権の対日輸出禁止
1940(昭和15)年 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
1941(昭和16)年 日本の対米資産を凍結、石油が禁輸となる
など徹底的な資源封鎖を講じました。
対し、日本は石油資源を賄うために、当時のオランダ領や英領などであった南方植民地に侵攻して石油を得る手段をとりました。
これが開戦の大きな契機となったのです。

さて、もう1つの石油に代わる資源の入手手段として有力視されたのが人造石油です。
昭和12年「人造石油製造事業法」「帝国燃料興業法公布」が制定され、石炭から人造石油を製造する方法が研究され、一部実用化されました。
しかし、その生産量は僅か70万キロリットル程度に留まり、充分な燃料を供給するには程遠い状況でした。


大戦における戦術として、連合軍は徹底的に南方から輸送される日本軍のタンカーを攻撃していきましたので、この石油資源の枯渇が戦争の敗因の大きな要因となったといっても過言ではないでしょう。


戦時中は稀少な石炭石油資源は主に戦争のために使われることとなったため、資源が不足し、工業生産の補助資源として、家庭用として亜炭が着目されたのです。

戦局がさらに悪化すると、亜炭のみならず松根油の生産まで行うようになりました。


港南区にあった亜炭炭鉱という局所的な史実から、大東亜戦争・太平洋戦争のマクロ的局面の一端も伺い知ることができました。

すなわち、エネルギー供給の動向が戦争を行う主要な契機となりうり、また戦局を決定付ける大きな要因となったということは、現代社会においても、いや現代社会だからこそ深刻に受け止めなければならない教訓であるといえます。

現状、日本はどれほどのエネルギーを自給しているのでしょうか。
日本の経済を支えているエネルギーは、どのように賄われているのでしょうか。
他の国々、特に隣接国は?

エネルギー政策は一国の運命、ひいては地球全体の運命も左右するということを心しておく必要がありそうです。
平和な世の中を支えている土台は意外に脆いものなのかも知れません。

投稿者: kameno 日時: 3:02 AM | | コメント (4) | トラックバック (1)

施餓鬼法要雑考2

先の記事の続きです。

施食会(施餓鬼会)における餓鬼について考えて見ます。

曹洞宗で施餓鬼会が施食会と改められた理由には様々あろうかと思いますが、例えば
・亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんは餓鬼と成ってしまっているの?などという檀家さんからの疑問
・私たちも死後に餓鬼になるかもしれない?
・餓鬼に施すという「上から目線」は如何なものか
・そもそも餓鬼道とか畜生道とか地獄とかいう六道輪廻思想なんてナンセンス
・餓鬼という発想自体が人権問題にかかわるのでは?

このような感じでしょうか。
その根底には「餓鬼」ということばを避けて通りましょうという考えが見受けられる気がします。
 


そもそも、餓鬼って何でしょうか。

餓鬼[preta]
サンスクリット原語は元来(死せる者)(逝きし者)を意味し、ヒンドゥー教では死後一年経って祖霊の仲間入りする儀礼が行われるまでの死者霊をさす。その間、毎月供物を捧げて儀礼が行われるが、もしこうした儀礼が為されない場合は、pretaは祖霊になれず、一種の亡霊となる。
仏教でも死者霊としての用法はあって、閻魔の住所たる地獄へ行ったり人に憑いたり、生者からの供養をうけて望ましい世界に生まれ変わることを願ったりする。
また中国から日本では、新仏の供養と同時に有縁無縁の三界万霊への供養が合して、施餓鬼会の伝統が発展し、今日に至っている。<後略>
岩波『仏教辞典』中村元他編、岩波書店より引用 

現在の施餓鬼法要は、様々な経典、思想が混在して形成されています。
・中国南北朝時代に行われていた水陸会
・仏説盂蘭盆経
・仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経
・地水火風空の五輪思想
・御霊信仰
   ↓
・日本古来の魂祭り(たままつり)
などなど。

民間祖霊信仰に仏教的思想が有機的に交錯し、施餓鬼会の要素を形成している訳でありますので、そのどれか1つが欠けたとしても施餓鬼とはなりえないといえます。
例えば施食会(施餓鬼会)法要の差定から大悲・甘露門を省略してしまったら、只の先祖供養、新亡供養となってしまいます。

さて、ここで前回のブログ記事より、施食会(施餓鬼会)法要の後半の部分を改めて見てみます。

餓鬼 に向けられた法要 (甘露門)
  ↓
[普回向)
願以此功徳 普及於一切 (願わくは この功徳をもって あまねく一切に及ぼし) 
 ↓
我等與衆生 皆共成仏道 (我らと衆生と みな共に仏道を成ぜんことを)
 ↓

当山亡僧法界亡僧伽等
当寺開基
万国殉難者諸精霊
・・・・・
檀信徒各家先亡諸精霊
・・・六親眷属七世の父母
有縁無縁法界の含識等

へ向けられた法要 (修証義)

 
さて、この[普回向]の中の

「この功徳をもって」というのは、餓鬼供養も含めた施しのこころによる功徳を以って

「我らと衆生と みな共に」というのは、生きている私たちも、亡くなられたご先祖さんも含めて、みな遍く平等に

ということになるでしょう。
だからこそ、甘露門と修証義の間に普回向が読まれ、餓鬼供養から付施食への流れとなるのだといえます。

「我らと衆生と みな共に」は、さらに言えば

存者福楽寿無窮(存者は福楽にして寿きわまりなく)
亡者離苦生安養(亡者は苦を離れて安養に生ず)

ということでもあります。


餓鬼というとなにか差別的な思想が含有されているように思えますが、決してそうではなく
・死せるもの全般をさす
・供養を受けていない御霊
・飢饉、戦乱、災害、大火などにより亡くなられた多くの方々
・私たちの中に貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)から生じる煩悩の心


といった複合的な概念のものなのですから、餓鬼への回向は、むしろ私たち自身にも向けられているものであるということを認識することも大切でしょう。
単なる施しを行う法要ではなく、自らを省みる機会としたいものです。


餓鬼というと「餓鬼草子」に描かれた餓鬼がイメージとして定着しています。

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東京国立博物館蔵 餓鬼草紙(平安時代・12世紀)より部分


この姿はあくまでも象徴的なものであって、物質的に豊かになったように見える現代社会においても、内面を映し出す鏡を通して私たちを見るとこのように見えるのかもしれませんね。


施食会(施餓鬼会)法要で最後に読まれる修証義第2章は次のように完結します。

我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔 是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり 心念身儀発露白仏すべし 発露の力罪根をして 銷殞せしむるなり

(我れ昔より造れるところのもろもろの悪業は、皆いつとも知れず我が身にまつわりついている貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚(おろか)さの妄想が原因である。他から来たのではなく、すべて我が身、我が口、我が意(こころ)から生じた罪過である。わたくしは今、仏の前に一切を懺悔する。このように懺悔すると、必ず仏祖は目にみえぬお力をかしてくださるのである。だから、仏祖の慈悲を心に念じ、端坐合掌、懺悔の文を口に唱えて、一切を告白するがよい。自分をさらけ出し、投げ出すまごころの力は、必ずや罪過をつくり出す根ともいうべき貪瞋癡の妄想を消滅せしめ、清浄なる心境に至らしめてくれるのである。懺悔こそ新生の第一歩である)


このように見ていくと、施食会(施餓鬼会)法要で、いかに餓鬼供養の部分が重要な役割を担っているかが良くわかると思います。

時期を問わず行われる施食会(施餓鬼会)はもとより、盂蘭盆施会食会(施餓鬼会)については (随時行われる)施餓鬼+(お盆の時期に行われる)付施食 のどちらが欠けても施食会(施餓鬼会)法要とはなりえないのです。 

餓鬼とは何かを考えてみると、施餓鬼会を容易に施食会に改めてしまったこと、餓鬼の説明を避けてしまっていることについて問題点が見えてくるかもしれません。

煩悩の心に毒された私たちを省み、生きているものも、どんなに苦しい状況にある御霊(みたま)も、全てに広く平等に苦を離れて安楽を得る事ができますよう願う・・・・これほど平らかで思いやりの志を持った法要が他にあるでしょうか。
施食会(餓鬼会)法要の持つ意味を改めてかみしめてみたいものです。

投稿者: kameno 日時: 10:17 PM | | コメント (0)

施餓鬼法要雑考

http://teishoin.net/blog/001671.html

教区寺院の施食会行事も半数の寺院が終わり、今日あたりが丁度折り返し点となります。

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丁度良い機会ですので、施食会について振り返ってみましょう。

施食会(せじきえ)は、従来は施餓鬼会(せがきえ)と称されておりましたが、曹洞宗では行持軌範の改定により施食会と称するようになりました。
ただし、従来とおり「施餓鬼会(せがきえ)」あるいは「お施餓鬼(おせがき)」と称している寺院も多くあります。
貞昌院においても施餓鬼会法要としています。

ここで、各宗派の公式ホームページより、行持の呼称と説明を見てみましょう。

宗派 呼称 説明 (公式Webサイトより引用)
曹洞宗  施食会(せじきえ)

お盆の施食会の法要は、曹洞宗にとって大切なもので、祖先、父母、親類、縁者の精霊、または無縁の精霊に供養するために、各お寺で勤められるのです。

天台宗 施餓鬼会(せがきえ) 施餓鬼、お釈迦さまの弟子の阿難尊者が、餓鬼に「おまえの命はあと3日である。死んだ後は餓鬼の世界に生まれ変わる」と告げられたことをお釈迦さまに相談し、「餓鬼に飲食を施しなさい。そうすれば汝も延命がかない、餓鬼も苦しみをまぬがれて天上に生まれることができる」と教えを受けたのに始まります。 法要は施餓鬼壇を設け、五如来の幡をかけて、三界万霊、すべての精霊をまつって修されます。餓鬼に食べ物などの施しをして、先祖供養をするとともに、自らも餓鬼の心を起こさないように自戒する機会です
真言宗(智山派
施餓鬼会(せがきえ) お施餓鬼の由来は、『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経(ぶっせつぐばつえんくがきだらにきょう)』に説かれる物語です。この物語の主人公は、お釈迦さまの身の回りの世話をし、お釈迦さまのそばで一番多くの教えを聞いたので「多聞(たもん)第一」といわれる、「十大弟子」の一人、阿難(あなん)尊者です。
ある日、阿難尊者が一人修行していると焔口(えんく)という餓鬼が現れ、「阿難よ、お前の寿命はあと三日で尽きる。死んだ後は餓鬼道に堕ち、私と同じような醜く恐ろしい姿の餓鬼になるだろう」と告げました。びっくりした阿難は餓鬼に、「どうしたらその苦をのがれることができますか」と尋ねます。すると餓鬼は答えました。「明日の朝、無数の餓鬼とバラモン(司祭者)に、多くの飯食(おんじき)を布施しろ。そうすれば、その功徳によってお前の寿命は延び、私も餓鬼の苦を離れ、天上に生まれることができるだろう」。しかし、そんなに多くの飯食を一晩で用意することはできません。困った阿難はお釈迦さまに助けを求めました。するとお釈迦さまは、施餓鬼の陀羅尼(だらに)を示し、「心配しなくてよい。この陀羅尼を唱えながら食物を布施すれば、無数の餓鬼、そしてバラモンに心のこもった施しをすることになるだろう」と教えました。そして阿難は、この教えのとおり餓鬼に布施をして、無事に死をのがれ、餓鬼は苦しみから救われたのでした。
ここに出てくる餓鬼とは、地獄・餓鬼・畜生という「三悪趣(さんあくしゅ)」の一つで、飢えと渇きに苦しむものをいいます。
餓鬼は、水を飲もうとしても水が血の膿となって飲むことができず、喉が針のように細いので食べ物を飲み込めない、そして口から火を吐いているので食べ物が燃えて口に入れることすらできないのです。
限りない物欲(ぶつよく)を象徴しているのが餓鬼です。そして阿難尊者が見たものは、自分の心の中にある物欲にほかなりません。物欲に支配されていると、自分本位に走り、人を差別したり、傷つけたりします。そこでお釈迦さまは、物欲に支配された醜い心を洗い、清らかにしていく手だてとして、布施の修行を示したのです。
このように、私たちが生きていく上で避けて通れない「食欲」をたとえにして、「もの惜しみをせず」人間らしく生きていく道を教えてくれるのが、お施餓鬼の法要なのです。
臨済宗・黄檗宗(臨黄ネット) 山門施餓鬼会(さんもんせがきえ)

盂蘭盆会(うらぼんえ)の当日に行なわれる施餓鬼をいうため、盂蘭盆会、大施餓鬼会ともいいますが、ここで、盂蘭盆会と施餓鬼会は本来、別法要であることを知っておかねばなりません。
盂蘭盆会の起源は、『仏説盂蘭盆経』にあります。目連尊者(もくれんそんじゃ)が、餓鬼道におちた母を救い出すためにお釈迦様に教えを乞いました。するとお釈迦様は、7月15日の自恣(じし)の日 (夏安居(げあんご)の解散日)にあらゆる僧侶に供養を施せば、必ずその功徳によって母を救え、また他の亡者にも利益が大きいというお示しを与えられ、目連尊者がその通りにされたことに起源を発するものです。
施餓鬼はこの盂蘭盆とよく似ていますが、因縁は全く異なります。それは、同じくお釈迦様の弟子、阿難尊者(あなんそんじゃ)が禅定(ぜんじょう)に入られているとき、餓鬼が現われて尊者にいうに、「尊者は三日後に命尽き、わが餓鬼道に生まれ変わる。それを免れたいのなら、無量無辺の餓鬼と百千の婆羅門(ばらもん)に無量の飲食を施し、また我が為に三宝を供養したならば、必ず自他ともに、天上にのぼることができるであろう」と。お釈迦様にその方法をお尋ねしたところ、お釈迦様は施餓鬼の法を授け、阿難尊者が初めてその利益を受けられたことを、数説あるうちでも代表的な起源としています。つまり、施餓鬼会は、盂蘭盆会のように日付が限定されていないのです。
しかしながら、いつの時代にか、この二つの法要が似ていることなどから、違いが曖昧になり、盂蘭盆会と施餓鬼会を混同するようになったと思われます。また、古くからの土着信仰としてのお盆の先祖供養とも交わってしまったのでありましょう。

日蓮宗(本門寺) 盂蘭盆施餓鬼会(うらぼんせがきえ) 参列する檀信徒と共に読誦唱題をささげて、各家先祖代々の霊、新盆の霊、戦争災害、交通事故等殉難の霊、法界万霊に供養の心を捧げます。
お盆はお釈迦様の十大弟子の一人、目連尊者が餓鬼界で苦しむ亡き母親をお釈迦様の教えに従って雨安居(雨季の間、一定の場所に留まって僧侶が修行すること)が終わる7月15日に大勢の僧侶に施しをして、亡き母を供養してもらい、餓鬼界から救われたことに由来しています。
花や線香を手にした参詣者は、墓前において手を合わせ、感謝の誠を捧げます。
浄土宗 施餓鬼会(せがきえ) 「おせがき」は、「施餓鬼会(せがきえ)」「施食会(せじきえ)」などといわれ、各宗派を通じて行われる仏教行事の一つです。
その由来は、『救抜焔口餓鬼陀羅尼経(くばつえんくがきだらにきょう)』というお経によるといわれています。
それによると、釈尊の十大弟子の一人である、阿難尊者(あなんそんじゃ)が、ひとりで瞑想している時、口から火を吐く一人の恐ろしい餓鬼があらわれ、「お前は3日後に死んで、我々と同じ恐ろしい餓鬼道に落ちる。」と言いました。恐れおののいた阿難尊者が、どうしたらそれを免れることができるかを尋ねたところ、その餓鬼は、「その苦から免れたければ、三宝(仏・法・僧)に供養しなさい。また無数の餓鬼たちに食物を(ほど)こして供養した功徳(くどく)により、餓鬼も救われ、その功徳によってお前も救われるだろう。」と答え、姿を消しました。
阿難尊者は、釈尊に教えを請い、寿命を延ばすことのできた阿難(あなん)の説話にもとづく行事である。
その求めに応じて釈尊が示された修法が施餓鬼会のはじまりとされています。そして餓鬼だけでなく、先祖代々や広く無縁の諸精霊(しょしょうれい)を供養し、また同時にみなさん自身の福徳延寿(ふくとくえんじゅ)を願うわけです。
ぜひこの施餓鬼会の機会に、心からお念仏を称(とな)え、自他ともに救われる功徳(くどく)を積んでいただきたいものです。
本来、施餓鬼会の期日は定められていませんが、お寺の年中行事のひとつとして、お盆の頃におこなわれることが多く、施餓鬼棚に「三界万霊牌」や初盆の戒名を記した位牌を置き、浄水や食物を供え、五如来の「施餓鬼幡」を立てて法要を営むのが習わしです。
施餓鬼会は、新亡の霊や先祖代々の諸霊を供養するとともに、無縁仏や餓鬼に施しをする法要でありますが、さらに日頃の自分自身に巣くう「餓鬼」の心を反省し、自他ともに生かされている身をしっかり受け止め、救われる功徳をお互いに積んでいくことが大切なことであります。
今日ではお盆の前後に行われることが多く、先祖追福のために、また一切の生物の霊を慰め、あわせて自分自身の福徳延寿(ふくとくえんじゅ)を願う法要である。
浄土真宗 ---  


施食会としているのは曹洞宗だけですね。
(それはそれで良いのですが、それならば少し説明が簡素すぎる感がありますし、「餓鬼」についても触れたほうがいいとも思います)


施餓鬼会(施食会)法要の差定(式次第)は、各宗派、地域により大きく異なります。

曹洞宗神奈川県第五教区でのスタンダードな差定を改めて検証してみましょう。
※差定は行持軌範「盂蘭盆大施食会」項、一般の恒規大施食会・・・の差定に則ります。

殿鐘三会・七下鐘導師上殿 回向の対象
上香普同三拝(置茶湯)  
読経(般若心経)
本尊上供回向
普同三拝
part1

釈迦牟尼仏
現座道場本尊
高祖承陽大師(道元禅師)
太祖常済大師(瑩山禅師)
転班・南面    

鼓ハツ三通  
拈香法語

読経(大悲心陀羅尼)

読経(甘露門)
・奉請三宝 (仏法僧の三宝を請い奉り加護を願う)
・招請発願 (行者が菩提心を発す)
・雲集鬼神招請陀羅尼 (法界一切の餓鬼が集まるよう願う)
・破地獄門開咽喉陀羅尼 (地獄の門を開き、餓鬼の喉を広げる)
・無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼 (供物を如来の光明で加持する)
・蒙甘露法味陀羅尼 (一滴の水を甘露に変える)
・毘盧舎那一字心水輪観陀羅尼 (甘露の水を大海のごとくにし、施す)
・五如来宝号招請陀羅尼 (無量の罪を滅し、無量の福を生じ、恐怖を無くし、飲食物を施す)
<五如来焼香>
・発菩提心陀羅尼 (苦を脱した餓鬼に菩提心を発すよう促す)
・授菩薩三摩耶戒陀羅尼 (餓鬼に三昧耶戒を授ける)
・大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼 (悪道への堕落を止め、天道を開く)
・諸仏光明真言灌頂陀羅尼 (五色の光明を照らし苦に生きる衆生を救う)
・(撥遣解脱陀羅尼) (餓鬼を送り出す)

普回向

part2

餓鬼

読経(修証義)
<参列者焼香>  
施食会回向  
鼓ハツ三通  
part3

当山亡僧法界亡僧伽等
当寺開基
万国殉難者諸精霊
・・・・・
檀信徒各家先亡諸精霊
・・・六親眷属七世の父母
有縁無縁法界の含識等・
導師退堂・散堂  

 

このように、法要は大きく前半・後半の2つに、さらに後半が2つに分かれており、前半は北面法要(前後三拝)、後半は南面法要(前後鼓ハツ三通)となっています。
さらに後半の部分が2つのパーツから構成されておりますので、全体として3つのパーツにわかれているといえます。

それぞれの回向の対象は、

part 1 (本尊上供)

大恩教主本師釈迦牟尼仏、現座道場本尊、高祖承陽大師(道元禅師)、太祖常済大師(瑩山禅師)

part 2 (施餓鬼)

餓鬼

part 3 (付施食)

当山亡僧法界亡僧伽等、当寺開基・・・万国殉難者諸精霊・・・・天災地変横死者諸精霊・・・・檀信徒各家先亡諸精霊・・・六親眷属七世の父母、有縁無縁法界の含識等・・・・

となっています。


 

さて、よく言われるのが、施餓鬼(施食)会法要は、『仏説盂蘭盆経』と『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経との混用(盂蘭盆会と施餓鬼会を混同)ということです。
しかしながら、整理してみると、本尊上供 + (随時行われる)施餓鬼 + (お盆の時期に行われる)付施食 となっているのですから、混用というよりは併修という言い方のほうが適切でしょう。

曹洞宗では公式には「施食会」という呼称としていますが、押し並べて「施食会」という言葉だけを強調すると、檀家さんからは「この法要に参加すると、何か食事でも戴けるのでしょうか?」などという誤解も生じるかもしれません。
単に名称を変えることだけではなく、きちんとその理由を説明していく必要がありますね。

 

蛇足ですが、教区寺院の中には、part3 の 当山亡僧法界亡僧伽等を精霊棚ではなく、須弥壇にお迎えし、開山歴住とともに北面の本尊上供中で回向する寺院もあります。
その場合は、後半、南面の拈香法語や施食回向においては、当山亡僧法界亡僧伽等が省略されています。本来はそのようにするべきでしょう。
実際に施餓鬼(施食会)法要において、亡僧牌は須弥壇、精霊棚どちらにお迎えすることが多いのか、法語の中でどちらで読み込むことが多いのか気になるところです。



ということなどを考えながら、今日もこれから法要随喜に出かけます。

 ⇒記事は続きがあります
投稿者: kameno 日時: 12:07 PM | | コメント (2)

梅雨明けは訂正されるでしょう

気象庁は、今年2009年関東甲信地方の梅雨が 7月14日に明けたとみられる と発表しました。
これは平年より6日早く、昨年と比べて5日早いとのことです。


しかし、梅雨明け発表から今日まで雨の日が多かったように感じます。

そもそも、梅雨はその前後の時期と比べて雨が多くなるために日照が少なくなる季節現象です。
したがって、日照時間を毎日記録して精査すれば梅雨明けの時期が概ね判ります。

貞昌院の太陽光発電設備の生み出す電力量は、日照時間と相関関係にありますから、発電量の累計をグラフ化すると一目となります。

さっそくグラフで見てみましょう。

20090802-03.jpg
グラフの中の★印が、気象庁発表の梅雨明けの日です。
(2009年は速報)


このグラフから見ると、やはり7月14日が梅雨明けというのは、横浜について言えば早すぎるということが言えそうです。

おそらく、8月後半から9月前半あたりに梅雨明け日の訂正が発表されると思いますので、その発表を待って比較してみましょう。


太陽光発電量のグラフから判断するに、7月25日前後を境にグラフの傾きが大きくなっていますので、このあたりが梅雨明けと判断してよいのではないかと思います。

投稿者: kameno 日時: 11:42 PM | | コメント (4)

夜空に奔(わし)る道元禅師・瑩山禅師

今年は国際天文年ですので、星の話題を書いてみます。

太陽系には数限りない星があるわけですが、その中で断トツに数が多いのは小惑星です。
現在までに小惑星番号が与えられ、軌道が計算できる小惑星だけでも20万個を超えています。未知の小惑星も多いわけですから、毎年多くの小惑星が発見されています。

発見者に与えられた特典は、命名権です。
新しい小惑星であると正式に認められ、軌道要素が確定することにより小惑星センターで登録され、小惑星番号と共に命名が為されます。

小惑星名には発見者のような人名も多く、また発見者とは別の名前を付けることも出来るため著名人の名前も多くつけられています。

宗教者についても例にもれず


宗教者に因む小惑星名一覧

(89) ジュリア(コルシカのジューリア、5世紀の殉教者)
(1840) フス(ヤン・フス)
(5275) ズディスラワ(ズディスラワ・ベルカ (en)、13世紀チェコの聖人)
(6031) 良寛(良寛)
(6866) 空海(空海)
(7100) マルティン・ルター(マルティン・ルター)
(7256) ボンヘッファー(ディートリッヒ・ボンヘッファー、反ナチス活動を行った牧師)
(7674) 春日(春日了、僧侶、声学家、天文家、奇術師)
(8661) ラッツィンガー(ベネディクト16世の俗名)
(11064) 道元(道元)
(11254) 金光碧水(金光鑑太郎の雅号)
(15672) 佐藤範雄(佐藤範雄、金光教徒、教育者)
出典: ウィキペディア(Wikipedia)  人名に因む名を持つ小惑星の一覧 項


というように多くの名前が見られます。
東京のお寺でプラネタリウムを運営している住職さんの名前もありますね。

小惑星「道元」もあります。
そして、このウィキペディアのリストにはありませんが、小惑星「瑩山」もありました。
つまり、曹洞宗の両祖さまの小惑星が存在するのです。

11064 Dogen??????????Discovered 1991 Nov. 30 by M. Mukai and M. Takeishi at the JCPM Kagoshima Station.
The Japanese priest Dogen Zenji (1200-1253) built Eiheiji Temple in Fukui prefecture in 1243 in order to preach Zen Buddhism, and he fostered many disciples there. In Eiheiji Temple, over 200 monks still practise asceticism.
15790 Keizan??????????Discovered 1993 Oct. 8 by M. Mukai and M. Takeishi at the JCPM Kagoshima Station.
The Japanese priest Keizan Zenji (1268-1325) practised asceticism at the Eiheiji Temple in Fukui prefecture and built Sojiji Temple in 1321. Afterwards he built temples in various parts of Japan to spread Zen Buddhism.

この小惑星「道元」は1991年11月30日に、「瑩山」は1993年10月8日に、どちらも鹿児島市のアマチュア天文家である向井優さん、武石正憲さん両名の共同観測により発見されました。
まさに両祖さまが宇宙空間を旅されているわけです。

 

軌道要素はNASAのサイトによると下記のとおりです。

Element
11064 Dogen (1991 WB)
15790 Keizan (1993 TC)
e 軌道離心率
0.3274343
0.3168055
a 軌道長半径 AU
2.7503045
2.3606208
q 近日点距離 AU
1.8497605
1.612763
i 軌道傾斜角 deg
35.95032
22.86893
node 昇交点黄経 deg
79.13933
23.61418
peri 近日点引数 deg
314.75934
293.58811
M 平均近点角 deg
330.93593
152.63364
tp JED
2455135.0003858
(2009-Oct-30.50038580)
2454438.8244296
(2007-Dec-04.32442961)
period 周期 year
4.56
3.63
n 平均日々運動 deg/d
0.21608912
0.27174698
Q 遠日点距離 AU
3.6508485
3.1084785

 

軌道を計算により追尾してみると、小惑星「道元」は今年の9月?年末にかけて地球に接近することがわかりました。

道元禅師・瑩山禅師ご両尊の忌日である両祖忌は、9月29日ですので、その時の軌道計算もしてみました。

20090618-00.jpg

今年最接近するのは2009年11月15日前後で、その距離は 1.008AU(天文単位)となります。
太陽と逆方向に見えますので、観測するには都合が良いでしょう。

なお、小惑星 「瑩山」は太陽の向こう側にあるため、しばらくの間は観測が困難となっています。

では、この日小惑星 「道元」がどれくらいの明るさで見えるのかというと・・・絶対等級から勘案して概ね13等級となるでしょう。
20090717-05.jpg
(天文シミュレータソフト Stella Theaterにて作成:AM3:00ごろ南西の地平線近辺に見えるはず)

肉眼では観測不可能ですけれど、天体望遠鏡であれば見ることが出来そうです。

このように今年の両祖忌の前後にかろうじて見ることが出来ることになりそうですが、夜空にはまだまだ私たちの気づいていない未発見の数限りない天体があるかと思うとワクワクしますね。

投稿者: kameno 日時: 2:59 PM | | コメント (5) | トラックバック (1)

「眠雲」考

貞昌院客間に掲げられている勝海舟による「眠雲」の扁額について、よくその意味を尋ねられます。
折角の機会ですので、出典を辿りながら考えてみましょう。


20090716-01.jpg


扁額を書かれた勝海舟は、幕末から明治時代にかけて活躍した幕臣の三舟(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)の一人です。

幕末、徳川慶喜から戦後処理を一任された勝は、官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋を推薦するが、高橋は遊撃隊(慶喜の身辺警護にあたる)の隊長を務めており、江戸を離れることができなかった。代わりに推薦されたのが、高橋の義弟にあたる山岡であった。
慶応4年(1868年)3月9日、山岡は西郷との会談で、江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功した。その後、勝が単身で西郷と交渉、同年4月11日、江戸城は無血開城されることとなる。
江戸を戦火から救った勝、山岡、高橋の名前にいずれも「舟」がつくことから、この3人を「幕末の三舟」と称するのである。
(出典:Wikiペディア)


江戸城無血開城の年、徳川慶喜の家臣、陸軍総裁であった勝海舟の手下であった平野玉城が朝廷方官軍に追われ、この永谷の地に逃れる時点から歴史年表としてまとめてみました。



■永谷学校と勝海舟の書の年表

慶応 4(1868)年(明治元) 徳川慶喜の家臣、陸軍総裁勝安房(海舟)の手下、平野玉城が朝廷方官軍に追われたところを、現在の横浜市港南区下永谷で醤油醸造を行っていた福本宅にて助けられる。
明治 9(1876)年、一命を助けられた平野玉城は、命の恩人福本輿四郎宅を再び訪れた。その際村人よりに当地に滞在するよう懇願された。
明治10(1877)年 村民に推されて棲心庵学舎に第三級訓導として教職に就く。平野玉城が就任するや入学者が殺到し、庵が手狭になった。
明治12(1879)年 水田の権田ケ谷戸に永谷学校が新築された。平野玉城はその落成記念にかつての師、勝海舟に「永谷学校」の書をお願いし快諾の上贈与された。現在は永野小に保存。
明治22(1889)年 町村制が執行され、永谷、上野庭、下野庭の3村が合併して永野村となる。
明治22(1889)年 永谷学校と野庭学校が併合、永野学校(本校)、野庭学校(分校)。
明治24(1891)年 小学校設備準則により永谷学校が現在の永野小学校の位置に移転。
明治24(1891)年 平野玉城、鎌倉の長谷にて死去。
明治25(1892)年 野庭学校が村役場として永谷学校の隣に役所として移転。
明治30(1897)年 平野玉城7回忌の時、子息平野直吉(第一代永野小学校長)より玉城の分骨を得、貞昌院墓地に埋葬。
明治36(1903)年 平野玉城の徳を慕う人々により、13回忌が盛大に行わた。列席した直吉は感激し、貞昌院28世住職・亀野源量和尚(第四代永野小学校校長)に勝海舟の書「眠雲」を記念として贈呈。
現在その書は貞昌院の寺宝となっている。



20090716-02.jpg

永野小学校、貞昌院と平野玉城の密接な関係がわかると思います。


この関連として、以前書いたブログ記事や、貞昌院のホームページ勝海舟の書―永谷学校―(港南歴史協議会)でも勝海舟の書に関する記録を掲載していますので、是非あわせてご覧ください。


 

貞昌院に掲げられている勝海舟の書は「眠雲」と書かれています。

眠雲・・・山中に住むこと、雲の中や上で眠ること 『新大字典』(講談社)


眠雲とは、雲の中に眠ることということで、自然に囲まれた山深い地で、雲の中に眠り、大自然の懐に抱かれて俗世間の喧騒から離れた生活を送るという意味であります。


その出典の1つに「臥月眠雲」が挙げられます。

師紹定二年五月一日。在靈隱。受請入寺陞堂祝聖畢。就座。
僧問。呼猿洞口。無心臥月眠雲。長水江頭正好。?綸擲釣。只如靈山密付。還許學人咨參也無。
師云。崑崙嚼生鐵。・・・<以下略>
『虚堂録』巻1「興聖寺語録」


虚堂智愚禅師(1185?1269)は南宋時代、臨済宗松源派の禅僧です。
運菴普巌の法を嗣ぎ229年に霊隠寺より興聖寺(浙江省嘉興府)に晋住。その際の最初の上堂における問答の部分が上記の句です。
霊隠寺の呼猿洞で無心に「臥月眠雲」の修行を続けてこられた禅師の教えを受けることが出来る興聖寺の僧侶たちの様子がよく表れています。

虚堂智愚禅師はその後、報恩寺、顕孝寺、瑞巌寺、延福寺、宝林寺、阿育王寺、浄慈寺などに歴住されました。
日本臨済宗各派の法系につながる南浦紹明禅師(1235-1309)の師匠でもあることから、特に茶道界ではこの虚堂智愚禅師がとても重んじられております。


 

例えば、江戸・大崎(現在の御殿山)に在った大崎茶苑(大崎苑)の邸内には11の茶室があり、その1つに「眠雲庵」がありました。
この大崎苑は、松江藩七代藩主・松平治郷公(号は「不昧」)の所有していた1万8千坪の大茶苑です。
「眠雲庵」の扁額は、現在東京国立博物館(東京都台東区)に所蔵されています。


minun.jpg
(『臥月眠雲』額・写真は">山陰中央新報の記事より)
 

また、伊豆半島の湯ヶ島には、国指定有形文化財に登録されている「眠雲樓」 (後に「落合樓」と改名)があります。
こちらには、幕臣の三舟、山岡鉄舟、高橋泥舟らが集い、高橋泥舟による「眠雲」の書が残されているそうです。
(いつか実際に見てみたいものです)

 


このように、「眠雲」を辿ると、さまざまな繋がりが見えてきました。


最後に「眠雲」について、もう1つ出典をご紹介いたします。

蘆花被下 臥雪眠雲 保全得一窩夜気
竹葉杯中 吟風弄月 躱離了萬丈紅塵
『菜根譚』後集38

 
『虚堂録』は「臥月」でしたが、こちらは「臥雪」です。


躱離了萬丈紅塵・・・萬丈の紅塵を躱離たりし了わる


雪が吹き込む質素な庵で、蘆の入った布団に横になり、雲の中で眠れば、気が満ちてきて元気が漲ってくる。
竹の葉の杯を飲みながら 風に詩を吟じ、名月を愛でれば 俗世間の塵芥は落ち清浄となる

20031108.jpg

そのような意の扁額を寺宝として大切に守っていきたいと思います。

投稿者: kameno 日時: 1:06 PM | | コメント (0)

500の色の色鉛筆を楽しむ

鯉のぼりの泳ぐ空
15世紀のカリブ海
ポセイドンの深海
早春の忘れな草
雨上がりのあじさい
琉球の瑠璃柳
大正ロマンの紅藤
3月3日ひなまつり
母の日のカーネーション
インドのマンゴー
晩秋の柿の実
初夏の枇杷
夏祭りのほおずき
浜辺で拾った桜貝
夕暮れの彼岸花
八百屋さんの完熟トマト
ニッポニア・ニッポン
秋風に揺れるコスモス
安曇野のわさび
睡蓮の浮かぶ古池
おばあちゃんの草餅
シュッツトガルトの森
春霞の香具山
新月の松林
陽炎にゆれるモスク
5月の富士山
夏休みの朝顔
故宮の夜
紺碧の宇宙
子供の頃の茜雲
インカの太陽
シュリンプカクテル
八重咲きの鳳仙花
お姫様と毒リンゴ
白いテラスのレモネード
八十八夜の茶摘み
スコットランドの蔦の洋館
苔むす石畳
朝焼けのアルプス
ノルマンディの海に沈む夕日
紅葉の交響曲
暖炉の残り火
煉瓦通り
小春日和の冬木立
天津の甘い栗
クラリネットの音色
ブルージュのチョコレート
楊貴妃の梨の花
ギリシャの大理石
オーストラリアのアカシア
南半球のクリスマススカイ
地中海の妖精
長谷寺の牡丹
萩の夏蜜柑
ほろ酔いのピーチフィズ
鮮やかなサボテンの花
れんげ草のじゅうたん
あぜ道のたんぽぽ
孔雀の羽根
午後のアップルティー
ポケット一杯のキャラメル
野を駆けるサラブレッド
小鹿の散歩
中秋の名月
萌黄おどし
下校途中の猫じゃらし
新緑の風
森林浴
五月雨
クリスマスの樅の木
グラスホッパー
静かな湖畔
お正月の門松
珊瑚礁の海中散歩
瀬戸内に浮かぶ小さな島
ヒマラヤの青いケシ
月夜の杜若
ヒースの丘
珊瑚の首飾り
梅雨の晴れ間の青梅
柊のクリスマスリース
シベリアの針葉樹林
ナイチンゲールの歌声
アンデスの空ゆくコンドル
白百合のつぼみ
ペパーミントの葉
春の七草粥
月の女神・ダイアナ
キンセンカの咲く頃
雪降る夜のペチカ
10月のパンプキンパイ
にんじんのグラッセ
ミックスジュース
聖夜のキャンドルライト
山里のグミの実
カナダのスモークサーモン
アルプス乙女
スウィトピーの花束
女王カトレア
カシスソーダの誘惑
星影の桔梗
ため息のベール
闇夜のカーテン
博多の辛子明太子
キャベンディッシュの三日月
草千里
ゆでたてのさやえんどう
午前7時30分の露草
プリンスメロンのデザート
幸せを運ぶカナリヤ
雨に香る銀木犀
青磁の香炉
ビスクドールの頬
デリーのピンクローズ
ラスコーの壁画
雪ん子のほっぺ
フロリダのオレンジ
南アフリカのフラミンゴ
マロニエの並木道
日溜まりのマリーゴールド
出窓を彩るセントポーリア
盛夏の鬼百合
潮風にそよぐハマナス
夏咲きの東洋蘭
風にふくらむ合歓の花
アステカ王国のダリア
7月のグレープフルーツ
パルテノン神殿の夜更け
夕暮れのグランドキャニオン
カルガモの親子
5月の青麦畑
南極のオーロラ
ラムネのあぶく
バルセロナの聖火
サファイアの祈り
雪解け水と桜草
紅殻格子
山道のからすうり
巫女の紅袴
紫禁城の沈黙
プラムのタルト
夜明けのサフラン
子兎の小さなお耳
嵐のドーバー海峡
若返りの泉
朝日を浴びるなすび
南仏のラベンダー
聖母マリアのすみれの花輪
ミッドナイト
満開のアザレアガーデン
摘みたてのブルーベリー
プランター栽培のパセリ
輪切りのレモン
朝露に濡れる牧場
西部のテキーラサンライズ
クランベリージャム
大和撫子
新鮮なラディッシュ
薩摩ガラスのぬくもり
谷川のサワガニ
清少納言のあこがれ
雷小僧
コンロン山脈の闇のとばり
古代エジプトのリンドウ
新大陸に実る巨峰
ペルシャのざくろ
カルメンのバラ
ミモザサラダ
カスタードプティング
収穫まぎわの麦畑
ライオンのたてがみ
河川敷きの枯れススキ
落ち葉焚き
カフェロワイヤルの炎
神秘なる縄文杉
朝市のパンジー
水車と黒いチューリップ
温室育ちのブーゲンビリア
京菓子と抹茶
ファラオの時代のナイル河
青竹の一輪差し
木陰のコノハチョウ
小川の藻
台風一過の夕焼け空
静寂のアマリリス
エリカ街道
春の宵の矢車草
晴天のアドリア海
夕立の雨宿り
ジェラシー
朝食のスクランブルエッグ
ひまわり娘
檜の湯桶
ジンジャークッキー
春を待つ猫柳
満月に照らされたススキ
ハイドパークの芝生
尾瀬の水芭蕉
暗闇のキャッツアイ
金沢の友禅流し
英国のサクランボ
神に捧げた青銅器
火の鳥の舞
丹頂鶴のベレー帽
乙女座宮
石舞台古墳の深い眠り
土手に咲くキンポウゲ
古都の屋根瓦
くるみ割り
ネパールのベンガル虎
謎めく無人島
朝もやに霞むしだれ柳
広口瓶のピクルス
宇治の茶団子
水が薫る葉月
ヴァニラアイスクリーム
海で生まれた天使の翼貝
雪国の低い空
ティモール海の青海亀
レイシの果実
ローズマリーオイル
懐かしい金平糖
パリのカフェオレ
コンソメボラーユ
寿のいくら
夜明けを待つロンドン塔
飾り窓のヒヤシンス
額田王の茜
浅草の手焼きせんべい
入江のさざなみ
クレオパトラの真珠
キリギリスの演奏会
週末のレマン湖
日本海の漁火
輝く樹氷
シャンピニオンのかさ
お母さんのおしるこ
茶の湯の釜
霜の降りたキャベツ畑
白菜の浅漬
アポロンの月桂樹
軒先の干し柿
雨にむせぶ赤土
ペルーの更紗
涼しげな水羊羹
わらぶき屋根
ジュラ紀のアンモナイト
カッコウワルツ
旬の秋刀魚
冬のオホーツク海
湿原のツルコケモモ
バッカスの髪を飾る葡萄
お昼寝するチャウチャウ犬
たちこめる雨雲
ノースランドの羊の群れ
初めての口紅
山菜摘み
メキシコの百日草
蝉時雨の深山
夕日に染まる白壁
こおろぎの輪唱
夏の日よけの簾
おとぎ話のかぼちゃの馬車
古久谷の角皿
夏の終わりの20世紀ナシ
囲炉裏でつくる茶粥
木漏れ日のプロムナード
ブロッコリーサラダ
端午の節句の菖蒲湯
木の芽料理
アマゾンのジャングル
紅茶染めのテーブルクロス
竹の子掘り
シルクロード
木の幹のカブトムシ
甘ずっぱい青りんご
田植えの季節
ベゴニアの花時計
丘の上のポピー
弾ける野木瓜
アラビアンナイト
シオンの咲く庭
色づくいちょう並木
大輪の菊祭
ピーナッツバター
緑の黒髪
幸運の茶柱
ガイフォークスの花火
秋のおみなえし
アランバーンズの白馬
瞑想の孔雀石
タツノオトシゴ
やまびこ
校庭のテニスコート
キッシンググラミー
温泉の湯けむり
ほかほかの石焼き芋
ムール貝のワイン蒸し
金閣寺
秋の夜長のホットココア
津和野の花菖蒲
琥珀のブローチ
インド洋のアオヒトデ
山ほととぎす
雑木林のヤブレガサ
霧けむる山麓
初雪の空
ブラックチェリーパイ
アフロディーテの微笑
野辺に咲く黒百合
卵料理とパプリカ
春を告げるうぐいす
オランダの木靴
メープルシロップ
リスのドングリ集め
ランプの灯火
アルパカのセーター
天女の羽衣
高野山の肝だめし
竜宮の宴
雨を喜ぶあまがえる
北海道のじゃがいも畑
七夕の笹の葉
オレンジピール
桃源郷
屋久島のおさるさん
スペインのオリーブ畑
レディーマクベスの夜
すなけむり
黄昏のスフィンクス
鎮守の森
ライムのソルベ
コマドリの巣づくり
山東省の田舎道
藍の絞り染め
鹿鳴館の舞踏会
ベートーヴェン「田園」
栗毛の少女
春一番のふきのとう
かぼちゃのランタン
馬車のわだち
ヘリオトロープの香り
紫の炎
清らかなかすみ草
赤ちゃんの手
焼きたてのマドレーヌ
絹の光沢
スウェーデンのリンネソウ
残暑の頃のくず餅
星のきらめく夜空
四つ葉のクロバー
トワイライトゾーンの雪
宵の明星
夜露のマチュピチュ遺跡
お父さんがつくった笹舟
冬将軍の到来
湯上がりの梅酒
山際に沈む夕日
ラフレシアの謎
ピエロの涙
洋梨のコンポート
阿寒湖のマリモ
モニュメントバレーの残丘
野生のルピナス
若草の息吹
谷間に響くこだま
二月のアメシスト
天馬の駆ける空
咲き乱れる山吹
デンマークの菜の花畑
なみなみ注ぐティーオーレ
かごいっぱいのネーブル
木苺のゼリー
雨上がりのクモの巣
バイカル湖のラピスラズリ
雛壇の金屏風
水面に映える岸辺の葦
香ばしいフランスパン
1月の葉牡丹
街角のプラタナス
ファイヤーストーム
真夜中のミステリー
洗いざらしのダンガリー
寒空の三日月
リネンのテーブルクロス
初恋のミルクチョコレート
勝利に酔う土佐犬
花壇を縁取る芝桜
エトルタの海岸線
たらの新芽
コアラの好きなユーカリ
野山のピクニック
カヌー小僧とヤシの実
たぬきの鼓笛隊
氷柱のしずく
渓谷の深淵
銀の燭台
和敬静寂
夕暮れの雪景色
女学生の矢がすり
ニュージーランドのキウイ
おだやかな昼下がり
目覚めのブラックコーヒー
サハラ砂漠の風紋
羊飼いの角笛
マスカットキャンディー
メキシコの柱サボテン
魔法使いのマント
スズメノテッポウの草笛
高原のニッコウキスゲ
ネス湖のネッシー
たわわに実る黒すぐり
帆船の渡る海
粋に着こなす黄八丈
桐の箪笥
手づくりのリンゴジャム
傷心のティラミス
鉢植えのゼラニウム
椿の花咲く小径
長崎のビードロ
金沢の土塀
松ぼっくりのドアリース
せせらぎのカワセミ
森の茂みのオオルリアゲハ
華麗なジプシーダンス
アーサー王の剣の湖
切り株のテーブル
ひきたてのきなこ
温かいオートミール
ピースメモリーパークの鳩
大文字の送り火
初詣の焼きぎんなん
太陽のプロミネンス
モロッコのターバン
マホガニーの揺りかご
空を映す湖
咲きけぶる三椏の花
古本の皮表紙
国道沿いのカンナの花
セント・バレンタイン
セーブルの陶器
ベランダのセキセイインコ
モンゴルの大草原
イカすみのスパゲティー
薄氷の張る水たまり
ルナパークの噴水
ハレー彗星の伝説
カンパニュラの夢
風にのる萩の花びら
スターチスのドライフラワー
クリームソーダのはじける泡
原初の春
夢見る五月
休日の草野球
南国の楽園
潮騒
エメラルドの都
避暑地の軽井沢
プリンスエドワード島の夏
恐竜のいた原生林
古代の翡翠の曲玉
アラスカのブリザード
翠の風鎮
熱帯夜
ふるさとの海
愛のキューピッド
ためらい
サンタフェのテラコッタ
秋のウラシマツツジ
栗まんじゅう
祝言の朝の桜湯
杏の里の花便り
マドリッドのサングリア
ビーツの酢漬け
神話の中の悲哀
コロボックルの衣装
深山おろし
浅もやの中の山荘
優雅なネーレイド
シャム猫の澄んだ瞳
ポンパドゥール夫人の笑顔
岩陰のユキワリソウ
山桜のぼかし
ウェディングパーティー
ライラックのティアラ
いぐさの花むしろ
新緑の中の山ツツジ
オレンジシャーベット
トルコ石のプロミスリング
人魚のまとうローブ
夕張メロン
甲子園の砂
ぬかるみのムツゴロウ
霧雨の午後
平安京の藤棚
初秋の残霧
硝子窓をうつ北風
レッドテールナイト
夜明けの一瞬
ラムレーズン

モンゴルの草原色


この色を好む人は温厚な人柄で、
物事に対する姿勢や意見は率直で
包み隠しすることなく、
誠意ある行動をとります。
(c)Jun-ichi Nomura


フェリシモが先月から販売を始めた「500色の色えんぴつ」が大人気だそうです。
この色鉛筆セットは、平成4年に限定販売した500色セットの復刻版ということで、多くの再販希望の声に応える形での発売となりました。
(復刻されるのは良いのですが、以前は三菱鉛筆製、今回は中国製というのが少し残念です)

さて、この500色の色鉛筆、眺めるだけでも様々な想像力が喚起されますけれど、一本一本(一色一色)に名前が付けられているのがもう一つの特徴です。
命名は色彩学者・野村順一氏によりなされ、その色の持つ特徴や、その色を好きな人についての物語が提案されています。

冒頭の緑色はモンゴルの草原色だそうです。

このような色たちが紹介されている500色の色鉛筆特設サイトがとても美しいです。

color01.jpg

 

この記事の右側⇒に、500色の色鉛筆の色を再現して並べてみました。
(パソコンのディスプレィですから、実際の色鉛筆の色と若干異なることをご了承ください)

「色」の右側を「マウスを左クリックしたままなぞる」と、野村順一氏による色名が表示されるようになっています。

それぞれの色に、皆さんはどのような名前を付けますか?



逆に、
「ポンパドゥール夫人の笑顔」
「ナイチンゲールの歌声」
「カッコウワルツ」
「謎めく無人島」
「シルクロード」
「霧雨の午後」
「ベートーヴェン 田園」
「高野山の肝だめし」
「ためらい」
「熱帯夜」
「やまびこ」
「こおろぎの輪唱」
「谷間に響くこだま」 ・・・・

などなど、色の名前からどのような色をイメージするかを楽しむこともできますね。



年代によって、性別によって、国によって、傾向もことなるはずです。そういう学術的な調査も面白いですね。

 

モンゴルの草原の色も場所によって、時間によって、天気によって全く違う景色に見えました。何時間もの移動も全く退屈することはありませんでした。
色とそれから生み出されるイメージが固定化されてしまうことはつまらないことです。
しかし、それらを前提として自分のイメージと他人のイメージを比較してその差異を楽しむことや、先入観と実際の色との違いを実感することも面白そうです。




■蛇足

最近の絵の具や色鉛筆からは、かつてあった「肌色」という色名が消え、「ペールオレンジ」などの言い換えがされています。
人種には多様性があり、肌色も多種多様であるために特定の色を決めるのはおかしいという人権的な配慮からと言われています。

 

人種差別に対する問題意識から、人種・個人差・日焼けの度合いによって肌の色は異なるのに特定の色を肌色(フレッシュ)と規定する事はおかしい、としてこの名称を避ける動きがあり、クレヨン・クーピーペンシル・絵具等で従来の肌色を薄橙(うすだいだい)・ペールオレンジ(pale orange)等と言い換える場合がある(アメリカでは、たとえば1962年にCrayola社は肌色に相当するfleshの呼称をpeach「ピーチ」と呼び変えている)。
(出典: ウィキペディアWikipedia「肌色」項)

まあ、これも固定概念を植えつける上での弊害の一つですね。
となれば、500色の色名の中で気になるものが一つあります。

それは「赤ちゃんの手」という色名。
(右の色の中の何処にあるかを探してみてください)

これも少し配慮が必要だったかもしれません。




■関連ブログ記事
言語表現はいかにして多値論理体系で説明できるか3
投稿者: kameno 日時: 10:43 AM | | コメント (2) | トラックバック (2)

武相国境越えの変遷

以前のブログ記事 永野村、鎌倉郡から横浜市へ において、港南区を南北に走っている武相国境の稜線が如何に地域を分断してきたかについて書きました。


当時、武蔵側と相模側を結ぶ道路は、いわゆる尾根道の古道だけでありました。
自動車が永野村に初めて入ることができたのは、実に昭和4年に平戸と吉原を結ぶ道路の完成を待つこととなります。
それまでは、横浜の隣りでありながら道路整備が不完全で、いわゆる陸の孤島のような状態であったわけです。
横浜市への出入が遠い町村にすら及ばず、自ら別天地のごとき生活状態でありました。
生活習慣も総てが鎖国的であったという中、国境の丘陵を越えるということの障害が、横浜市への編入の遅れの主因となったようです。
昭和4年、平戸と吉原を結ぶ道路が開通することにより、永野村はようやく「開国」の日の目をみることになりました。

今回は、その状況を地図の変遷で検証してみます。

nagayaM36.jpg
(1:20000地形図戸塚明治36年測図)

鎖線にて武相国境が標記されています。
明治時代の武相国境を越える道らしい道は、現在の環状2号線(県道平戸吉原線)のルートではなく、現在の港南図書館前の道?港南台ゴルフセンター?日野病院へ抜ける山道だったことがわかります。


nagayaT10.jpg
(地形図 大正10年測図 大正14年発行)

吉原?永作?馬洗橋に抜ける道が出来ました。
永作にトンネルがあることが目に付きます。
分水嶺はそれだけ険しく、人道トンネルがあったのでしょう。
車の通行は出来なかったと思われます。


nagayaS8.jpg
(地形図戸塚 昭和6年修正 昭和8年発行)


『港南の歴史』によると、平戸?永作?馬洗橋の武相国境を車で越えることが出来るようになったのは昭和4年以降です。
上の地図は、車の通行が出来るようになってまもなくのものです。
人道トンネルが切通しとなり、ようやく車の通行が可能となったものと推測されます。
この切通しにより、ようやく永野村は「開国」の日の目をみるようになったのです。


nagaya_S22.jpg
(地形図戸塚 昭和20年修正 昭和22年発行)


戦時中は軍需物資を運ぶ道路が整備され、県道平戸吉原線の原型が出来たことがわかります。


nagayaS42.jpg
(地形図戸塚 昭和41年改測 昭和42年発行)

宅地化が進み、大規模な開発が行われた時期です。
県道平戸吉原線には造成地の土砂を積んだトラックが往来しました。

nagayaS53.jpg
(地形図戸塚 昭和51年ニ改 昭和52年発行)

市営地下鉄上永谷駅の開業は昭和51年です。
丸山台の造成がほぼ終わり、横浜横須賀道路の工事が進行しています。
住宅地が面状に広がったため、かつての武相国境線が明確に分からなくなってしまいました。


このようにしてみると、武蔵と相模の国を分断していた稜線を結ぶ道路(県道平戸吉原線)により港南区として両国が一体となっていく様子が良く分かります。
地図はその変遷を雄弁に物語ってくれるのです。

※今回の地図資料は『今昔マップ』首都圏版を使用して作成しました。

投稿者: kameno 日時: 1:12 AM | | コメント (8)

日全食西来東漸

7月22日の皆既日食まで一か月を切りました。

皆既日食自体は、地球上のどこかで1年に1回程度見ることができる現象ですが、同じ場所で見ることができることは数十年?100年程度に一度しかありません。

日本の陸地での皆既日食は、1963年7月21日(北海道東部)以来実に46年ぶり。
今年の次は、26年後の2035年9月2日(北陸?関東北部)となります。

日本で見ることができる久し振りの日食ですので、ニュースでも盛んに取り上げられていますね。

 


ところで、今年の日食が観測できる場所を詳細に見ると、とても興味深い偶然が重なっていることがわかります。

まず、NASAの画像を。
薄いグレーの大きな円が部分日食の観測できる範囲、そして濃いグレーのほんの小さな円が皆既日食の観測できる地点です。
SE2009Jul22T.gif
(c)NASA

皆既日食が観測できるエリア(皆既日食帯)を さらに詳細にGoogleMapに落としたものがこちら です。

20090628-02.jpg
※青い線の間が皆既日食帯。ここで皆既日食を見ることができます。

 


もし私が何処で皆既日食を見たいかと問われたら、迷わずブッダガヤと答えるでしょう。

ブログ記事のタイトルのとおり、今回の日食のルートは仏教の伝来ルートにかなり一致しているということがわかります。
それが興味深い偶然ということです。


日食はお釈迦様が悟りを開かれたブッダガヤ付近では、日の出とともに日食が始まります。
段々と欠けていってやがてダイヤモンドリング⇒皆既日食となるはずです。


ブッダガヤ【皆既日食】
北緯 24.6951° 東経 84.9908°
日食継続時間 2分55.5秒
2009/07/21 23:59:32.4 日食の始まり
2009/07/22 00:54:33.6 皆既の始まり
2009/07/22 00:57:29.2 皆既の終わり
2009/07/22 01:58:56.9 日食の終わり
(Indian Standard Time=UTC+5:30)

どのようなイメージになるのか、20年前にインドを旅した時に撮った写真と、Stella Theater のシミュレーション画像を合成し、作成してみました。

20090628-01.jpg


天気が良ければ東の空にこのように見えるはずです。


お釈迦様は2500年前に明けの明星を見上げて悟りを開かれたといわれます。
ブッダガヤで暁天坐禅をして、明け方に東側を流れる尼蓮禅川からスジャータ村の上方に見える皆既日食現象を眺める・・・

いいですね? 


霊鷲山【皆既日食】
北緯 25.0246° 東経 85.4256°
日食継続時間 3分24.5秒
2009/07/21 23:59:39.6 日食の始まり
2009/07/22 00:54:38.0 皆既の始まり
2009/07/22 00:58:02.6 皆既の終わり
2009/07/22 01:59:29.5 日食の終わり
(Indian Standard Time=UTC+5:30)


さて、皆既日食の見える場所は、ここから東へ漸み、数時間後には菩提達磨大和尚が渡った少林寺の直ぐ南を通ります。
残念ながら少林寺では皆既日食とはなりませんが、きっと達磨大師が通ったルートと皆既日食帯はかなり重なっている筈です。


少林寺【部分日食 90.9%】
北緯 34.5131°東経 112.9631°
2009/07/22 00:16:17.4 日食の始まり
2009/07/22 01:25:44.0 最大食分
2009/07/22 02:42:08.6 日食の終わり
(Chinese Standard Time=UTC+8:00)

そして、日食帯は禅の流れと同様にさらに東に漸み、道元禅師が修行された天童寺へ到達します。
天童寺でも皆既日食を見ることが出来ます。



阿育王寺【皆既日食】
北緯 29.853°東経 121.7447°
日食継続時間 4分23.2秒
2009/07/22 00:23:23.9 日食の始まり
2009/07/22 01:37:47.7 皆既の始まり
2009/07/22 01:42:10.9 皆既の終わり
2009/07/22 03:03:13.0 日食の終わり


天童寺【皆既日食】
北緯 29.8063°東経 121.7907°
日食継続時間 4分10.2秒
2009/07/22 00:23:27.0 日食の始まり
2009/07/22 01:38:00.0 皆既の始まり
2009/07/22 01:42:10.2 皆既の終わり
2009/07/22 03:03:21.3 日食の終わり
(Chinese Standard Time=UTC+8:00)


日食帯は道元禅師の渡られた海路を通り、奄美列島へ。

禅宗の教えが伝わった2500年の歴史を僅か数時間で東漸する日食となるわけです。


今回の日食は、禅の源流に思いを馳せながら横浜において部分日食を観測してみようと思います。

貞昌院(横浜市港南区上永谷)では次のとおりです

貞昌院【部分日食 75.8% 】
北緯 35.4028° 東経 139.5704°
2009/07/22 00:55:07.4 食の始まり
2009/07/22 02:12:51.9 最大食分
2009/07/22 03:30:36.0 食の終わり
(Japan Standard Time=UTC+9:00)


2時間余りの天文ショーとなります。

天気が良くなりますように。

投稿者: kameno 日時: 1:05 AM | | コメント (2)

横浜にあった飛行場

下の写真は国道16号線、八幡橋交差点付近から見た光景です。
パノラマで撮影してみました。
流れる川は掘割川、中央に根岸プールセンターが見えます。
その左側の高架は首都高湾岸線とJR根岸線です。

20090626-13.jpg

このあたりに、戦前から戦後にかけて根岸飛行場がありました。
プールセンター入口交差点には次のような看板が設置されています。

20090626-15.jpg



根岸飛行場跡

昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社により日本発の飛行艇専用民間飛行場がつくられました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン経由パラオに向け飛び立ちました。
発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26?64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
2式大艇の最終飛行は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の詫間基地からここに飛来したのが最後です。
根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。
(看板に記載されている説明)


20090626-11.jpg 20090626-12.jpg
根岸飛行場を発着していた飛行艇(看板より)
(左)97式大艇 (右)2式大艇「晴空」

これだけの巨体が轟音を響かせて水上を離着陸する光景はさぞかしダイナミックだったことでしょう。

20090626-10.jpg 20090627-1947.jpg
(左)看板に記載されている地図
(右)米軍により撮影された昭和22年の航空写真=接収後の根岸飛行場

20090626-14.jpg
根岸飛行場が運用されていたときの貴重な写真(戦後・接収後)
アプローチから海に出る飛行艇が写っています


第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)で敗北するまで、日本は世界的な航空技術先進国であった。これは民間航空も同様であり、1929年(昭和4年)に設立された日本航空輸送株式会社(現在の日本航空とは直接のつながりはない)が、日本本土と大陸を結ぶ航空路を運航しており、中心的存在であった、
しかし日本政府は中華民国との間の日中戦争の勃発により中国大陸と日本本土との航空路による連絡が戦略的に重要になったため、1938年に日本航空輸送は国策会社へと改組され、満州航空傘下の国際航空を合併させて新たに発足したのが「大日本航空株式会社」であった。
航空路線としては、海軍の九七式飛行艇を民間輸送機型によってサイパンやパラオといった南洋群島への長距離路線が運航されたほか、後世日本の傀儡国とされた満州国の首都新京(現在の長春)を結ぶ航空路も開設されていた。またタイのバンコク線によって欧州系航空会社の極東線との連絡が可能となり、日本と欧州を結ぶ航空路が連結されていた。
だが、太平洋戦争の開戦とともに、大日本航空が運航する路線は軍の管理下に置かれ、さらに新たに占領した東南アジアにおけるネットワークを拡大し、戦争中は軍事的に重要な輸送手段となっていた。大日本航空の機材や乗員の多くは開戦直前に陸軍が編成した「特設第十三輸送飛行隊」に編入され南方地域をへの運航を担い、さらには「南方航空輸送部」に組織改変された。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 大日本航空 項)

 

根岸飛行場をはじめ、横浜にはいくつかの飛行場がありました。

・富岡飛行場(飛行艇・日本が運用)
・根岸飛行場(飛行艇/終戦までは日本が運用、戦後接収され米軍が運用)
・伊勢佐木町飛行場(戦後/米軍/セスナ機用)
・間門飛行場(戦後/米軍/セスナ機用)

まずは、時系列に整理してみます。
(間違いがあれば指摘ください)


1929(昭和4) 日本航空輸送株式会社発足
1929(昭和4) 日本航空輸送による運行開始
1930(昭和5) タコマ号が根岸・市電埋立地より太平洋横断に挑戦
1935(昭和10) 根岸飛行場完成
1936(昭和11) 金沢区富岡に横浜海軍航空隊の富岡飛行場が開港 飛行艇の運行
1938(昭和13) 大日本航空海洋部発足 (日本航空輸送株式会社消滅)
1939(昭和14) 横浜?サイパン方面の定期便が運行開始 月2便ほど 
   横浜 5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00 (この他ヤルート、ポナペなど)
1940(昭和15) 根岸飛行場拡張、サイパン航路の発地が富岡から陸根岸飛行場へ移転、週1便に増発
1941(昭和16) 映画『南海の花束』公開、97式大艇運行開始
1941(昭和16) 航路がチモールまで延びる
1941(昭和16) 大日本航空海洋部は海軍に徴用され横須賀鎮守府第七輸送機隊となる
-----------開戦-----------------------
1941(昭和16) 日本軍真珠湾を空襲、マレー半島上陸、米英宣戦布告
根岸飛行場の人員・機材は南方との連絡や人員・物資の輸送を担う
-----------終戦-----------------------

1945(昭和20) 米軍に接収され、大日本航空は解散
1946(昭和21) 伊勢佐木町に飛行場が出来る
1948(昭和23)  BOAC(イギリス海外航空)ロンドン横浜(根岸飛行場)
  ロンドン⇒アウガスタ(泊)⇒アレクサンドリア(泊)⇒バーレーン⇒カラチ(泊)⇒カルカッタ(泊)⇒ラングーン⇒バンコク(泊)⇒ホンコン(泊)⇒上海(泊)⇒横浜
1952(昭和27)  間門飛行場が完成、伊勢佐木町の飛行場が間門に移転
1958(昭和33) 根岸飛行場が役割を終える

 


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タコマ号が市電埋立地より太平洋横断に挑戦
『横浜の100年(上巻)』(郷土出版社・P146・1930年)   

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『Yokohama City Map』(米第8軍作成・1949年・赤色はkamenoが着色)

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戦後の横浜の飛行場の姿

■伊勢佐木町飛行場
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(左)米軍により撮影された1947年の航空写真
(右)伊勢佐木町飛行場 『敗戦の哀歌』(写真:奥村泰宏・1949)より


■間門飛行場 
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(左)米軍により撮影された1956年の航空写真
  ※冒頭にある米軍により撮影された昭和22年の航空写真(1947年)には、間門飛行場の滑走路が写っていないことがわかります。
(右)間門飛行場 『敗戦の哀歌』(写真:奥村泰宏・1950)より

 

日本が1945年(昭和20年)8月14日にポツダム宣言受諾を決定したため、軍隊は即日武装解除されることになった。民間航空についても飛行機の所有・運用も一切禁止され、飛行活動に従事する組織も廃止・解散させられることになった。そのため大日本航空も解散させられることになり、戦後処理のために日本国内で運航されていた緑十字飛行も10月7日に終了し、11月18日にGHQが布告した 「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」(SCAPIN-301)によって日本人による航空活動は一切禁止され、1952年に再開が認められ日本航空の初号機が飛行するまで日の丸を付けた航空機が日本の空に飛ぶことは無かった。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 大日本航空 項)


なんとも残念なことです。



今日のブログ記事は 横浜に水上飛行場があった!?(ハマちゃんのひとり言)を併せてお読みください。


■関連ブログ記事

氷川丸、最後のイルミネーション

投稿者: kameno 日時: 12:39 AM | | コメント (4)

こーひーぶいれく

 
わたしたち にんげんの げんごのりうょくは とても じゅなうん で かつ あいまい に できいてる こと が よくわりかますね。  

こんちには みさなん おんげき ですか?  わしたは げんき です。 この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか にんんげは たんご を にしんき する ときに その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。 どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?



■関連リンク
mirakui::tumblr

ぼんやりと考えたこと

投稿者: kameno 日時: 11:28 PM | | コメント (5)

永野小学校こどもの歌

貞昌院・永谷天満宮とも縁の深い永野小学校。
明治25年11月3日に永野学校として創立して以来まもなく120周年を迎えようとしています。

小学校には貴重な資料が保管されております。
現在、永野小学校土曜塾を中心に、港南歴史協議会などでデジタルアーカイブ化を行っています。
併せて、特に写真資料について、縁のある方々で回覧し、情報を付加していく作業が進められています。

撮影された場所、年代、写されている人物、建物など一つひとつを検証しながら行っています。
だいぶ特定されてきました。

20090506-04.jpg


写っている方や、その写真の場面を共有している方がいらっしゃると作業は飛躍的に早まります。
(もちろんなかなか検証が進まない写真も多いですが地道に進めています)



さて、永野小学校の現在の校歌は、おおぞらーは・・・の歌詞で始まります。

「永野小学校校歌」

作詞:蕪木直行 作曲:松井健祐
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/nagano/kouka%20kateiban.html


作曲された松井先生直筆の楽譜を御紹介いたします。

nagano.jpg

松井先生のお人柄を表すような楽譜ですね。


このように、元来別の校歌があったため、最初は「永野小学校こどもの歌」として作られたものでした。

松井健祐先生は菩薩である。
先生を知る人ならこの言葉に誰もが共感をおぼえるだろう。
メガネの奥からいつもにこにこと私たちを甘守り、優しく穏やかな口調で話されていた先生。
いつ、どこで会おうともその笑顔、その温かい声は変わらない。
そして先生に接していると心があかるくなるのである。
 作曲家としての業績もさることながら、先生はまた音楽教育においてすばらしい足跡を残された。教育者になるべくして生まれてきたような方である。先生の教えは、はめることに始まりはめることで終わる。
人の才能を見つけだし、引き伸ばしていくのにも一種の才能がいるとすれば、先生はそのことにかけ天賦の才をおもちだったようだ。
そしてその人柄故、多くの人が先生を慕って集まり、先生の薫陶を受けて社会に旅立っていった。
 しかし先生の人生においては音楽だけがすべてだったというわけではない。学生時代はサッカーの名フォワードとして活躍、その腕前は日本代表にまで選ばれたほどである。他にスキー、水泳などスポーツマンとしても知られていた。そして忘れてはならないのが奥様の存在であろう。先生は奥様の事を「チューリップ」と称されていらした。英国紳士然とした先生に優しい笑顔で寄り添う奥様...。あらためて今、先生の写真を拝見していると、奥様の笑顔で先生はとても幸せな人生を過ごされたのではと思う。
(松井先生を語る「松井先生を偲んで」より)

昭和45年5月25日、このこどもの歌が正式な「永野小学校校歌」として制定されました。

投稿者: kameno 日時: 12:44 AM | | コメント (0)

横浜的電脳 18区の本

昨日、地域の中で「寺院」が取り組むデジタルアーカイブについてのお話を2時間ほどさせていただく機会がありました。
(そのことについてはいつか追記するかもしれません)
先月開催されたBankartでのデジタルアーカイブに関するシンポジウムに出席させていただいた機縁で来訪された3人の方との楽しい時間でした。

雑談の中で、貞昌院のホームページを開設してしばらくした時に取材を受けた「横浜18区の本」の話題が出ました。
本棚を探してみると・・・・ありました。

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書名:横浜的電脳「横浜でパソデジ」よこはま18区のほんシリーズ5弾
発行 横浜ブックレット刊行委員会
出版社:有隣堂
協力:横浜市
発行年月日:1998.01.06


なつかしいですね。
何故ホームページを開設したのか、そのきっかけなどについて今から10年以上前に取材を受けたものです。

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巻頭のことばを引用してみます。

横浜は,開港以来様々な文化や,情報の交差点として多くの人々を受け入れてきました。横浜には,もののはじめ物語がたくさんあります。
例えば食べ物から理髪業,テニス,野球といったスポーツに至るまで。
新しいものに取組む姿勢は,今でも横浜の元気の源となっています。
21世紀は,本格的な高度情報化社会が到来します。インターネットだけではなく,病院と患者さんをデジタル通信網で結ぶ在宅看護への応用,教育ツールとしての活用,防災ネットワークの構築といった多岐にわたる応用が期待されています。
パソコンも随分手ごろな価格まで安くなってきました。
これをキッカケに,地域情報を発信したり,入手したりしながら,世界とインターネットで交流を深めて,新しい元気な横浜を一緒につくっていきましょう。
(横浜ブックレット刊行委員会委員長・高秀秀信)

それから11年、横浜は開港150周年を迎え、さまざまな記念行事が行われ取り組まれています。
インターネットなど情報網の進展も、当時は考えられない速度で進んでいます。
この本に紹介されている方々を追跡取材して、同じように纏めてみると面白いかもしれませんね。


「よこはま18区のほん」第5巻「横浜でパソデジ(横浜的電脳)」は,横浜でデジタルメディアを使って情報発信したい方々のために,ショップ,スクール,プロバイダー情報を集めました。
パソコン上達の早道は,自分にあったパソコン活用法を早く見つけることです。
最近爆発的に普及しているインターネットは,自分で手軽に情報発信・収集に便利な道具です。
まずは18区から発信される情報を眺めながら,パソコンと親しくなってはいかがでしょう。
(横浜ブックレット刊行委員会)


ホームページもまだ少なかった時代、情報発信が手軽に出来るツールを紹介し広めていった意義は大きかったと思います。
お寺とインターネットという一見ミスマッチな組み合わせも、よくよく考えてみれば歴史上、情報伝達の最先端を行っていたのは宗教布教のパワーであったということから、特に目新しいことではないということが判ります。

情報発信=メディア=布教 という構図は、その媒体こそ異なれ、伝えたいという思いはなんら変わるものではないのです。


それにしても、当時はダイヤルアップ環境でインターネット会議を行っていたのです、良い思い出です。

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(1997年7月のネット役員会議室 キャプチャより)

・・・なつかしい。
会議録を読み返してみてもちゃんと会議になっていたところが凄い!

投稿者: kameno 日時: 9:23 AM | | コメント (13)

お釈迦様の誕生日と甘茶

今日4月8日はお釈迦さまの誕生日。釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)です。
お釈迦さま(ゴータマ・シッダッタ)がこの日に生まれたという伝承に基づきます。

⇒なぜ今日がお釈迦様の誕生日なのかは こちらをご参照ください

釈尊降誕会には、この他に佛生会(ぶっしょうえ)、浴佛会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)、花祭り(はなまつり)など、様々な呼び名があります。

お釈迦さまが誕生された時、大自然が祝福し、天から龍が飛来して甘露の香湯を潅いだという故事に基づき、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏桶を置き、甘茶を満たします。

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今日の記事は、この甘茶にテーマを絞って書いてみます。

甘茶とは、本州?九州にかけての山地に自生するユキノシタ科の落葉低木「アマチャ」から作られたお茶です。
初秋に枝葉を刈り取り、数日間天日にて乾かします。
さらに水を噴霧し発酵させた後、揉みながら乾燥するとこのようになります。

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貞昌院でも先日の花まつり法要の際に甘茶を皆さんにお飲みいただきました。
実に素朴な甘みがいたします。その奥にお茶らしい微かな苦味もあります。

砂糖などは一切使用していないのに何故こんなに甘いのか不思議ですね。
その秘密は甘茶に含まれる甘味成分の d-フィロズルチン です。
ちなみに微かな苦味成分は、発酵過程で d-フィロズルチン として加水分解しきれなかったフィロズルチン 8-グルコシドが少し残っていることとタンニンによるものです。


この d-フィロズルチン は、実に砂糖の数百倍?千倍もの甘さがあると言われていますが、消化吸収されることが殆どないため、カロリーオフの健康食品なのです。

「フィロズルチン」という名前の中に「ズルチン」という言葉が含まれています。
少し年配の方は人工甘味料のズルチンを想起するのではないでしょうか。
ズルチン は、戦後になってサッカリン同様、大量に使用された人工甘味料です。中毒事故や肝臓機能障害、発癌性が認められたために使用禁止となりました。

しかし、甘茶の d-フィロズルチン は天然の甘味成分であり、人工的に合成される ズルチン とは全く異なるものです。
化学式を比較してみましょう。




d-フィロズルチン (d-phyllodulcin)
d-phyllodulcin.jpg


ズルチン (dulcin)
dulcin.jpg



甘茶は抗アレルギー作用、歯周病予防効果などもあり、また糖尿病の方でも安心して使用できる甘味料としても重宝されているのです。


今日一日、本堂の前にお釈迦様の誕生を祝う花御堂をお飾りしています。
境内は数日前から散り始めたソメイヨシノの花吹雪につつまれ、まさに誕生の日を大自然全体で祝福しているようであります。


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写真は昨日夕方、本堂脇のソメイヨシノから昇る月

投稿者: kameno 日時: 11:20 AM | | コメント (5)

結晶の芸術

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この写真はなんだか分かりますか?

これは以前西伊豆の海で採取してきた海水をトレーの上で少しづつ垂らしながら結晶化させたものです。
きらきら輝いて美しいですね。
ピラミッド形のものや四角い灰皿のような形もあります。

海水の 3.4% は塩分。
塩分の内訳は、
塩化ナトリウム 77.9%
塩化マグネシウム 9.6%
硫酸マグネシウム 6.1%
硫酸カルシウム 4%
塩化カリウム 2.1%

ということで、様々な塩が様々な条件によりこのような模様を造りだしているのでしょう。

写真に見える主な結晶は塩化ナトリウムの結晶であり、立方晶と呼ばれる結晶の中では対称性が最も高いものです。これを塩化ナトリウム型構造(NaCl-type structure)といいます。

nacl.gif


単位結晶は立方晶ですが、必ずしもそのまま相似の形で成長するわけではなく、条件により様々な形を取ります。

 ⇒錦海ソルト株式会社


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まるでどこかの都市のようですね。
きちんと立方体に成長した結晶も美しいですけれど、このように混沌としている結晶状態も美しいものがあります。
立方体の細かい結晶が連なった様子は、まるで密集住居群のようにも見えます。

例えば香港にあった九龍城砦
そういえば九龍城砦は付近で算出された塩を守るために宋代に建造された砦だそうです。
塩という不思議な共通点がありますね。

蛇足ですが、当時の九龍城砦には約3haの中に5万人の人口があったそうです。
畳1枚分の面積に5人が暮らしていた計算です。
凄いですね。


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投稿者: kameno 日時: 3:43 PM | | コメント (0)

英語で知る日本のマナー

NHK英語でしゃべらナイト MANNERS
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『英語で知る日本のマナー』
Learning About Japanese Etiquette in English
が発行されました。

著者/訳者名  岩下宣子 監修 / ディビッド・A・セイン 英文
出版社名 主婦の友社 (ISBN:978-4-07-266229-8)
サイズ B5 判 132 ページ
発行年月 2009年3月26日
価格 1,200円(税込)

 

 経緯はこちら ⇒ 寺院参拝のマナー



日本の文化をネイティブに紹介しましょう

四季のハッキリした 日本ならではの風土から生まれた 年中行事。
日々の四季感を大事にした しきたりを 外国の方々に伝えたいものです。

また 日本には お互いを思いやる気持ちから生まれた いろいろなマナーがあります。
マナーといっても 決して堅苦しいものではありません。
相手のことを常に気にかける 日本の習慣を 英語で紹介してみませんか。


この本は、日本の習慣に馴染みのない外国人が戸惑いがちな日本の風習や慶弔のマナーなどを日本語・英語対訳でわかりやすく紹介しています。
また、日本人にとっても、マナーの基本を分かりやすく学ぶことができる本でもあります。

これ1冊で日本人も外国人もハッピーになれます!


Contents
Part1 日本のお付き合いのマナー 帯祝い/お宮参り/お食い初め/初節句と節句の祝い方/七五三/長寿の祝い/厄年と厄落とし など 
Part2 食事のマナー箸づかい/会席料理の食べ方/そば/すし/天ぷら/うなぎ/和食のタブー など 
Part3 年中行事 歳時記 
Part4 結婚式・お葬式のマナー


という構成となっています。
写真をふんだんに使用した美しい本です。

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このうち、寺院の参拝のマナー、歳時記の除夜の鐘などで協力をさせていただきました。

寺院の参拝のマナー項のサブタイトルは
「仏様にごあいさつの気持ちで、寺院に向かいましょう / Visit the temple out of a desire to greet Buddha」

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どうぞ、お寺を参拝するときには、単なる観光として建物や庭を眺めるだけではなく、そこにいらっしゃる本尊様にごあいさつをする気持ちを持ってくださいますようお願いいたします。
お墓参りの際も、お墓に直行するのではなく、お墓を守ってくださる本尊様にごあいさつをしてからお参りされることをおすすめいたします。

そんな気持ちを込めてみました。


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茶室前の蹲にて・セイン先生

編集担当のK沢様、本当にお疲れ様でした。


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投稿者: kameno 日時: 8:24 PM | | コメント (2)

CD-Rの冗長性を試してみた

パソコンでファイルを開こうとしたら
「○ドライブはフォーマットされていません。今すぐフォーマットしますか?」
とか「巡回冗長性(CRC)エラー」が出て読めなかった経験をお持ちの方は多いと思います。

データを記憶(記録)する装置にはハードディスク、CD-R、DVD?R、RAM、RW、ブルーレイ、フラッシュメモリなど様々なものがありますが、大体どれも消耗品と考えたほうがよさそうです。


現代はコンピュータ社会ですから、システムが一瞬でも停止すると重大な影響を及ぼします。
金融機関、交通機関などなど、コンピュータの障害によるニュースは後をたちません。

そこで、その対策として、冗長性を持たせるということを行っています。


冗長性(じょうちょうせい:redundancy)

冗長性の定義は, 日本工業規格 JIS Z 8115 信頼性用語で「規定の機能を遂行するための要素または手段を余分に付加し, その一部が故障しても全体としては故障とならない性質」と与えられている. 代表的な冗長性としては, 複数のアイテムによってバックアップを実行する待機冗長や, アイテムを多重化してシステム機能を段階的に低下させる優美縮退冗長, 複数の同一アイテムから得られる結果を比較評価する多数決冗長などがある.
日本オペレーションズ・リサーチ学会




例えば全く同じシステム(バックアップ)を複数稼動させておき、障害が生じた場合に切り替えられるようにしたり、システムを分散したりするわけですね。
先日のブログ記事で書いたRAIDによるミラーリングもその一つです。

 ⇒貴重なデータを守る


さて、本題に入ります。

20090321-01.jpg


数日前CD-Rにデータを焼いたところ書き込みは完了したものの、その読み出しにおいて冒頭の巡回冗長性エラーが出てしまいました。
何度読み出しをやってみても読めず、無理にファイルを開こうとするとフリーズします。

ディスクを取り出して表面を良くみると・・・・・

20090321-02.jpg

キレイだな?・・・・・いやいや、ひどい不良品ですね?

このような部分が何箇所もあります。

20090321-03.jpg


色素の液漏れのようなものも起こしています。

せっかく不良品ディスクを手にしたので、どれだけデータが復元できるかを試してみました。
通常の方法だと読み出しが出来ないので、neroを使って無事なデータと、読み出しできないデータも冗長性を利用して復元できるだけ復元してみました。

nerolog.jpg


所要時間8時間ほど。


このディスクに焼きこんでいたデータは
9フォルダ 185ファイル 合計306MB

でした。
結果、どうしても読み出せなかったデータは 
3フォルダ 42ファイル。
損傷率はファイル数ベースで23%

それ以外の他のデータは何の問題も無く読めています。


23%の損傷したデータ(写真)も、このような感じですので、別の方法で復元が出来るかもしれません。
土居まさる司会の『象印クイズ ヒントでピント』を思いだしました。
20090321-04.jpg

CD-Rの冗長性は素晴らしいですね。あれだけ損傷のあるディスクからでも思った以上に復元できました。感心します。
・・・と言っている場合ではないですね。

最近はメディアの単価も下がっています。
大事なデータをバックアップする際にはそのメディアの信頼性をよく吟味し、目で確かめられるものはきちんと確かめる必要がありますね。

それと、何年も前に記録したデータも読めるかどうか時々チェックする必要もありそうです。


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投稿者: kameno 日時: 10:22 AM | | コメント (4)

優しい曲線クロソイド

若田光一さんら7人の宇宙飛行士を乗せたスペースシャトル「ディスカバリー」の打上げが無事成功し、順調に飛行を続けています。
まずはおめでとうございます。

さて、スペースシャトル打上げの際には、宇宙飛行士に最大3G?4Gの加速度がかかると言われています。
この加速度に打ち勝つ為に長期間にわたる訓練が為される訳ですね。

スペースシャトルに匹敵するほどの加速度を体験できる場所といえば、ジェットコースターが思い浮かびます。
日本で一番の加速度を誇るジェットコースターはどこかを調べてみました。

⇒参考サイト:ジェットコースター徹底比較

それによると、実に5Gを超えるものが2つもありました。
ヴィーナス(スペースワールド)が 5.26G、新滑空水上コースター・カワセミ(東武動物公園)が 5Gとなっています。


スペースシャトルよりも加速度が厳しいにも関らず、訓練もしていない普通の人が乗っても安全であるのは何故でしょうか。
そのポイントは
(1)加速度が掛かっている時間が一瞬である
(2)軌道が「人に優しい」曲線となっている

の二点だと思います。


このうち、後者の「人に優しい」曲線について考えてみます。
身近な例として道路の曲線をとりあげます。

車に乗っている人が如何に快適に、安全に走行できるかということは、道路設計の一番の命題になるのですが、具体的な条件を列記すると

(1)速度が速くなったり遅くなったりせず一定の速度を保つ
(2)カーブを曲がるときには急なハンドル操作を避ける
(3)人体に作用する加速度の変化をなるべく少なくする

といったところでしょうか。


車が一定のスピードで走っている時に、ハンドルを一定の角速度で切ることにより描かれる曲線が上記条件に合致しそうだ、ということが体感的に分かります。
そのような曲線だと、ハンドル操作が自然に行われ、加速度の変化が緩やかであり、人体に作用する加速度Gの変化も少なくなります。

この条件により描かれる曲線をクロソイド曲線といいます。

 x座標値 x(l) = a∫cos(θ2/2)dθ
 y座標値 y(l) = a∫sin(θ2/2)dθ
    
 積分区間[0:l]
 l:曲線上の距離

クロソイド曲線をエクセルで描いてみました
clothoid.gif


基本的に、道路を設計する際にはクロソイド曲線が用いられています。


なお、クロソイド曲線が日本で最初に道路設計に導入された場所は国道17号線三国峠であり、峠には「クロソイド曲線記念碑」も建立されています。


日本初のクロソイド曲線を利用した道路線形の導入(一般国道17号・三国峠)

危険な山道であった三国峠。道が細く急なこの峠では、かつて多くの人々が命を落とす悲劇が絶えませんでした。
昭和27年、この山岳道路が一般国道に指定された後、改良工事が行われ、この時日本で初めてクロソイド曲線が導入されました。
これは道路の直線と力ーブの間に緩和曲線を挟み込む線形で、直線からカーブに入った場合に車に加わる加速度を押さえ、 道路から車が飛び出すのを防ぐ効果があります。 三国峠から導入されたクロソイド曲線は、その後の道路整備でも積極的に取り入れられ、各地で人々の安全を守り続けています。
自動車が走行しながらハンドルを回したときの軌跡がクロソイド曲線になることから、安全で走りやすい道路に非常に適しています。その他では道路だけでなくジェットコースターなどにも適用されています。
(出典:高崎河川国道事務所)



道路設計において、曲線を描く場合には、このようにクロソイド曲線を用いるわけですが、基本的に下図のように設計します。

20090317-01.jpg

こうすることにより、カーブに差し掛かってハンドルを徐々に一定の速さで回し始め、カーブのピークではハンドルを固定、そしてハンドルを徐々に戻し、最後は真っ直ぐに・・・という操作でスムーズにカーブを曲がることができます。

一昔前は、この曲線を描くために特殊な定規を使っていました。
これがベラボウに高価なのです。⇒クロソイド定規


今では電子計算機の発達により比較的手軽に計算できるようになりました。
便利になったものです。


彼岸明けには高速道路料金が値下げになり、ドライブを楽しむ方も多いと思います。
道路には、直線で設置できるような箇所でも、敢えて適度に曲線を加えることによりドライバーの眠気を防いだり心地よいリズム感を与えたり設計者の工夫を感じられる箇所もあります。

カーブを運転する際には設計者がどのような思いを込めて線を引いているのかを楽んでみては如何でしょうか。
 


以上は道路設計における曲線を考えましたが、これに限らず様々なことに応用できるのがクロソイド曲線です。

私たちを取り巻く「環境」はさまざまな場面で変化します。
AとBの2つの状態間を緩衝的に結ぶか結ばないかは、冒頭のスペースシャトル打上げとジェットコースターとの差にも如実に表れています。

寒い室外から暖かい部屋の中に入った時(温度の変化)、部屋の照明を点けるとき(照度の変化)などなど、このように2点間の状態を急激に遷移させるのではなく、始めは緩やかに、徐々に変化の度合いを高めていくというように工夫することが私たちにとって「優しい」ということになるでしょう。



■補記
クロソイド曲線は、「一定の速度」で走行、「一定の角速度でハンドルを回す」という条件でしたが、路面のバンク角を立体的に考慮し安定的に走行できるように設計したした曲線があります。
それはマッコーネル曲線と言われるものですが、競輪とかレースをやられている方は耳にしたことがあるのではないでしょうか。


■補記2
前に、お寺の屋根の勾配がカテナリーであることを検証しましたが、もし「雨粒たち」に優しい曲線を設計するのであれば、クロソイド曲線やマッコーネル曲線でお寺の屋根を設計してみるのもアリかもしれません。
大学の講義で、ある教授が「水路を設計するときには水の気持ちになって設計しろ」とさかんに言われていたことが強く印象に残っています。


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投稿者: kameno 日時: 1:28 AM | | コメント (2)

EXPACK500詰め放題

最近便利に利用させていただいているEXPACK500(エクスパック)。
テレビCMなどで、様々なものを詰め放題で送ることができるということをアピールされています。

ex.jpg

では、実際にどれくらいのものを送ることが出来るのでしょうか。


エクスパック利用約款を見てみると、次のような記載があります。

EXPACK500ご利用の条件
EXPACK500としてのご利用に限ります。
次のものを入れて送付することはできません。
現金・貴金属等の貴重品
信書(無封の添え状や送り状は同封することができます)
爆発物・毒劇物などの危険物
信書を送付することができないサービス
速達、書留、代金引換、保冷等のオプションサービスの付加はできません。
配達証がはがれているものはお引き受け、交換できません。
袋が著しく破れているもの、切削加工したものはお引き受けできません。
封を補強するための粘着テープ等は、表面の印字部分にかからないようご注意ください。
次のようなものの送付はご遠慮ください。
ガラスや瀬戸物などのわれもの
精密機械などのこわれもの
なまもの・いきもの
芸術作品などの代替品の入手が困難なもの
郵便物の損害賠償制度
万一、配送途中に事故があった場合、運賃相当額を超える損害賠償を行うことはできませんのでご注意ください。
EXPACK500の重量制限は30kgまでです。(封筒に30kg入れられるということではありません。)
一部のポストには入りません。
品名の記載の無い場合及び次のようなものを内容とするものは、航空以外の輸送手段によって送達しますので、エクスパック約款に規定する引渡予定日によらず送達します。
航空法その他の法令又は官公署の命令、規則若しくは要求によって輸送を禁止若しくは制限されたもの。
航空会社において引受けを制限しているもの。

このうちの、「袋が著しく破れているもの、切削加工したものはお引き受けできません」「 EXPACK500の重量制限は30kgまでです」あたりがポイントとなりそうです。


実際に内形寸法を測ってみると、24.8cm×34.0cm。
これを、袋を著しく破らずに、かつ切削加工せずに、どれだけの容量を詰めることができるのでしょうか。

さっそく計算してみましょう。
厳密に言うと、球面に近い曲面となる形状が最大容量となることが予測できますが、計算を簡単にするために

エクスパックを立体成形する方法 さんのサイトのような直方体という条件にしてみます。


ex.gif

厚みを x cm とすると、内形寸法の条件から、幅は 24.8-x cm 奥行きは 34-x cm となります。

したがって、容積を y とすると
 y = x (24.8-x)(34-x)
  = x3 - 58.8 x2 + 843.2x

極値を求めるため微分

 y'= 3x2-117.6x+843.2

この二次方程式の解は

  x =(117.6±SQR(117.62-4・3・843.2))/6
     = 9.45 or 29.75


エクスパック内寸の条件から  厚み x=9.45 cm のとき、 容積 y は 約 3,561cm2 となり、最大容量となることが分かりました。


理科年表によると物質の比重は


鉄………… 7.874
銅………… 8.96
銀…………10.50
鉛…………11.35
パラジウム12.02
水銀………13.546
金…………19.32
白金………21.45
イリジウム22.42
オスミウム22.57

ですから、それぞれの物質を詰めた場合

鉄………… 28.0kg
銅………… 31.9kg
銀…………37.4kg
鉛…………40.4kg
パラジウム42.8kg
水銀………48.2kg
金…………68.8kg
白金………76.4kg
イリジウム79.8kg
オスミウム80.4kg!

・・・なんと、オスミウムをエクスパックに詰めた場合、80kgを超えてしまうことが分かりました。
恐るべし、オスミウム。

エクスパックの中に、約款で謳われている重量制限30kgを超えるものを詰めることができることが分かりました。
(だからわざわざ約款に「実際に30k封筒に30kg入れられるということではありません」なんて書かなくても大丈夫ですよ、郵便局さん!)

実際に30kgのものを送ってみたらどうなるかを試してみたいものです。

きっと郵便配達の方の腰が抜けることでしょう。

投稿者: kameno 日時: 1:04 AM | | コメント (3)

永野村、鎌倉郡から横浜市へ

港南区は、そのほとんどが住宅地で埋め尽くされてしまっています。

地形からこのエリアを概観すると、大岡川水系・柏尾川水系と、それを分ける分水嶺が特徴です。
この分水嶺が前日の記事で詳述した武相国境です。

江戸時代の村落について判りやすいように『新編武蔵風土記稿』(文政2年・1828年成立)、『新編相模国風土記稿』(天保12年・1842年成立)を元に、地形図に落として作図してみました。

nagaya9.jpg
<江戸時代の港南区エリア>


それによると、現在の港南区エリアには、武蔵国側(国境東側大岡川水系)に宮ヶ谷村・金井村・宮下村・吉原村・上大岡村・雑色村・松本村・関村・最戸村・久保村があり、相模国側(国境西側・柏尾川水系)に上野庭村・下野庭村・永谷上村・永谷中村がありました。

(後に宮ヶ谷村・金井村・宮下村・吉原村は日野村に、雑色村・松本村・関村は笹下村に、永谷上村、永谷中村、永谷下村は永谷村として合併)
(さらに「明治の大合併」で、久良岐郡大岡川村と日下村、鎌倉郡永野村が成立)


地形図をみてのとおり、耕作や居住に適した低地は川沿いの一部地域であり、いわゆる谷戸と呼ばれる地域でした。
丘陵は、標高こそあまり高くないですが、傾斜が比較的急峻であり、山あり谷ありの複雑で不便な場所であったといえます。

そのため、各村の人口は少なく最大でも60戸ほどの戸数でで三村を形成していたようです。
それゆえ、世間の喧騒からは離れ経済的には豊かではなけれども平穏な毎日を送っていたと考えられます。

武蔵側、相模側の交通が不便であったがゆえに、同じ港南区であっても異なった文化が育まれています。
武相国境の国境線がもたらした影響は、例えば各村の横浜市への編入の時期を見ると、その一部を垣間見ることが出来ます。

鎌倉郡永野村の昭和に入って間もなくの時期の課題として、「学校の改築」「伝染病舎の結末」「県道の改修」がありました。
このうち、「伝染病舎」については、関東大震災前までは(現在の戸塚区)川上村と共同で隔離病舎を造っていましたが、大正12年の関東大震災で倒壊してしまったため大岡川村の村医朝倉氏と共同で行うこととなり、豊田・川上・永野三ケ村の組合解散の決議をし、大正14年に永野村は武蔵国側の久良岐郡大岡川村、日下村と組合となります。

【豆知識】
永野村の領域は、普通に考えると豊田・川上村とともに後に戸塚区に編入されたはずでしたが、わざわざ分水嶺・武相国境を越えた村とともに港南区となっている理由はここに発端があったのです。


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<昭和2年4月1日に拡充された横浜市域>


ところが、昭和2年に横浜市の市域拡充に伴い隣接町村を合併する際に、永野村を除いた大岡川村、日下村が横浜市になり、武相国境西側の永野村だけが鎌倉郡のまま取り残されてしまいました。


nagaya10.gif

なぜ十年近くも遅れをとったのでしょうか。

当時、武蔵側と相模側を結ぶ道路は、いわゆる尾根道の古道だけでありました。
自動車が永野村に初めて入ることができたのは、実に昭和4年に平戸と吉原を結ぶ道路の完成を待つこととなります。
それまでは、横浜の隣りでありながら道路整備が不完全で、いわゆる陸の孤島のような状態であったわけです。
横浜市への出入が遠い町村にすら及ばず、自ら別天地のごとき生活状態でありました。
生活習慣も総てが鎖国的であったという中、国境の丘陵を越えるということの障害が、横浜市への編入の遅れの主因となったようです。

昭和4年、平戸と吉原を結ぶ道路が開通することにより、永野村はようやく「開国」の日の目をみることになりました。
(この道路は後に現在の環状2号線となります。片側3車線の道路が整備されるとは当時の人々には思いもつかなかったことでしょう)


この時期の村長さんの言葉をご紹介いたします。

都市に都市にと先を争って走るときに、工業の行詰りは、農業立国に逆転せぬとも限らぬ。土地の開発と言えば曰く住宅地、曰くゴルフ場、曰く遊園地、曰く何々工場、甚だしくは花柳界等の招致がそれである様に思ふものがある。
自分はそんな不健全な発展は望まない方がよいと思う。望まなくても、自然に殖えて寧ろ取捨選択に困るであろうと思ふ。区画整理もせねばならぬ時も来よう。村道として開いた道が自動車道と変る時代も来るであろう。要するに之等は自然の所謂他動的の勢に任せて、今は只農業的に所謂自動的充実に全力を尽す時代であると自分は信ずる。
永野村は他の多くの農村とは趣を異にしている。今は戸数二百の小村であるが、土地が広くて、大都市に隣接して居るから、年々歳々移住者が多くなり、遂には移住勢力に圧倒される時が来る。之れも免れ難い運命であるが、自分で分家を奨励する意味が茲にも着眼しているのである。
永野村の前途には光明が輝いて居るのであるが、之れは過渡期の時代に於ける私達の舵の取り方が甚だ六づかしい。只自分達は何処迄も、永野村を美しい気持ちの良い住み良い働き良い所として行きたいものだ。偏見かも知れぬが、自分は之れを望むのだ。

『村政七年を顧みて』(昭和6年・永野村村長 西木泰一著)

今から80年も前の言葉です。
今の世の中でも、充分に通用する内容ではありませんか。
その見識の高さには心底驚かされます。

現在これだけの見識をもった政治家がどれだけ存在するのでしょうか。



■関連ブログ記事

鎌倉郡から横浜市へ

高浜虚子一行の永谷村探勝

投稿者: kameno 日時: 2:55 PM | | コメント (4)

武相国境と鑪(たたら)場

鎌倉古道下之道-2と同様の手法で、武蔵国と相模国との国境、武相国境を検証してみます。

武相国境は、追浜?瀬谷までの間は分水嶺(=山稜線)を通っています。

busou4.jpg


武相国境のうち港南区の部分は「七里堀」とも称されており、この国境によって港南区のエリアは分断され東半分=武蔵国、西半分は相模国に属しておりました。
『新編武蔵風土記稿』には「水流れる境」として七里掘(武相国境沿の道)について次のような記述があります。

山堺に七里堀と云あり 爰より吉原、松本、久保、最戸、別所、中里の六ケ村を経て引越村(六ッ川)に通じる里程七里許を以って七里堀と唱ふ。この古道は鎌倉海道なりしか東海道開けてよりこの道は廃し、今は小径残れり、......
『新編武蔵風土記稿』


国境線が分水嶺でありますので、東側(武蔵国側)に降った雨は大岡川を通って東京湾へ、西側(相模側)に降った雨は永谷川、柏尾川を通って相模湾へ注ぎます。

横断断面図を作成してみると分水嶺であることが一目瞭然です。
3か所について断面図を作成し付記しました。


busou1.jpg busou2.jpg

なお、武相国境は瀬谷以北は分水嶺ではなく境川が国境線となっています。


武相国境には製鉄の拠点という重要な役割もありました。
すなわち、大和朝廷の勢力が鉄器文明を広めながら通過した動脈路であったわけです。

busou5.jpg

港南区から栄区に入った鼬川流域には「金」のつく地名が多いのです。
鍛冶ヶ谷はその代表的な製鉄の地であり、たたら場でもありました。
製鉄関連の炉が18か所、鉄精錬の炉が14か所、製銅の炉が1か所、砂鉄を出した竪穴遺構、鍛冶ヶ谷式の横穴古墳などさまざまな製鉄関連の遺跡が点在しており、7世紀?9世紀前半にかけてこの丘陵地域一体を掘削して平地をつくり、大規模な製鉄操業を行っていたと考えられます。


踏鞴製鉄(「鑪(たたら)」 せいてつ、英:tatara iron making method)とは、世界各地でみられた初期の製鉄法で、製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置の鞴(ふいご)がたたら(踏鞴)と呼ばれていたためつけられた名称。
日本列島においては、この方法で砂鉄・岩鉄・餅鉄を原料に和鉄や和銑が製造された。こうして製造された鉄や銑は大鍛冶と呼ばれる鍛錬によって脱炭された。この方法で和鋼が製造されたこともあったが現在では行われていない。他には和銑を再度溶融し、鉄瓶などの鋳鉄製品を製造する原料ともした。
(出典: ウィキペディア)

金井村、カナクソ(鉱滓)、金沢、金谷(横須賀)、金谷(房州)・・・・これらの地点を結ぶと、日本武尊東征路、武器の輸送、製造、修理の足跡を辿ることができます。
また、港南区から栄区、たたら場のあった周辺には白山神社が多くあります。
白山神社は鉱滓と関係が深い神社です。

粉金(こがね)七里に、炭三里

たたらの立地条件は大量の炭を確保するために広大な面積の山林を必要としました。
「粉金七里」は、原料の砂鉄を仕入れるのは七里先までという言葉です。

七里堀の七里は、ここから来ているのかもしれません。
 
 


武相国境についてもムービーとして作成してみました。
(ネット上ですので画質を落としています)
高低差を5倍強調していますので分水嶺であることを体感できると思います。
クリックしてご確認ください。


 ⇒ムービーを再生(WindowsMediaVideo)

投稿者: kameno 日時: 2:21 AM | | コメント (10)

鎌倉古道下之道-2

以前、ブログ記事において 鎌倉古道下之道をGoogleMapで表示いたしました。

今回は、別の角度からの視点で古道のルートを検証してみます。

現在の鎌倉街道は大岡川沿いの谷戸を通るルートですが、鎌倉時代の鎌倉古道下之道は、主に尾根筋を通るルートとなっています。

その理由は

下野庭の天谷橋または天谷大橋の命名の由来は、昔(年代不明)、武蔵国と相模国の争いがあった。互いに対峙したのが、ここ天谷大橋付近だった。その時、馬洗川の渓谷は霧が立ちこみ底なしの千尋の谷と化していた。両国は攻め倦んで和睦を申し入れ、争いは終わった
『港南の歴史と文化』(伊藤武著・港南歴史協議会)

にあるように、度々起こっていた武相国境付近の争いに備え、見通しがよく敵を見つけやすい場所であることのほかに

山の上の道を通ると見通しが良いので敵や獣に対して有利である。乾いていて歩きやすい。一方川沿いの道は湿地が多いので歩きにくい。どうしても大小の川を渡る必要があり、渡る橋がもしあっても木橋の寿命は7年ほどである。しかも度々壊れる。履物が「わらじ」や藁でできた靴では始末が悪い。熊・猪・オオカミ・まむし・ヒル・蜂・毒虫などと出会いやすい
『忘れられた街道』(中根洋治・風媒社)

など、様々な理由が挙げられます。
車両の通行にとっては尾根筋のルートは不利ですが、徒歩ルートでは、逆に尾根筋の方が有利であるのです。
 
 

「カシミール3D」で港南区内の「鎌倉古道下之道」のルートを作成してみました。

20090218-01.jpg


縦断断面図はこのようになります。

20090218-02.jpg

やはり結構勾配のきつい場所はありますね。


最後に、別所餅井坂から舞岡公園までのルートをムービーとして作成してみました。
(ネット上ですので画質を落としています)
高低差を5倍強調していますので尾根筋を通るルートを体感できると思います。
クリックしてご確認ください。

 ⇒ムービーを再生(WindowsMediaVideo)

投稿者: kameno 日時: 11:24 PM | | コメント (3)

雪だるまとsnowman

雪が積もると街のあちこちに雪だるまが出現します。
この雪だるま、「だるま」ということから、震旦初祖(中国へ禅を伝えた禅宗の初祖)菩提達磨大和尚に由来するという説が有力のようです。




雪だるま

(ゆきだるま、雪達磨)とは、雪でだるまのような形にかたどったものである。雪の降る地方でよく作られ冬の風物詩となっている。典型的なものとしては、目として炭団を入れ、腕として小枝を挿し、帽子としてバケツをかぶせる。小枝に手袋を填めることもある
英語ではsnowmanが雪だるまに相当する。 欧米の雪だるまと日本の雪だるまの違いは、形にある。その呼び名の文字通り、日本のそれは「達磨(だるま)」に似せたものであるが、欧米のそれは人に似せたものである。
日本のものは上部の球は頭、下部の球は肩から下の上半身と座法の胡坐(あぐら)の下半身を表す。このように、日本では雪の球二つを頭部と胴体に見立てて作るのが普通であるが、欧米ではさまざまな形があり、三つの球を使い、炭団でアゴヒゲを表現する例などがある。
欧米では人を模すものであるが、日本の雪だるまは禅宗の開祖とされる達磨を模すことから言って、作り上げる遊びとしてだけでなく、暗に宗教的にも形を成すものとして作り上げるものとして抽象性が高いともいえる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(下線はkameno付記)



日本の雪だるまは二段のものがスタンダードですが、欧米の雪だるま(Snowman)は三段のものが多い・・・



In Europe and North America, most snowmen are usually built with 3 spheres which contain the head,torso, and lower body.
(Wikipedia_English)

アメリカと日本の雪だるまの違いとは(exite Bit)

これは、Googleのイメージ検索を行っても良く分かります。


ゆきだるま

snowman

 
 

私は単純に「雪だるま」を作る動機は西欧も日本も変わらないと思います。
現在、雪だるまを作る時に「達磨大師」を意識して作る人はいないはずです。
「達磨」であれば、祈願をしたり拝んだりしますから宗教的な意味合いは無きにしもあらずですが、雪だるまを拝んだりはしませんね。

雪像を人の形に作るという行為は、人類普遍のものだと思います。だから欧米も日本も雪だるまは「人に似せたものである」でいいんじゃないかな?と思います。


ところが、いろいろと調べてみると、江戸時代にはこのように達磨大師を模して作っていたこともあるようです。

リアル雪だるま

当時はこのような雪だるまが多かったのでしょうか。
なかなか味わいのある絵ですね。

さらに


現在のような玉を二つの雪だるまは江戸時代にはなかった。
当時の雪だるまはだるま大使の石像でかなりリアルなものであり、大人が作る物であった。
(形は座禅を組むような形だったそうです。)
雪玉を丸めて遊ぶ「雪まろげ」という遊びはあったそうです。
「雪まろげ」・・・雪を転がし丸い大きなかたまりにすること
お江戸でござる おもしろ講座



なるほど、やはりそうなんですね。
大師と大使との誤植はここではおいといて(マグマ大使ではあるまいし)・・・
ということは、

・江戸時代には雪球を2段に重ねる雪だるまではなく、「達磨」を模した雪だるまであった
・時代が下り、二つの雪球を2段に重ねるような現在の雪だるまが一般的となった


起源は達磨大師であっても、現在は「人に似せたものである」ということでよさそうです。

今度雪が積もったら江戸時代の「リアル雪だるま」を再現してみたいものです。




■これまでに貞昌院で撮影したさまざまな雪だるま
(3段のものもありました)


20060121-4.jpg snow01.jpg 20080203-05.jpg

snow02.jpg snow03.jpg


蛇足


世界で遊ばれているゲーム「どうぶつの森」では2段となっていますね。
3段には積めませんでした。
snow04.jpg
(c)Nintendo 街へいこうよ どうぶつの森




蛇足2

スイスでは中に藁がつまっている雪だるま“ベーグ”を燃やし、冬と別れて春の到来を祝う


蛇足3

最多最大雪だるま…青森・黒石市 (読売新聞)

投稿者: kameno 日時: 11:37 AM | | コメント (0)

一期一会 ルーリン彗星

ルーリン彗星 接近中 鳥取の天文家が撮影成功

二月二十四日に地球に最接近する「ルーリン彗星(すいせい)」の写真撮影に二十九日、鳥取市内のアマチュア天文家が成功した。最接近時には肉眼で観測できる二等級まで明るくなる期待もあり、今年前半の最大の天体ショーとなりそうだ。
撮影したのは鳥取市富安の多賀利寛さん(57)。自宅天文台で二十九日の明け方、南東のてんびん座を移動する彗星を口径二〇センチの反射望遠鏡で撮影した。
多賀さんによると、最接近時はしし座にあり、一晩中観測が可能。すぐ近くに土星が輝き、見事な天体ショーが期待できるという。現在は彗星の尾が右上に見えるが、最接近を境に尾の向きが反転する珍しい現象も見られる、という。
多賀さんは「最接近時は新月で、夜空の環境が良ければ、双眼鏡はもちろん肉眼でも観測できるのでは。土星とともに撮影のチャンス」と話している。

日本海新聞2009年01月30日



昨日の記事に引続き「世界天文年」にふさわしい話題です。

冒頭の記事にあるルーリン彗星は、2007年7月に台湾の鹿林(ルーリン)天文で発見された彗星です。
その軌道周期は数万年以上!
数万年の旅を経て今年2月に地球に最接近するルーリン彗星を、さっそくStella Theater でシミュレートしてみました。


【軌道要素】
彗星名=ルーリン彗星 (C/2007 N3)
近日点通過時刻=2009 01 10.66551
離心率=0.9999948
近日点距離=1.2125523
近日点引数=136.85390
昇交点黄経=338.53392
軌道傾斜角=178.37278


2007N3.jpg
観測地横浜 それぞれ深夜0時の土星およびルーリン彗星の位置


ルーリン彗星は、このように2月半ばには乙女座→獅子座へと移動します。
ほぼ一晩中見え真夜中には南南東の高い位置に見えます。

観測の好機は2月16日夜と2月23日夜。
2月16日夜には、乙女座のスピカ、2月23日夜は土星のすぐ南を通過します。

このころ彗星は2等星まで明るくなると予想され、しかも24日ごろ地球に最接近しますので肉眼や双眼鏡でも見ることが出来るはずです。
このころの彗星の見かけの移動速度はかなり速く、みるみる移動していくことが分かりますし、尾の変化にも注目です。

最接近の後は次第に暗くなり、地球からどんどん離れていきます。


ルーリン彗星が再び地球に近づくのは数万年も先の話ですから、まさに一期一会と言えましょう。




■関連ブログ記事
2007年に観測したホームズ彗星
http://teishoin.net/blog/000958.html
http://teishoin.net/blog/000960.html

投稿者: kameno 日時: 11:56 PM | | コメント (0)

新年の始まりは特別な月

kinkan.jpg

インドネシアで金環食を観測 「指輪みたい」

「指輪みたい」?。
インドネシアのジャワ島西部などで26日午後(日本時間同)、太陽の中心部分が月で隠されてリング状になる「金環食」が観測された。この日、同国は旧正月の祝日で、多くの人が天文ショーに見入った。

「とてもきれい。神様の祝福だわ」。薄曇りの西ジャワ州の海岸で、特製のサングラスを使って日食を見た会社員ウランさん(32)は興奮気味。

主婦ユニさん(29)も「夕方の祈りのときのように周りが暗くなり、金環食が見えた。日食を見るのは初めて。見ることができたのは神様のおかげ」と話した。
(全国新聞ネット)



1月26日、東南アジア地方を中心に金環食が見られました。
旧暦で新年を祝う国や地方も多く、旧暦では新月が1日となりますので、当然に日食が起きる日は1日となります。
特に一年の始まりである元日にこの現象が見られたということになりますので、特別な新年の幕開けとなりました。

天体シミュレーションソフト Stella Theater でその様子を再現してみました。
見たかった・・・・・


20090128-03.jpg

横浜では残念ながら1月26日の日食を観測することは出来ませんでしたが、今年7月22日に部分日食、3年後の2012年5月21日に金環食を見ることができます。


2009年7月22日には日食が起こります。日本では、全国で部分日食を観察することができます。また奄美大島北部、トカラ列島(注1)、屋久島、種子島南部など、皆既日食帯と呼ばれる細長くのびた地域・海域内では、皆既日食を観察することができます。 皆既日食になると、太陽のまわりにはコロナが広がって見られます。また太陽表面から吹き出ている赤いプロミネンスなども観察することができます。空は、程度は日食ごとに違いますが、夕方・明け方の薄明中のように暗くなり、明るい星ならば見ることができます。地平線近くは、夕焼け(朝焼け)のように空が赤く染まって見られます。 日本の陸地に限ると、皆既日食が観察できるのは1963年7月21日の北海道東部で見られた皆既日食以来、実に46年ぶりです。次回も2035年9月2日の北陸・北関東などで見られる皆既日食まで26年間起こりません。非常に珍しい現象と言えるでしょう。 (国立天文台


7月22日、横浜では、日食の始まりは9時56分。食が最大になるのは11時13分。このとき食分は76%となります。そして食の終わりは12時30分。
Stella Theater でシミュレートするとこんな感じです。

20090128-01.jpg

なお、部分日食を観測する場合は、直接太陽を見るのではなく、ピンホールや木漏れ日を通して観測する方法がオススメです。
木漏れ日をきれいに作り出してくれる樹木はカエデ、モミジバフウなど葉の形が複雑なもの。
このように観測できるはずです。

 


 
皆既日食が観察できるのは奄美大島の北部?トカラ列島?屋久島、種子島南部など。
nisshoku2009.jpg
(図は国立天文台サイトより引用)


日本の陸地で観測できるチャンスは46年ぶり、今回を逃すと次は2035年です。

20090128-02.jpg


うーん、7月22日・・・・・・
気持ちだけは南西諸島に向いているのですが。


とにかく今年はガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡での天体観測を行った年から400年という「世界天文年」。
さまざまな天体ショーも目白押しです。

投稿者: kameno 日時: 11:21 AM | | コメント (2)

マヨネーズとの闘い

BGM:「地上の星」(中島みゆき)


本棚からこのような写真が出てきました。
懐かしい!
20090127-04.jpg

これは、大学時代にしていたアルバイト(様々なアルバイトを経験しましたが、そのうちの一つです)の時に撮った写真です。

写真を見ると、地面から何かがたくさん出ていますね。
これは何かというと、ドレーン材と呼ばれる、地中の水分を排出するために埋められているものです。
(ドレーン=排水)

背景に飛行機が写っていることから分かると思いますが、場所は羽田空港。
第一期計画で供用される新A滑走路のあたり(下図参照)です。

現在の羽田空港の主要滑走路及び、旅客ターミナルは羽田空港沖合展開事業により拡張されたものです。
国土交通省関東地方整備局のサイトから、羽田空港・戦後以降の羽田空港の変遷を引用してみます。

20090127-05.jpg


羽田空港(東京国際空港)は世界屈指の巨大空港として日本経済を支えてきましたが、空港需要の増大に対処するために滑走路の増設が緊急の課題となっていました。

計画された羽田空港沖合は、計画当時はへドロが堆積していたドロドロの底なし沼で、その様子をマヨネーズに喩えて「羽田マヨネーズ層」などと表現されていたのです。
この表現は決して大げさではなく、本当にマヨネーズと同程度の粘度でした


ヘドロの上に土が被せられたものの、表面の土からヘドロが地表へ吹出し歩くことすら困難な沼地でした。
土の表面が乾いて見えるようなところも薄皮一枚。そこに落ちると底無し沼にズブズブと沈んでしまいます。

そのような場所に空港を建設することは並大抵のことではありません。

だからこそ、そこには最新の土木技術が投入されることとなり、その現場に立ち会うことが出来ました。
その一つが、冒頭の写真です。

ペーパードレーン工法は、地盤改良工法としてのバーチカルドレーン工法の一種です。
簡単に言うと、水分を多く含む軟弱な地盤に、透水性のあるドレーン材を垂直に打設し、土中の水分を効率良く排水する工法です。
土中の水分が排水されることによって軟弱地盤が強固な地盤に変化していきます。

バーチカルドレーンの効果が進むと、ようやく上を車両が通行できるようになります。
ただし、空港に耐えうる地盤には程遠いので、地盤改良工事が引続き行われました。

20090127-02.jpg

この写真はJSG工法を施しているところです。

JSG工法とは、地中に打ち込んだ二重管(ロッド)の先端から超高圧でセメント系硬化材を圧縮空気と同時に噴射し、回転しながらロッドを引上げることにより、直径1?2mのパイル状固結体を造成する工法です。
設計図どおりに間隔をきちんと取り一列に施工するために、H鋼で作られたレールの上に機械が設置され、順番に地盤改良を行っていきます。


このほか、沈下する地盤をジャッキの油圧で持ち上げ空洞を特殊なコンクリートで固める工法などを駆使し、計画から完成まで約20年の歳月を経てようやく羽田空港新滑走路の供用に至ったのです。


20090127-01.jpg 20090127-03.jpg
写真に写っているのが大学時代の私です。


滑走路は平常どおり供用されていますので、飛行機が次々と離着陸するすぐ脇の現場でした。
当然に安全管理体制や通行規制など厳格に定められたルールに従い工事が進捗されていくわけです。

最先端の工法を体験できたこと、現場の運営、進捗管理に触れることができたことは、後の仕事で大いに役に立ちました。
何より楽しかった!


多くの方が力を合せて一つの事業に立ち向かっている当時の様子が羽田空港を利用するたびに思い出されます。

 

BGM:「ヘッドライト・テールライト」(中島みゆき)





haneda.jpg
プロジェクトX 挑戦者たち
新羽田空港 底なし沼に建設せよ


日本の空の要「羽田空港」。かつて、その場所は「底なし沼」と呼ばれた魔のヘドロの海だった。
足を踏み入れると抜け出せない超軟弱地盤。悪臭もひどかった。
「羽田地獄だ」現場の作業員たちは、口々に言った。
その難局に立ち上がったのは、日本の空港建設一筋に生きてきた技術者たち。
あのスエズ運河の現場で腕を鳴らした男もいた。
「絶対に日本の空を築いてみせる」。
前代未聞、ヘドロとの格闘に挑んだ人々の壮絶な物語。

投稿者: kameno 日時: 9:57 AM | | コメント (2)

社寺明細帳図から見えてくること

金沢文庫企画展 描かれた寺社展に展示されている「明治の社寺明細帳図」を眺めていると興味深いことが分かります。

それは、「社寺明細帳図」の書式として定められた

1.境内の地形を測り、その方位を定め、地種の等級を図中に明示すること

の、地種の等級についてです。

まずは、展示されている神社、寺院について、それぞれ地種がどのような等級に分類されているかを絵図から抜き出して一覧にしてみました。
※下記リストは金沢文庫での展示順です。地種の抜き出し、分類はkamenoが行っていますので間違いがあればご指摘ください。

 

■神社

相模国鎌倉郡金井村 誉田別神社 官有地第一種
相模国鎌倉郡岡津村 三嶋神社 官有地第一種
相模国鎌倉郡飯島村 三嶋神社 官有地第一種
相模国鎌倉郡下野庭村 白幡社 官有地第一種
相模国鎌倉郡二つ橋村 神明社 官有地第一種
武蔵国久良岐郡田中村 伊勢大神社 官有地第一種
相模園鎌倉郡城廻村 諏訪神社 官有地第一種
相模国鎌倉郡扇ケ谷村 八坂大神社 官有地第一種
相模国鎌倉郡二階堂村 荏柄天神社 官有地第一種
相模国鎌倉郡二階堂村 住吉神社 官有地第一種
相模国鎌倉郡二階堂村 熊野神社 官有地第一種
相模国高座郡四ッ谷村字宮ノ下 日枝神社 官有地第一種
武蔵国久良岐郡富岡村字宮田 八幡大神社 官有地第一種
武蔵国久良岐郡釜利谷村字小泉下 手子神社 官有地第一種
同上 同上(山林部分) 官有地第三種
武蔵国久良岐郡寺前村 王子社 官有地第一種
相模国大住郡西田原村村社 八幡神社 官有地第一種
武蔵国北多摩郡烏山村字千駄山 稲荷神社 記載なし?
武蔵圃北多摩郡上川原村 日枝神社 記載なし?

■寺院

武蔵国北多摩郡大町村 清教寺 民有地第一種
同上 同上(墓地部分) 民有地第三種
武蔵国久良岐郡北方村 善行寺 官有地第四種
相模国大住郡西田原村 香徳寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡永谷村 貞昌院 民有地第一種
相模国鎌倉郡笠間村 笠間山法安寺 官有地第四種
相模図鎌倉郡小雀村 燈明寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡下倉田村 龍臥山瑞祥院永勝寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡秋葉村 長蔵寺 民有地第一種
相模国鎌倉郡品濃村 北天庵 官有地第四種
相模国鎌倉郡飯島村 光長寺 官有地第一種
相模国鎌倉郡下倉田村 南江山万松寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡上倉田村 林宗寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡平戸村 永谷山東福寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡鍛冶ヶ谷村 本郷山正翁寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡大町村 延命寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡大町村 別願寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡小袋谷村 亀甲山法得院成福寺 官有地第一種
相模国鎌倉郡常盤村 園久寺 官有地第四種
相模国三浦郡久木村字堀内 妙光寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡岩瀬村 亀鏡山護国院大長寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡大町村 教恩寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡梶原村 休場山等覚寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡岩瀬村 岩瀬山正定院西念寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡岡本村 聖天山智積院玉泉寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡山之内村 光照寺 官有地第四種
相模国鎌倉郡大町 妙法寺 官有地第四種

 

ここで、地種の分類とは、具体的にどのようなものかを法律の規定から確認してみます。
根拠となる法律は「改定 地所名称区別」( 明治7年11月7日太政官布告第120号)です。

改定 地所名称区別」( 明治7年11月7日太政官布告第120号)
明治6年3月第114号布告 地所名称区別左ノ通改定候条此旨布告候事
官有地
第1種 地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス
1 皇宮地 皇居離宮等ヲ云
1 神地 伊勢神宮山陵官国弊社府県社及ヒ民有ニアラサル社地ヲ云
第2種 地券ヲ発シ地租ヲ課セス区入費ヲ賦スルヲ法トス 但府県所用ノ地ハ地券ヲ発セス唯帳簿ニ記入ス
1 皇族賜邸
1 官 用 地 官院省使寮司府藩県本支庁裁判所警視庁陸海軍本分営其他政府ノ許可ヲ得タル所用ノ地ヲ云
第3種 地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス
唯人民ノ願ニヨリ右地所ヲ貸渡ス時ハ其間借地料及ヒ区入費ヲ賦スヘシ
1 山岳丘陵林藪原野河海湖沼池沢溝渠堤塘道路田畑屋敷等其他民有地ニアラサルモノ
1 鉄道線路敷地
1 電信架線柱敷地
1 燈明台敷地
1 各所ノ旧跡名区及ヒ公園等民有地ニアラサルモノ
1 人民所有ノ権理ヲ失セシ土地
1 民有地ニアラサル堂宇敷地及ヒ墳墓地
1 行刑場
第4種 地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦スルヲ法トス
1 寺院大中小学校説教場病院貧院等民有地ニアラサルモノ
民有地
第1種 地券ヲ発シ地租ヲ課シ区入費ヲ賦スルヲ法トス
1 人民各自所有ノ確証アル耕地宅地山林等ヲ云 但此地売買ハ人民各自ノ自由ニ任スト雖モ潰シ地開墾等ノ如キ大ニ地形ヲ変換スルハ官ノ許可ヲ乞フヲ法トス
第2種
1 人民数人或ハ1村或ハ数村所有ノ確証アル学校病院郷倉牧場秣場社寺等官有地ニアラサル土地ヲ云 但此地売買ハ其所有者一般ノ自由ニ任スト雖モ潰地或ハ開墾等ノ如キ大ニ地形ヲ変換スルハ官ノ許可ヲ乞フヲ法トス
第3種 地券ヲ発シテ地租区入費ヲ賦セサルヲ法トス
1 官有ニアラサル墳墓地等ヲ云

少し分かりづらいので、整理して表に纏めてみました。

地所名称区別改定による分類

分類

種別

内容

地券

地租

区入費

第一種

皇宮地、神地

×

×

×

第二種 皇族賜邸、官用地

×

第三種 山岳 丘陵 林藪 原野 河 海 湖沼 地 澤 溝渠 堤塘 道路 田畑 屋敷等
其他民有地ニ有ラザルモノ此ノ他 鉄道路線敷等
×
×
×
第四種

寺院、大中小学校、説教場、病院等

×

×

第一種

所有ノ確証アル耕地、宅地、山林、原野等

第二種

所有ノ確証アル学校、病院、郷倉、牧場、秣場、社寺等

×

×

第三種

官有ニアラサル墳墓地等

×

×



つまり、神社は官有地第一種であることが規定され、「社寺明細帳図」でも押し並べてその分類に従い全ての神社が官有地第一種(ただし、手子神社の山林部分は官有地第三種)となっています。

注目すべきは、寺院です。
ほとんどの寺院が官有地第四種となります。また、光長寺、成福寺のように神社と同様に官有地第一種に分類されている寺院もあります。これら寺院の土地も国に召し上げられています。

そもそも、 江戸時代に認められていた寺社領は、明治維新後、明治4年と明治8年の上知令により段階的に国に没収され領域を狭められていきます。

「総テ民有地ノ証ナキモノ及民有地ヲ政府ヘ買上ケシ神社敷地ハ官有地第一種、寺院敷地は同四種ヘ編入スヘシ」

ついに、原則、神社は官有地第一種、寺院は官有地第四種と分類されてしまいます。
「社寺明細帳図」でも原則そのように分類されていることが見て取れます。

けれども、清教寺、貞昌院、長蔵寺のように民有地第一種(清教寺墓地部分は第三種)となり、民有地のままとなっている寺院もあります。

何故民有地となっている寺院があるのでしょうか。
その理由は、上記規定の中の「民有地ノ証ナキモノ」という辺りにありそうです。

逆に言えば、正当な理由や確実な証拠を提示することにより、当該寺院の申請により国から還付、下げ戻すことが出来たと考えられ、それを行ったのでしょう。
(ただし、神社については国家神道に組みこむため、いかなる理由、証拠を提示しても還付されることはなかったはずです)

貞昌院は民有地第一種ですから、地券が発行され寺院の土地として証明された代わりに、地租も掛かっていたと推測されます。
(なぜ民有地第二種でなく第一種なのかは不明)

明治初期、全国の寺社は神仏分離・廃仏毀釈・地租改正・上知令などにより大きな変革を余儀なくされます。ただ変革させられたばかりでなく、強制的に統合させられたり、破壊された寺社も数知れません。

廃仏毀釈と国家神道について述べることは今日の記事の内容に関連するとはいえスペースが足りませんので機会を改めるとして、土地制度から見た寺社の歴史的経緯を辿ることにより多くの事実が見えてくることが分かりました。


官有地として上知された土地が寺社に戻ってくるのは、寺院については昭和に入り宗教団体法に伴う第一次境内地処分法により、 神社については終戦後「官国幣社経費ニ関する法律」等の廃止と「第二次境内地処分法」神社の(官有地第一種)が寺院と同様の雑種財産として改められ国からの譲与対象になり、さらに宗教法人法の成立まで待たされることになります。

投稿者: kameno 日時: 1:53 AM | | コメント (4)

宝さがし

ちょっと夢のある話題です。
永谷地区に伝わる口伝・伝承です。

 

■梵鐘埋没

永谷上部落上之坊廃跡に古池の痕跡があり、此池中に梵鐘埋めたと、又永谷中下村部落有花寺の井戸にも梵鐘埋めたと伝えられている。

■宝物埋没

永谷部落上之坊の境内に宝物埋めたと次の如く言い伝えられている。

黄金千杯 漆千杯 朱千杯 朝日さし 夕日輝く 勝の木の下

 

出典 『永野郷土誌』(永野郷土誌編纂委員会編・昭和47年発行)





【豆知識】

もし埋蔵物が見つかった場合、以下のような手続きが為されると予想される。

  • 発見者は文化財保護法第57条の2の規定により、直ちに文化庁長官宛に遺構が発見されたことを書面で報告しなければならない。また、発見後は災害等の緊急避難的措置を除き、現状維持をしなくてはならない。
  • 文化庁長官はその歴史的価値を考慮した上で発掘調査を行なうかどうかの判断を行なうとされている。その場合、文化庁の機関または管轄する地方公共団体の教育委員会により発掘調査が施行されることになる。 以降、発見者は独自の判断で発掘を行なうことは勿論、許可が無ければ埋蔵物に触ることもできなくなる。
  • 文化財保護法第59条の規定により、遺失物として所管の警察署長より公告が為される。
  • 所有者が明確に分かる場合、遺失物法の規定により埋蔵金の5?20%に当たる報労金が支払われる。尚、この報労金の代わりに埋蔵金現物を引き渡すことも法律上可能だが、その判断は所有者に委ねられる。
  • 国の所有と判断された場合、埋蔵金は国庫に帰属し、文化財保護法の規定に従い管理される。
  • 所有者の申し出が無い場合、文化庁の機関が発掘した場合は文化財保護法第63条の規定により埋蔵物の価額の2分の1に相当する額の報償金が支給され、埋蔵物は国庫に帰属する。教育委員会が発掘した場合は同法63条の2及びその自治体の条例等に従い埋蔵物の価額に相当する額の報償金が支給され、管轄する都道府県に帰属する。
  • 報償金を算定する基準となる「埋蔵物の価額」は文化庁または教育委員会が決定する為、市場価格とは異なる可能性がある。
  • 発見場所の地権者と発見者が異なる場合、報償金は両者の間で折半することとなる。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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投稿者: kameno 日時: 12:20 PM | | コメント (2)

金沢文庫企画展 描かれた寺社

20081130-01.jpg


神奈川県立金沢文庫 企画展 描かれた寺社 ?中世の指図と明治の社寺明細帳図?

開催:平成20年12月11日(木)?平成21年2月15日(日)
時間:午前9時?午後4時30分 (入館は午後4時まで)
観覧:一般個人 250円、20歳未満・学生 150円
休館:毎週月曜日(ただし1/12は開館)、12/24、12/29-1/3、1/13、2/12



において、会期中の後期(1月17日から2月15日まで)に貞昌院の絵図が展示されていますので早速行ってきました。
テーマにもありますとおり、展示内容は「中世の指図と明治の社寺明細帳図」です。
貞昌院の絵図は、日本が国策として全国一斉調査を行った際に作成された社寺明細図なのですが、一堂に並べられ展示されているものを見ると圧巻です。


社寺明細帳図とは、明治21(1879)年、内務省社寺局により各府県に通達された「神社寺院及境内遙拝所等明細帳書式」(後述)に基づき作成された、神社明細帳・寺院明細帳の付録図です。
天災地災など、不測の事態に対応できるように配置図を保存するために4部を作成し、1部は内務省、残り3部は社寺、郡区役所、戸長役場で保存されました。

現在は、宗教法人は文化庁(もしくは都道府県庁)に毎年届けを出すことになっていますが、時代を遡っても様々な様式により実態調査が行われていました。
社寺明細帳図は、所轄庁である内務省社寺局により統一したフォーマットにより精密な実態、実数把握を全国的に行ったということで画期的な調査でありました。
その調査内容は

寺院=所在地・総本山・宗派・寺院名・本尊・由緒・堂宇間数・境内坪数及び地種・境内堂字数・境内庵室数・境外所有地・檀徒人数・管轄庁迄の距離里数など。
神社=所在地・社格・神社名・祭神・由緒・社殿間数・境内坪数及び地種・境内神社数・境内遙拝所・境内招魂社・境内祖霊社・境外所有地・氏子戸数・管轄庁迄の距離里数など。


まるで宗門より調査が行われる級階査定の提出書類のごとく細かいですね。

境内の詳細を画いた「付録図」は、横浜市金沢区内で名主・戸長を勤めた松本家に残っていた資料「社寺製図凡例」を見ると描き方について細かく決められていたことわかります。

「神社寺院及境内遙拝所等明細帳」の「書式」として次のようなものが残されています。



■社寺製図凡例

1.社寺境内の建物などの配置を細密に模写する目的は、後日天災地異または不測の事態にあった場合でも、かつての配置を捜索考証するのに役立つからである。よって、その図面を保存することは重要であるから、4部を作成し、本庁(内務省社寺局)へ提出すること。そのうち3部は調査の上、それぞれ社寺、郡区役所、戸長役場にてこれを保存すること。その図面を作成するに当たっては次の項目に従うこと。
1.境内の地形を測り、その方位を定め、地種の等級を図中に明示すること。
1.祠堂、その地建物を画く場合、その位置と築造の2点に注意すること。
1.社寺殿堂ほか、装設してある灯籠、手洗鉢、唐獅子、石仏、瑞籬(玉垣)、板牆(みずがき)、土塀等については、境内外を問わず配置のままを記載すること。境内地形線をその境界に挿引して、区分を明示すること。
1.社寺の規模、境内の面積を客観的に観るために、すべて1/100の縮尺とする。製図者を見つけられないなど製作が困難な場合は、現状を細写するだけでもよい。
1.境内、池沼もしくは巨木、仮山など、一般の地形と異なるものがある場合は、これを詳記すること。その大小や形状を記することも前項に準ずること。
1.境界の周囲、町村にかかるものは、その町村名を記すこと。
1.社寺所在の地に接続する周辺道、および名所、旧跡、山河、瀑布(滝)などは、その名称と距離とをその方位に当て、記入すること。
1.これまでの項によるもののほか、すべて境内風致にかかわり、または将来の備考となるべきものは出来る限り掲載し、滞りなくこれを行うこと。

原文:『松本ナミ家文書』「役場執務・寺社一二の二の(六)」(横浜開港資料館蔵)  kameno意訳




 
同じ書式に基づいて作成されたとはいえ、社寺によって画き方は様々であるということが興味深いところです。
本来は無機質に項目のみ線画で画けば良いのでしょうが、貞昌院の社寺明細帳図は際立って絵画的です。

これを機に貞昌院で保存されている方の絵図を詳細に見てみました。
20090120-01.jpg 20090120-06.jpg

本堂は茅葺の寄棟屋根となっています。
屋根の下部に行くに従って勾配が緩やかになっていますので、隅木の加工には相当高度な技術を要したのではないかと推測されます。
正面の向拝(正面に突き出た屋根)は杮葺。
梁に彫られた彫刻の様子も良く分かります。右に現在の写真を並べてみました。


また、絵図と現在の様子を比較すると分かることも多くあります。
20090120-02.jpg 20090120-04.jpg
現在、六地蔵は山門の左側に祀られていますが、当時は山門の右側だったようです。
山門を瓦葺に直した際(関東大震災の後?)に境内整備と併せて移設したのでしょう。


20090120-03.jpg 20090120-05.jpg
参道入口正面には左側に庚申塔(青面金剛象)、右側に堅牢地神塔(凸型角塔)が配置されていたことが分かります。
現在は貞昌院駐車場角地に移設されて並べられて祀られています。
「かつての配置を捜索考証するのに役立つ」という本来の目的を十分に果たしてくれています。


学芸員の方のお話によると、火災や震災で寺社に残されているはずの1部が失われてしまうことも多く、寺社に保存されているということは貴重なことだそうです。

実は、金沢文庫に貞昌院の絵図が保存されているということはこれまで知りませんでした。
しかし、金沢文庫より企画展展示のご案内をいただき説明を伺うことで、何故現在貞昌院本堂に掲示している絵図が金沢文庫にもあるのか、その理由が分かりました。
おそらく郡区役所、戸長役場で保存されていたもののどちらかが戦後に売りに出されたのでしょう。
金沢文庫も昭和20年台に多くの絵図を購入しているようです。

また、金沢文庫では、社寺明細帳図を展示するのは今回の企画展が初めてのことになるとのこと。
実に参考になる展示会ですので、この機会にお出かけいただくことをお勧めします。


【補足】

絵図の果たす役割の大きさについては『五山十刹図』の事例にも見ることができます。
永平寺三世徹通義介禅師は、永平寺の伽藍整備のための基礎資料とするために宋に渡り寺院の詳細を記録した『五山十刹図』をまとめました。
その貴重な資料は、その後、中国において一度破壊された寺院を再建する際にも大いに役立ちました。
伽藍配置を含め、その時の姿を記録し残しておくことはとても大事なことなのです。



■関連ブログ記事

貞昌院の絵図が金沢文庫に

投稿者: kameno 日時: 10:04 AM | | コメント (0)

川を挟んだ港南中学校

ハマちゃんのがらくた箱というサイトに興味深い記述がありました。

【上大岡資料集】川を挟んで港南中学校!?


実は昭和24年に学校が出来た時は校地の真中を幅5m・長さ300m・深さ10mに亘って日野川が流れ、教室移動の度に生徒達は校庭内に架かっていた橋を渡っていたのだそうでした。
あまりにも不便・危険であった為昭和26年に河川改修して現在の形状になったそうです。
(ハマちゃんのがらくた箱より一部引用)

さっそく、地図と航空写真で検証してみましょう。


konan_jinsoku.jpg
迅速測図 昭和初期


konan_S22.jpg
昭和22年6月製版 横浜市復興局 (当時)作成 (横浜開港資料館所蔵)

終戦後まもなく作られた横浜市復興局による地図では、川の形状がだいぶ省略されて描かれています。
ほぼ同時期に撮影された↓航空写真では、川は明治初期とほぼ変わらず蛇行していますから、そこまで詳細に描く余裕が無かったのでしょうか。


konan19471105.jpg
昭和22年11月5日撮影 米軍


konan19480118.jpg
昭和23年1月18日撮影 米軍

↑↓この2枚の写真を比べると、この間に港南中学校の校舎ができたことがわかります。
  (校舎完成は昭和24年6月20日)

konan19490228.jpg
昭和24年2月28日撮影 米軍

校庭の真ん中を川が横切るというよりは、端をかすめる形になっていますね。
ハマちゃんのがらくた箱に記載されている「教室移動の度に生徒達は校庭内に架かっていた橋を渡っていたのだそうでした」という状況は、この写真からは読み取れないようです。


↓の地図を見ると、川の向こう(西側)に校舎ができています。
この西側校舎が建てられた時期が川が改修されたとされる昭和26年以前であったとするのなら、その時期が「教室移動の度に橋を渡って・・・」ということになると考えられます。

konan_S29.jpg
昭和29年12月測図 昭和36年11月修正測図 横浜市作成


konan19560310.jpg
昭和31年3月10日撮影 (国土地理院)

konan19630626.jpg
昭和38年6月26日 (国土地理院)

konan19680606.jpg
昭和43年6月6日

まさにハマちゃんのがらくた箱に書かれているように、地図はタイムカプセルです。
時系列で同一場所を追っていくと様々な発見があります。

ちなみに、港南区は1969 (昭和44 )年に南区より分区いたしましたので、ここで紹介した地図や航空写真には当然港南区役所は写っていません。
(現在の港南区役所の位置は、鎌倉街道を挟んで港南中学校の向かい側です)


蛇足ですが、学校の校庭を川が横切っている例は幾つか他にもあるのです。
下の航空写真は東京の井荻小学校の例です。
現在でも教室移動の度に川に架けられた橋を渡るという光景が見られます。
川には安全のために網が被せられています。

iogichu.jpg
Google Mapより


■おしらせ

「映像(写真)で見る「港南区の歴史」講座」


港南歴史協議会では、港南図書館と共催で歴史講座を開催いたします。
地図や航空写真を用いて地域の歴史の変遷をたどっていきます。
皆さまのご参加をお待ちいたしております。


日時 :2月28日(土)午後2時から4時
会場 :港南図書館 会議室
講師  :亀野哲也 (私が担当します)
参加費:無料
定員 :先着40名 (2月12日(木)午前9時30分から港南図書館カウンタ?、または電話(045-841-5577)、FAX(841-5725)にて受付)


(同時に、貞昌院で撮影した航空写真の時系列展示も行います)

投稿者: kameno 日時: 11:00 PM | | コメント (6)

新しい月に抱かれた古い月のうさぎ

今年も残り一日余りとなりました。
昨日夕方は月齢1.8の月が見られましたので、今日は+1となり、2.8の三日月です。

2つ前の記事で地球照がほんのりと写っている写真をご紹介いたしましたので、今日は地球照にターゲットを絞って月を撮影してみました。


20081230-01.jpg
2008/12/30 17:30 CanonEOS 10D ISO400 f8 4sec Tamron200-400zoom


地球照のことを英語では Old Moon in the New Moon's Arms と表現しています。
直訳すると「新しい月に抱かれた古い月」ですね。

Old Moon in the New Moon's Arms

The Moon in its waxing gibbous Moon phase where the gibbous part is illuminated slightly by Earthshine (reflected sunlit from the Earth). Thus, the bright crescent ("new moon") wraps around and "holds in its arms" the dim gibbous part ("old moon").
(scienceworld.wolfram.com)


 

写真をよーく見ると、餅をついたうさぎが逆さまに薄っすらと見えます。
ということで、今日の記事のタイトルを「新しい月に抱かれた古い月のうさぎ」としてみました。


「新しい月」の部分は、クレーターの影響でギザギザに見えます。
よく、三日月に横顔の輪郭が描かれますが、まさに顔にも見えますね。

moon-02.gifmoon-01.jpg
(左)(c)花王 (右)(c)パラマウント映画

 


「古い月」の部分は、一旦地球に届いた太陽の光が反射し、その反射光により照らし出されたものです。
仄かにやわらかく光るのは、この微かな光によるものだからなのですね。

月から満月状態?の地球を見ると、月の約70?80倍もの明るさで輝いて見えます。
その時の月面では、地球における満月の夜の明かりよりもさらに明るい夜となっているわけです。
それを地球から見たのが地球照です。


西洋では、この「古い月」の部分は、月でも地球でもない「別世界」であるとも考えられていたそうです。
幻想的な夕暮れの三日月は、まるで現実離れしたもののように見えたのかもしれませんね。

月のときはかならず夜にあらず、夜かならずしも暗にあらず。ひとへに人間の小量にかかはることなかれ。日月なきところにも昼夜あるべし、日月は昼夜のためにあらず。日月ともに如如なるがゆえに、一月両月にあらず、千月萬月にあらず。月の自己、たとひ一月両月の見解を保任すといふとも、これは月の見解なり、かならずしも佛道の道取にあらず、佛道の知見にあらず。しかあれば、昨夜たとひ月ありといふとも、今夜の月は昨月にあらず、今夜の月は初中後ともに今夜の月なりと参究すべし。月は月に相嗣するがゆえに、月ありといへども新旧にあらず。

『正法眼蔵』「都機」


今年の夜はあと2回。

大晦日には、夜10時半より除夜の鐘を撞きはじめ、最後の夜を締めくくります。

投稿者: kameno 日時: 6:10 PM | | コメント (2)

大船の街をみまもる観音様

今日のブログ記事は高所恐怖症の方は読み飛ばしていただいたほうがいいと思います。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

あなたは大丈夫ですか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 

本当に大丈夫ですか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いいですね?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そういえば、今年9月にテレビ東京系番組『出没アドマチック天国』で「大船」が放送されました。
一位は大船観音でした。おめでとうございます!



世界平和を祈る観音様として鎮座する大船のシンボル。
東急の創始者・五島慶太氏の指導により、昭和35年に完成しました。一般開放されている胎内へと進むと、そこに御本尊があります。特に観音信仰の強い東南アジア諸国の信者が多く巡礼に訪れるそうです。
出没アドマチック天国のサイトより

 
放送をご覧になった方も多いのではないかと思います。

 
 
 
  
 
 
 


 
 
 
 

大船観音は胸から上、高さは25メートルを超えますが、

200812013-01.jpg


山の上に鎮座されているので、街のレベルから見ると相当な高さになります。

200812013-02.jpg

観音様の胎内は、参拝者の皆さまに開放されています。
5月、6月にはキャンドルナイト演奏会も開催されました

 
 
 





さて、ここからがこの記事の核心部分です。

繰り返しますが、高所恐怖症の方は読み飛ばしていただいたほうがいいと思います。





 
 
 
 




胎内の天井には、メンテナンス用の梯子があります。
もちろん、一般の方は 「絶対に」 登ることは出来ません。


そこを登ると

200812013-03.jpg


床面の隙間から、胎内観音像の礼拝マットが見えますね。


上を見上げます。

200812013-04.jpg


まだまだ上の段があります。

登ってみます。





・・・・全体の2/3位の高さに到達しました。
恐る恐る下を見下ろしてみます。


200812013-11.jpg

 !

気を取り直し、さらに上に進むとハッチがあります。
そこから観音様の頭上に出ることができます。

光が眩しい。

200812013-09.jpg200812013-06.jpg200812013-07.jpg200812013-10.jpg

大船の街が一望できます。
観音様はこのような視点から街を見守ってくださっているのです。
ありがたいことです。


200812013-08.jpg

カラスが集まってきました。


昨日(12月13日)の成果をこちら↓にアップロードいたしました。

⇒ 大船観音・白衣観音様頭上からの360度パノラマ
  (撮影日2008年12月13日)
 


大船観音寺のホームページでは、様々な視点のパノラマを見ることが出来ます
そのうちに、ホームページに頭上パノラマも加わる予定です。

最後に・・・これまで、公務員をしていた時には地下40メートルを超える立孔、レインボーブリッジ橋脚の頂上など、さまざまな工事現場に行きました。しかし、今回の現場はそれらに勝るとも劣らない緊張感がありました。
例えるならば、どんなジェットコースターよりも浅草のローラーコースターのほうが恐ろしいという感じでしょうか。
もちろん、安全面には最大限の配慮をいたしましたが、
 

 

念彼観音力… 観音様のご守護に感謝いたします。


協働・yusさん special thanks


なお、一般の方が登ることは絶対に出来ませんので、くれぐれも大船観音への問い合わせはしないようお願いいたします。

投稿者: kameno 日時: 9:59 AM | | コメント (6)

道元禅師鎌倉御行化顕彰碑

鎌倉・鶴岡八幡宮に隣接する場所に、高祖道元禅師鎌倉御行化顕彰碑があります。

20080703-06.jpg
道元禅師鎌倉御行化顕彰碑(災害たすけあい托鉢・鎌倉編の際に撮影)


⇒ Google map ストリートビューで見る


建長寺を通り鎌倉中心地へと結ぶ県道21号線沿いにありますので、前を通過された方は多いと思いますが、その場所に立ち寄られた方は少ないのではないでしょうか。

曹洞宗の高祖・道元禅師は、宝治元年(1247)に越前より鎌倉の地に下向されます。
そして、鎌倉・白衣舎において宝治2年(1248)3月までの半年間を過ごされます。

宝治二年〈戊申〉三月十四日の上堂に、云く。山僧、昨年八月初三日、山を出て相州の鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。 今年今月昨日、帰寺、今朝陞座す。『永平広録』巻3?251上堂

つらつら日暮らしWikiより一部引用

白衣舎がどこにあったのか、今でも不明です。
その場所を明らかにするべく神奈川県において研究が行われてきました。

経緯
昭和27年、高祖道元禅師七百回大遠忌を機に大本山永平寺七十三世熊澤泰禅禅師により発願。
その意思を受け継ぎ、地元鎌倉市龍宝寺住職団野老師を中心に道元禅師鎌倉下向の研究が進みました。
その後、高祖道元禅師七百五十回大遠忌局会議にて道元禅師鎌倉御行化の顕彰を行うことが決まり、数回の研究シンポジウムが開催されました。
数回の研究会、シンポジウムを経て、白衣舎の所在地を特定するためではなく、道元禅師が鎌倉御行化の事蹟を顕彰するために、鎌倉の適地を選定し、顕彰碑を建立することとなり、鶴岡八幡宮に隣接する現地が選ばれました。

平成13年11月に地鎮式が行われ、平成14年3月にはついに高祖道元禅師鎌倉御行化顕彰碑落慶除幕式および記念講演会が厳修行されました。

碑文には、顕彰碑建立への趣意が刻まれています。



曹洞宗高祖 永平道元禅師七百五十回大遠忌に値り、我等遠孫今茲に心を一にして、禅師鎌倉行化の事蹟を些か詳らかにし、その恩澤に報いんとする。
高祖越前入山後五年目の宝治元年(一二四七)八月三日、時に禅師四十八歳、永平寺開基大檀那波多野義重公(越前志比庄の地頭、京都六波羅探題評定衆)より鎌倉下向の懇請黙し難く、公の先君鎌倉幕府三代将軍源実朝公供養の為同年十一月十五日奉修せる鶴岡八幡宮放生会の彿縁を期してか、永平寺叢林を初めて離れ、漸くのこととして鎌倉行化の途に着く。
禅師がその師天童如浄禅師の遺誡を固く守り、権門に近づくことを極力厭い能くよく留意し、「只管打坐」の法燈を行持されたことを拝するとき、この行化は必ずしも心に添うものではなかったと推察される。然し、翌宝治二年三月十三日、永平寺帰山までの凡そ半年余、その波多野公の邸を始め名越白衣舎等鎌倉近在の諸処に在って、執権北条時頼公並びに妻室など、道俗諸緑の求めに応じ、説法授戒等の化導を為し正伝の彿法を弘められたと伝えられる。
以後一生不離叢林の志を益々強め、世寿五十四歳を以て遷化されるまで、永平寺に在って門弟等を教化示誨された行實等に触れるとき、感慨深いものを覚えるのは、我等法孫のみであろうか。
尚、時下って室町時代五山僧の記したものの中に、執政に日々懊悩する時頼公に対して、禅師が大政奉還出家入道を淡々と提言されたと見い出されることは、禅師の彿法中心第一の立場を物語って余りあろう。
終りに、禅師鎌倉滞在中に詠じられたと伝わる和歌を刻し、報恩の丹心を表す。
                            大本山永平寺監院 南澤道人 撰
維時 平成十四壬午平年三月吉辰謹拝建之



"About Dogen And His Mission To Kamakura"

The Great Abbot, Zen Master Dogen was born in 1200. Long before his teens he was, initially due to his mother's death, awakened to uncertain and transitory nature of life in mortality and consequently entered the monkhood at the age of 13. Gradually he came to have a firm aim of more guesting for not only his own self-being but also all the self-beings themselves in the mutable cosmos. At the age of 24 he managed to go to China, which was in those days a centre of formal Zen training, and devoted himself entirely to true Zen practice luckily under strict yet courteous guidance of The Righteous Abbot, Zen Master Nyojo at Mt. Tendo's Zen monastery.
No sooner had he experienced "dropping off both body and mind (SHINJIN-DATZURAKU)" one night during the sitting session at the meditation hall than he was thrown into the spheres of enlightenment, grasping the true way of the Buddha's teachings.
Back home to Japan in 1228, he first stayed at Ken-ninji temple for some three years and then founded his first independent Zen temple, Kosho-horinji, in Uji, close to Kyoto and formed a small pursuing group of followers for the first time.
In 1243 Dogen was driven, for some reason or other, to moved to Shii-no-sho in Echizen Province (now Fukui Pref.), followed by a somewhat bigger group of his deciples and followers for the purpose of establishing some mountain retreat monasteries. Kindheartedly offered land and lots of helps for this mission by Yoshishige-Hatano, a samurai who was one of his most devoted lay followers, Dogen thus founded Eiheiji, which later became one of the two head monasteries of Soto Zen School in Japan, where he devoted himself thoroughly to training his deciples in the perfection of Zen practice in every action of daily life.
That is; he was to transmit the true Buddhist Dharma teachings to Japan and he himself, therefore, is regarded as the very first forerunner of Soto Zen School in Japan.
He died on Sep. 29. 1253, leaving behind a number of noted volumes on Buddhist teachings including SHOBOGENZO "The Treasury of the Eyes to see truly the Cosmic Laws", FUKANZAZENGI "The General Promotion of the Principles of Zazen", EIHEIKOROKU "The General Observations upon the True Laws by Zen Master Dogen".
The Zen Master Dogen's authentic Zen has been scrupulously observed by his successors. Even today, all pursuers, from priests and monks down to lay followers, devote themselves to his practice of "SHIKANTAZA 只管打坐 (just sitting only in its profound sense)",Which was advocated by him not as a means for enlightenment but as enlightenment itself.
This is a short sketch of his lifetime deeds. During his serene yet zealous monastic life at Eiheiji, only once and away, Dogen was interrupted by a visit to Kamakura. The reasons and purposes of that journey are not clear and untraceable by now, and seem to have vanished far into the mist of the history, becoming almost enigma to us,- he himself was necessitated to visit, together with a few deciples and other followers, to Kamakura, centre of secular authority then.
And there he seems, by our limited inference, to have spent most of his time, a little more than half a year (1247-1248), in Kamakura and its vicinities, in making a fervent and earnest attempt to transmit the Buddha Shakyamuni's true teachings to those who asked for them.
He conducted this mission; in fact, he did it simply in a sincere and serene state of mind, probably strange to those who hear this, though.
Because it seems that it was not an utterly willing thing to do for him to go down to Kamakura, only not to nestle up to secular authorities even though for the name of his Eiheiji monastery's benefits.
Finally we would be so honoured and privileged to present you this rather well-known waka, Japanese traditional 31-syllable poem, one of those which were supposedly composed by Dogen while here in Kamakura and handed down to us, in our hands such as a precious parting gift, which reads as follows;

In conclusion;

In spring - the blossoms,
in summer - the cuckoo,
in autumn - the moon,
in winter - the snow;

All is in the pure and clear,
that'sit!


鎌倉にお越しの際は、是非この顕彰碑をお参りください。
中央の「只管打坐」の文字は、百八歳の禅師様として知られる大本山永平寺七十八世宮崎奕保禅師による揮毫です。
また、顕彰碑の周囲には道元禅師の詠歌十二首が刻まれています。

今年は、12月22日に歳末たすけあい托鉢で鎌倉市を中心に廻る予定です。

そして、その日の夕方より、この高祖道元禅師鎌倉御行化顕彰碑においてキャンドルナイトが行われます。
以下、次の記事に続く



■関連ブログ記事
道元禅師降誕の日と鎌倉歴史散歩
災害たすけあい托鉢・鎌倉編

投稿者: kameno 日時: 11:27 AM | | コメント (0)

ダイヤモンド・パール富士

昨日の記事に関連して、ダイヤモンド富士、パール富士が貞昌院近辺でいつ見ることができるのかを計算してみました。

まずはパール富士。
本来はパール富士とは満月が富士山頂にかかる現象をいいますが、今回は満月に拘らず計算結果をリストアップしています。

すべて観測基点は横浜市港南区上永谷です。


20081219-moon.jpg
2008/12/19 (月齢21)

20080102-moon.JPG
2009/1/2 (月齢6)

20080212-moon.JPG
2009/2/12 (月齢17)

20090325-moon.jpg
2009/3/25 (月齢28)

20090408.jpg
2009/4/8 (月齢12)

20090519.jpg
2009/5/19 (月齢24)


次にダイヤモンド富士。
ダイヤモンド富士は太陽が富士山頂にかかる現象です。
貞昌院から見て、富士山はほぼ真西(正確には真西より若干南側)に位置しますので、春分よりも数日早い日にダイヤモンド富士が観測されます。
来年は3月17日の夕刻です。

20090317-sun.jpg
2009/3/17

ダイヤモンド富士もパール富士も、雲によりさえぎられると見ることが出来ません。
それよりも、その時刻に観測時間が取れるかどうかが一番の問題です。
どれか一つは見てみたいものです。



■関連ブログ記事
大自然の作り出す宝石=ダイヤモンド富士
ダイヤモンド富士はお預け

■関連リンク
ダイアモンド富士 目安カレンダー

投稿者: kameno 日時: 9:13 PM | | コメント (0)

日限地蔵尊

市営地下鉄下永谷駅に程近い山中に、日限地蔵(ひぎりじぞう)があります。


大きな地図で見る

正式には高野山真言宗 八木山福徳院ですが、先日、港南歴史協議会の会合でなぜ「日限」なのかということが話題になりました。

港南歴史協議会のホームページには港南の民話が収録されていますので、その中の「日限地蔵(下永谷)」を一部引用してみます。

日限地蔵  (下永谷)

むかしむかし、永谷村に飯島勘次郎という、お百姓さんがいました。
いつも、いつも、持病の「癪」という病気に苦しんでいました。癪は、いまの胃けいれんのことで、胃が何かでねじ込まれるような痛みを起こすものなのです。
ある日、いつものような激痛に、ころげ回っている時に、たまたま、通りかかった一人の旅の僧から「伊豆国の三島にある、蓮馨寺という寺にある日限地蔵を信仰すれば、癪の痛みは、たちまち治る」と教えられました。


この昔ばなしに出てくる蓮馨寺は伊豆八十八ヶ所の十九番札所です。



三島市 蓮馨寺
本尊 阿弥陀如来
境内の日限地蔵尊は、日を限ってお願いするとかなえられるという言い伝えがある。


さて、「日限地蔵(下永谷)」は次のように続きます。

一生懸命、祈願していると、いつの間にか癪の痛みがなくなっていました。そこで勘次郎は蓮馨寺にお願いして、分身を頂き、大事に永谷村に持ち帰りました。 慶応二年(1866)七月、現在の港南区の西の境、戸塚区の舞岡町と接する所に、お堂を建てました。 そこは武相国境の山波が連なり、人里はなれた、霊地としてのおもむきがありました。 昭和三年(1928)に、勘次郎の子孫がお堂を修理増築をして、高野山真言宗、八木山、福徳院としました。 この地蔵尊は、長野と山梨にまつられている分身と共に「日本三体地蔵」の一つといわれ、高さ約八十センチメートルの石仏です。 毎月「四」のつく日が縁日で、この日に願いごとをすると、必ずかなうといわれています。 「四」の付く日には、交通の便もわるかったこの山奥へ、伊勢佐木町かいわいのはなやかな街の人たちや、遠くは横須賀方面からも、「願かけ」に大ぜい訪れ、市もたち、とてもにぎわいました。 この人たちの、あでやかな姿を、一日見ようと、村の人たちは木の間や、やぶのかげから見るのを、楽しみにしていました。

このように、日を限ってお願いするということが、その名前の由来になっているということで間違いないようです。

さて、先日このブログでご紹介した『武蔵野探勝』を見ると、港南区の日限地蔵にも高浜虚子一行が参拝されています。
その様子が記載されていますので、部分を引用します。
昭和初期の日限地蔵の様子が生きいきと描かれています。



日限地蔵尊は(貞昌院の)南の方五六丁谷合ひを上った山の上の林中にあった。私は白山さん凡秋さん夢香さんと連れ立ってそこにお詣した。
この地蔵尊は大層霊験の著るしきお仏との事で遠地からの参詣者も中々多いといふ。
先づ驚いたのは、堂の周囲の林の木々に、まるで素麺を干したやうに掛け渡された数限りもない紅白の古幡であった。
それは竿に立て切れず古いものから斯く吊り下げてある由である。
今日は特に詣者が多いとも見えなかったが堂前に香煙が濠々と立ち上ってゐた。
私達も各お燈明と線香を買ひ受けて之を奉り合掌礼持した。
さて何を祈ったか。

堂守のお婆さん???目のくるくるした、そして口中にどっさり金歯の見えた??の話によれば、日限といふ謂れは、日数を限って願をかける事であって、例へば、この一週間内に病が軽くなるようにとお願ひし、若しそれで験がなければ又日を限って継続祈願するのださうである。
婆さんは 「一寸した事なら」日とか半日とかに限つてもよいんですよ」などといふ。

「それでは後三時間ばかりとしてお願ひをかけようかなアゝ選句が済むまでね、その後は如何でもよいから……」と興じたは誰方であったかしら。
「その御利益が無かつても継続したところで、事が済んで駄目だね。その時は地蔵さんを大に恨むんだね」などと云つたのは又他の誰方であったかしら。
かゝる冗談を叩いては見たが、然し周囲の空気には、里人の神仏に対する純な素朴な信仰といつたやうなものが漂ってゐて心惹かるゝところが多かった。
一見病後らしい顔の蒼ざめた十五六歳の眉目の整った一人の娘と、その母人であらうと思はれる女が相並んで何時までも香煙の中に合掌黙祷してゐる姿なども心に止めざるを得なかった。
後でその親子に 「あなた方はどちらですか」と問ふと、「横浜から参りました」としとやかに答へた。
堂の側にある掛茶屋のおかみさんが「おこわを召し上っていらっしゃい」と蒸し立ての湯気の立つ赤飯を皿に盛って呉れた。
それは摂待のためのもので、聞けば今日程ケ谷の新天地から大提灯の献納があるので、そのお祝ひに参詣者に皆振舞ってゐるとの事であった。
私達は暫くそこらを徘徊してやがて元の道を引き返したが、堂後の林中の坂道にかゝつた時果して坂下から、差渡し一皿もあらうところの美しい大提灯を担ぎ来る一団の男女に逢うたのも興であった。
私は興に惹かれて、その提灯の後について又堂まで歩を返した。見ると白草居、雨意、拓水、末曾二の諸君も提灯見物に来てゐる。さうさう越央子さんの顔も見えたよ。
大提灯は堂中にかつぎ込まれる。献納の祈祷が始まる。
吾等は皆物珍しくその光景をうち眺めた。
今一団の男女と云つたが、その中には一人は銀杏返しの、一人は束髪の二人の芸者らしい若い女も交って居たし、又彼女等に手を引かれてゐたセーラー服の小娘なども居て、彼等は仏前の祈祷会の中にうち並んで静かに掌を合せ頭を垂れてゐた。程ケ谷の新天地とは恐らく狭斜の巷であるのであらう。

私達は、それから茶屋に這入って摂待のおこわを食べ且つ一杯のビールを傾けた。手打蕎麦を食うた者もある。
少し微酔を獲た拓水老などは「よい物を見た。大提灯は面白かった。然し句にまとめるのは六ケ敷いなア」と云ひながらも頻りに句集に耽る様子、白草居さんはいくつもいくつも句帳に認めたと見たは僻目か、果して次のやうに皆よい句を出来してゐる。
これもこれ皆地蔵尊の御利益と思ふべし。
それに引きかへ私一人は・・・お地蔵さんよ、うらめしい。
<後略>
『武蔵野探勝』(昭和44年,高浜虚子,有峰書店)
下線はkameno付記


日限地蔵は全国にたくさんあります。
その由緒、ご利益をいくつかピックアップしてみました。
お地蔵さんの縁日は必ずしも4のつく日だけではないようです。


■日限地蔵尊(島田市)
日切地蔵尊は、1881年(明治14年)に旧・金谷町大代地区、童子沢(わっぱざわ)の自然石をここに運び、開山の日正上人(にっせいしょうにん)がこれに日限地蔵尊菩薩を刻み、入魂開張し、本尊として現在地より西方200メートルの場所に祀ったことに始まるとされる。 その後1888年(明治21年)、遠江国島村の庄屋を勤める山田家9代目当主の山田義一が現在地に地蔵堂を建立したとされる。
日を限って願掛け参りをすれば願いが必ず叶うと評判が高く、静岡県内屈指の霊場として、県内のみならず県外各地から多数の参詣者がある。毎月26日が縁日で8月26日に大祭が行われ周辺は大変賑わう。祈願日は毎月1日、26日、第1・2・3日曜日、9時から16時まで行われる。

■法沢山大雲寺(岡山県)
日限(ひぎり)とは、日数を切り願い事をすれば適えられるということから名付けられた。
様々な願い事を適えてくれるお地蔵さんとして広く知られ、毎月23日の縁日には植木や衣料、菓子などの店が並び、多数の参拝者が訪れる。
ことに、夏の縁日には夕涼みをかねた人たちで混雑する。

■日限地蔵(桐生市)
昔大きな機屋があり、毎晩大入道が出るため家中の騒ぎとなった。ある晩鉄砲で撃ち行ってみると影も形もなかった。明け方に調べてみると点々と血の跡があり、観音院の庭で消えていた。ある夜この家の主人の夢枕にお地蔵様が現れ「わたしが毎夜そなたの家の外に立っているのは、そなたの家を守護するため。野天に立っているので衆人の信仰もない。大勢の人々を守護するためお堂を建ててほしい。その時は何日なりと日を限って願掛けをすれば必ず願望をかなえよう。」とお告げがあった。さっそく、大勢の人の浄財でお堂が建てられ盛んな法要と祈願をした、という。
このような、言い伝えのある日限地蔵尊縁日は、毎月24日に行われる。

■日限地蔵(広沢)
いつのころからか、お地蔵さまは人々に「日限地蔵」の愛称で呼ばれるようになりました。日を限って病気平癒や子育てなどの祈願をしますと、一層霊験があらたかだったからでした。そのため、年を経るに従って、お地蔵さまは、ますます里人たちの信仰心を一身に集められるようになりました。

■日限地蔵(豊岡市但東町太田)
鎌倉時代但馬の中心地であった太田。但馬国守護職に任じられた太田昌明は亀ケ城を築いたと伝わる。また、以前、日限地蔵さんがあった場所には日限地蔵屋敷として平地があり、屋敷の守り地蔵が杉木立の中に鎮座されている。現在の日限地蔵堂は、間口3間、奥行5間で、石灯籠に参道がある。


■日限地蔵院 (大阪府)
「日限地蔵堂」は『大阪府全志』によると「古くから京都知恩院の出張所内にあり、霊験あらたなりと参拝者が少なくなかったが、明治四年(1971)八月同出張所が本院に引き上げられたとき、共に京都に移った。しかし、地元の願いにより長光寺に再び安置したが、同寺境内が狭いため同十二年(1879)十月二十九日、現在地にお堂を建て町内で祭るようになった」とあり、地蔵堂は現在、高野山金剛峰寺末になっています。
「日限」は日限をきって願いごとをすると叶えてくれるところから来たもののようです。

投稿者: kameno 日時: 9:56 AM | | コメント (8)

デジタル資料の蓄積に向けて

私もお世話になっている港南歴史協議会では、さまざまな歴史資料を活用する方策を考えています。
まずは、デジタルアーカイブ化を行い、それを蓄積する作業を分担して行うことになりました。

貞昌院客殿において、研修会を開催。
事務局のCさんを中心に、コンテンツの内容を固めていきます。
さまざまな問題点も出てきましたが、今後一つづつ解決しながら進んで行きたいと思います。

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■港南歴史協議会とは・・・・・

港南区を中心とする周辺を含む地域の歴史・文化を調べ、 互いの情報を交換し、地域の人達へ広く伝え、これら歴史・文化財の記録・保存活動を推進し、地域文化の発展に協力することを目的とする団体です。
地域歴史・文化財に関心を持つ地域の有志ボランティア、及び 地域歴史愛好団体の代表等により構成されます。


主な活動は下記の通りです。

1 地域の歴史・文化に関する「情報交換の場」を設定する。
2 地域の歴史・文化を伝える(伝承)ことを支援する活動。
3 地域の歴史・文化を記録し、保存する活動の推進。
4 地域の歴史・文化を理解するための体験指導を支援する活動。
5 地域に埋蔵されている歴史・文化を見つけ出す(発掘)活動。


デジタルアーカイブがある程度まとまりましたらご紹介する予定です。
ご期待ください。

投稿者: kameno 日時: 10:11 AM | | コメント (0)

高浜虚子一行の永谷村探勝

俳人、高浜虚子先生が、昭和11年11月1日、句会の仲間と一緒に貞昌院を訪問された記録があります。

虚子先生が自ら手配され、国鉄戸塚駅に集合。2台の貸切バスにて永谷村に至り、天神山貞昌院、天満宮、日限地蔵尊を歩かれました。

以下、その様子を『武蔵野探勝』より引用してご紹介します。


永谷の秋(第75回) (佐藤漾人)

今度の武蔵野探勝会は全く虚子先生御自身が一切斡旋せられたのであった。といふのは常任幹事のわが蚊杖君が、安田邸とかで催すべく、ちゃんと段取が決ってあったのに間際になって遽な同家の不幸のために駄目となり、勿論蚊杖さんも係って居られない事となったので先生も尠からず面食ったが、急に今度の場所に決められたのである。
それは、元先生のお宅に勤めてゐた女中さんの周旋で其女中さんの近所のお寺とせられたのである。



高浜虚子が貞昌院に来訪されたということは、以前に先代住職から様々なエピソードを聞いたことがありましたが、きちんと文献として残されていました。
それにしてもひょんな経緯で上永谷へと来ることになったのですね。





記事の順序が前後するが、実は私は・・・・恐らく私ばかりでなく多くの諸君もさうであらうと思ふが・・・その事情を、先生や水竹居翁とたまたま一緒となった帰路の、、ハスの車で翁から聞かされたのである。
成程云はれて見れば一々思ひ当る。先生は只例の如く黙々としてゐられたが、戸塚の駅に既に己に早く来られてゐて、東京からの吾等一行を駅頭に迎へて居られたりバスの世話を一々なされたり、又お寺でも皆の中食の指示などをされてもゐられた。
それにその寺の書院の坐にご馳走を運び茶を汲んだりしてまめやかにたち働いて呉れる二十歳ばかりの眉目のさつぱりした娘さんがゐたが・・・・私などはお寺のものかなァとばかり思ってゐた・・・今聞けばそれはその先生のお宅の元女中さんであったのである。
ハスの中で、先生が水竹居さんに 「あの灯のともってゐる家ですよ」と窓外を指す彼方の丘の麓の森の中に、夕闇をこめてぽかりと灯ってゐるその女中さんの家が見えた。車中の私達は皆首を伸べてその灯影を懐しく顧みるのであった。

さて、その日は薄曇った時雨でも来さうな小寒い天気であった。一行の分乗した二台の貸切のバスが坦々たる横浜街道を東に、左右に豊の秋を展じた中を二十分程走って上永谷村に到った。
天神山貞昌寺は丘がかりの小高みにあった。本堂は大震災に倒壊したさうで、近年漸く新築が成ったばかりのやうであったが、庫裡は元のままに藁葺き屋根もいと古りてゐた。
門前に小川がせせらいでをり、そこらには穂芒が群がり萩が枯れそめ菊畑を持った小屋などがあった。
お寺の住職さんは大層篤志の方で又此村の小学校の校長さんである由、先の先生の女中さんも其教へ子であるとの事。
永谷村は、かの菅相丞の旧跡であって、菅公筑紫への遠流の時その子秀才も東なるこの地に遠ざけられ、後菅公の罪あらざる事明らかになるに及んで秀才は京洛に呼び戻されたが、その没するに当っての遺言によりその遺髪をこの里に送り埋祭されたといふ故事がある。
永谷鎮座の天満宮には、寺の裏山になってゐる老杉繁る中にあり、そこには歌碑、菅秀塚などが存する。



貞昌院での一行の光景が目に浮かぶようです。
虚子のところで働いていらした「女中さん」というのがどなたかはよくわかりませんが、永野小学校出身の地元の方のようですので、調べてみたいと思います。
探勝において詠まれた俳句が並べられていますが、そのうち、虚子によって詠まれたものを抜粋してみます。
明治時代の永谷ののどかな光景が描かれています。
季節もちょうど今くらいだったのでしょう。




瘦菊に 立てたる杖や 稲架の下  虚子
いちじくに 屈みて稲を 運びをり 同
鴉二羽 とびもつれをり 稲運ぶ  同
むかご蔓 流るゝ如く かゝりをり 同
稲芒に 川流れをり 稲の中    同
心静かに 桜落葉を 踏みて立つ  同
見るうちに はづし終りぬ 稲架の稲 同


寺の門前の小川に臨んだ一軒の茶屋に婆さんが住んでゐた。
婆さんは小さい髷をちょこなんと結んで著ぶくれた背を丸め喉に何か黒い巾を巻き付けて何処か病身らしく見えた。
水車の爈ほとりに蹲って何か煮え立つ鍋を守っていつまでも動かない。見てゐると一疋の、これも年を食ったらしい虎毛猫が、その婆さんの丸い背中に上ったり小さい膝に這入って見たりする。
が、婆さんは猫のなすがまゝに任せてぢつと動かない。
茶色のズボンを穿き古い毛系のシャツを著た爺さんはでっぷり肥えてゐた。店のそこらの物形づけをしてゐたが、やがて、土間のテーブルの上の、二三輪黄菊を投げ挿した瓶の下に置いてあった帽子をちょっと頭に乗せて、「行って来るよ」と婆さんに一寸言葉をかけて、店の入口のガラス戸をがたがたと開けて何処かに出て行くのであった。
が、爈辺の婆さんは尚いつまでも蹲ってゐた。
茶店の外は直ぐ芋畑で、そこらに菊なども咲いてゐた。



貞昌院から永野小学校方面を写した写真がありますので、併せてご紹介します。

20081028.jpg

これは大正12年に撮影されたものですので、時代は少し下りますが、大体同じ様な光景を高浜虚子一行は眺めていたのだと思います。
写真では、田んぼがずっと広がっているあたりも、今は環状2号線が通り、すっかり様子が変わってしまっています。


絵地図と写真にみる貞昌院の変遷で見られるような時代のお話でした。


『武蔵野探勝』
(編者・高浜虚子,有峰書店,昭和44年発行限定版)

投稿者: kameno 日時: 1:48 PM | | コメント (0)

貞昌院の万能薬、繋命蘇生湯

貞昌院でかつて頒布されていた家伝薬があります。
その名も「繋命蘇生湯(けいめいそせいとう)」

効能と用法を記した版木が残されています。
まずは、数年前に川崎市民ミュージアムで展示されていたときの図録をご紹介いたします。


20080930-01.jpg
『まじないと占い』企画展解説図録(川崎市民ミュージアム、2001年)より 
 誤)撃命 
 正)繋命


かつては病気や災難は、神仏の祟りや厄神、魔物などによりもたらされたという考えもありました。
寺院と薬の関係は深く、病気や自然災害、家事や盗難などの災難を予防したり祓いのけたりするために用いられたものがたくさん残されています。



僧侶のくすり

8世紀にわが国に仏教が伝えられて以来、医療を行う僧侶が多く現れた。これは中国から医学を修めた名僧が日本に渡来して後進に医学を教えたり、仏教の修行に日本の僧侶が中国へ渡った際、同時に医学も伝えられたためである。
奈良時代(754年) に来朝した鑑真は、膨大な数の生薬や「呵梨勒丸(かりろくがん)」等の薬物をわが国にもたらしている。鎌倉時代になると栄西が中国・宋より茶の種をもらい受けて『喫茶養生記』(1221年) を出版しているなど、医療を施した僧の例は数限りない。
仏教では教義を究めるための補助として五つの学術を規定し、「五明」と称していた。そのひとつに「医方明」と呼ばれる医学の研修実践があった。病人を介護すること自体が、仏教における慈悲の行いの具体的修行に含まれていたわけである。当時の僧侶が医薬に詳しかったのはこのことからきている。
だが、修行とは別に、僧侶は仏教を庶民に伝道するためのひとつの手段として、広く人びとに医療を施した。僧侶は当時、一般にはなかなか与えられなかった「通行の自由」をもっており、諸国への通行が許されていた。このことは、仏教の教義を人びとに浸透させると同時に、医療を広め、薬草の知識や薬の製造方法を諸国に伝えることに大いに役立った。
僧侶が諸国にもたらした代表的なくすりとして、高野山の山岳修験僧の中から生まれ、信仰を通じて庶民の常備薬に普及した 「陀羅尼助(だらにすけ)」や、木曽御獄山の 「百草(ひゃくそう)」、越中立山の 「練熊(ねりぐま)」などがある。
 これらのくすりは「神授」として信仰の意味も含めて、江戸時代には人びとに広く親しまれていった。

薬局の歴史博物館より引用


先日のサイエンスカフェ「天神おみくじ体験会」の際に、この「繋命蘇生湯版木」も摺り出しました。

20080930-02.jpg


内容を、当日参加くださっていた 古文書の会 の方々に読んでいただいたものをいただきましたのでご紹介いたします。
 

繋命蘇生湯(けいめいそせいとう)

1、産前産後血の道一切に用いて妙なり。婦人懐妊のうち、常に用いて母子共に安躰にして平産する事うたがいなし。
1、経水(月経)不順又は経水きたらんとする時腹痛む
1、産後、反り気、震い気或は気を取り失い、目を引付け歯をくいつめなどする症にも、この御薬たてつけ、度々用いて快気する事妙なり。また、あとにていよいよ用ゆる時は、全快する事うたがいなし。
1、産後一切の患い、悪血の滞りにて腹痛むに用いてよし。第一悪血を下し、新血を生じ、のぼせ、みつなり。目まい、立くらみ、気のつきおとろえ、或いは雨風のせつ、心あしくものにたいくつしてあくび出てこころ持あしきに、度々服用すべし。其外、産後、いかようの患いにも用いて其病を治す事奇妙なり。
1、産後、きちがい又は半産血あらし或は子おろしたるあとにて用い、よく血をおさめ、快気する事うたがいなし。
1、産後いずれの患いにも、善悪にかかわらず服用すべし。其やまいを治す事妙なり。惣じて婦人いづれのやまいとも見わけがたきには、二廻りほど用て、しるしあり、又あとにていよいよ用ゆる時は、全快する事奇妙なり。
1、産後、きちがひ、ものぐるいなどする事あり。此御薬二廻りか、または五廻りほど用い、本腹することうたがいなし。
1、男女、大人、小児共に持薬にして、第一よく脾胃をおぎない、気血をととのえ、めぐりをよくし、万病を治し、無病となる事奇妙なり。
1、なか血志らち其外こしけ一切用いてよし。

 

江戸時代は女性にとって出産は一命にかかわるほど大変なことでありました。
そのような環境の中で、先人たちがどのように病気、出産に立ち向かっていったのか、そこに寺院がどのようにかかわっていたのかが生々しく伝わってきます。

ざっと読んでいただいたものですので、まだ判別不能な箇所もあります。
また、現代では人権上適切でないと思われる表現も含まれておりますが、その点をご留意ください。
 


いろいろと調べているうちに、とても興味深い記事をみつけました。
おみくじと処方のコラボレーションです。
それが現代でも受け継がれているということに驚きです。
医学の計り知れない領域がまだまだ存在するのですね。




【ほんとかいね そうなんや】 “おみくじ処方” ご利益は?

体調不良を訴える市民の求めに応じ、最適な薬をおみくじの結果で紹介してくれる寺院が金沢市内にあるという。実態を確かめるため訪ねた。その寺院は、東山一の観音院。住職によると“おみくじ処方”は代々続く伝統の儀式という。科学的根拠は示されていないが、手続きの流れはこうだ。
<以下、こちらをご覧ください> 中日新聞(2006/9/2)



■関連記事
天神おみくじ体験会第二弾報告

投稿者: kameno 日時: 10:28 AM | | コメント (2)

栗の渋皮煮

実りの秋。
今年も栗の実がたくさん収穫できました

栗ご飯も良いですが、甘く煮込んだ栗の渋皮煮も作りました。

渋皮にはポリフェノールの一種「タンニン」が含まれています。
抗癌効果も高いとされています。
植物繊維もたっぷり。


つくりかた(貞昌院版)

【材料】
栗 800g
砂糖 450g
醤油 小さじ1

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(1)栗の鬼皮をむく
(2)鍋に栗を入れ、たっぷりの水を加え、中火で。
 煮立ったら弱火で5分。、湯を捨てる
(3)(2)を3回ほど繰り返し
(4)その後1時間くらい茹でる。竹串が通るくらい。
(5)水につけ、指の腹で綿のような筋を取る。
(6)4、5回水を換えながら一晩おく。灰汁を取り、水が澄むまでさらす。
(7)翌日、新しい水を加え、茹でる。
(8)鍋を蛇口の下に置き、水を出しながら冷ます。
(9)水から栗を引き上げる。
(10)鍋に栗をいれ、ひたひたに水を注ぎ、砂糖を加え、紙蓋をして弱火で茹でる。 
(11)最後に醤油を加え、火を止める。


どうぞめしあがれ


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投稿者: kameno 日時: 10:29 AM | | コメント (0)

ふしぎな竹酒

秋彼岸中日に行われた近隣ご寺院の彼岸法要に随喜した際、後席にて珍しい般若湯(一般的にはお酒ともいう)を目にすることができました。
参列された役員の方がお持ちくださった竹酒です。

『ふしぎな竹酒』という名のとおり、「竹」の節と節の間にお酒が詰まっています。

20080925-01.jpg


見たところ、穴を開けて酒を充填した痕跡がありません。
いったいどうやってお酒を詰めたのでしょう。

ラベルの部分に隠し穴が?と、捲ってみますがやはり穴は開いていません。

20080925-02.jpg

このお酒、まったく穴らしきものがあいていないので、飲む際には、上の節に2箇所(注ぎ口と空気穴)をキリなどで穴を開ける必要があるのですが、このお酒を前にして、一同「どうやってお酒を詰めたのか?」という話題で持ちきりになりました。

・下の節を空けて、パラフィンなどで埋めたのではないか?
・ラベルの裏に隠し穴が
・細い穴を開けて、後で高圧水蒸気で穴を塞いだのでは?
・元々、酒が空洞部に溜まっていく種類の竹なのでは?


どれも外れのようです。
話題提供にはもってこいの楽しいお酒です。


ふしぎな竹酒を製造しているのは千葉県久留里の吉崎酒造。
かずさの名水「久留里の水」と厳選した酒米で作られた清酒とのことです。

私がゲンジボタルを見に出かけるのも、この「かずさ」の近くなのですが、とても水のきれいなところです。

田んぼは風景や生き物をつくる土台

 


どうやってお酒を詰めたのか・・・・その答えが見つかりましたが、疑問のままおいておいたほうが楽しいかも知れません。
でも知りたい方はここをクリックしてください。


秋の名月を眺めながら、ホタルの光に思いを馳せいただくのも風情があっていいですね。
R寺さま、ありがとうございました。




■関連リンク
醸造元・吉崎酒造?

投稿者: kameno 日時: 11:34 AM | | コメント (2)

テラへ・・・・

有名な経験則に「ムーアの法則」があります。
1965年、Intel社を創設した一人の、Gordon Moore博士によりにより提唱された法則で、半導体の集積密度が18?24か月で倍になるというものです。

HDDの単位面積あたり集積度は、この法則の値をはるかに上回り、1Gバイト当たりの単価も急速に下落しています。

例えば、ASCII.jp アキバのIDE HDD価格グラフを見ると、

1000円割れ 1999年9月
<3年6ヶ月>
100円割れ 2003年3月
<5年5ヶ月>
10円割れ 2008年8月
 ・
 ・
 ・
約9年間で単価は1/100になりました。

1Gバイトあたりの単価は、10円を切っています!


先日、パソコン環境の再構築のため、外付けHDDを購入しましたが、2T(テラ)バイトで、36,000円でした。
1Gバイトあたりの単価は 17.6円です。

20080915-01.jpg

今後もこのペースで単価は下がり続けるのでしょう。
それとともに、情報管理の重要性はますます増していくことでしょう。
 

【お知らせ】
今週中にサーバーの性能UPを行う予定です。
詳細は後日お知らせいたします。


■関連リンク
ムーアの法則(intel)

投稿者: kameno 日時: 8:37 PM | | コメント (3)

秋の線香花火

もうすっかり秋の気配が濃厚となりました。
朝夕には境内は虫の音に包まれます。

夏に各方面からいただいた花火が残っていたので、まとめて花火を楽しみました。
大玉の花火もいいですが、線香花火はさらに風情がありますね。


20080911-01.jpg 20080911-02.jpg

 

花火は奥が深いですが、線香花火はきちんとした指導者さえいれば小学生でも簡単に作れます。

美しい火花は、鉄粉などの金属粉末により生み出されると思われがちですが、そうではなく「煤」が燃えてこのような美しい軌跡を作り出しています。

線香花火の原料は
・硝酸カリウム
・硫黄
・松煙
これらを混ぜ、さらに
・塩化カリウム 
を混ぜます。
それを薄い和紙に包んで、きつく細く縒って作ります。

原料の調合の方法、包み方によって花火の良し悪しが決まりますので、ちょっとした自由研究のテーマに良いと思います。
(ただ、少量とはいえ、火薬を扱いますので、くれぐれも化学に詳しい大人の人と行ってください)

興味のある方はこちらもご参照ください。
体験活動ナビゲーター(国立青少年教育振興機構)

原料の「松煙」は、松を燃やして作る「煤」を集めたものです。
この「煤」が線香花火の肝であるわけですね。


ただし、最近は花火のほとんどが中国産となってしまいました。
原料も松煙を使わずに代用品で製造されているものがほとんど。
本物の線香花火は貴重なものとなってしまいました。

少し残念です。


■関連リンク
山縣商店 (消えゆく国産の線香花火を守り続ける花火問屋)
国産線香花火に関するコラム

投稿者: kameno 日時: 1:17 AM | | コメント (2)

静かなる脳 禅ですぐ回復

静かなる脳 禅ですぐ回復

禅の修行者は、修行経験のない人に比べ、瞑想を乱されてもすぐに元に戻る能力を身につけていることが機能的磁気共鳴断層撮影(fMRI)による脳活動の観察でわかった。
米メモリー大のチームが、オンライン科学詩プロスワンに発表した。
チームのジョセッぺパニョニ助教らは、3年以上の修行経験者と修行経験がない人12人ずつに協力してもらい、「呼吸に集中してください」と指示。
ときどきコンピューターの画面にランダムな文字を出し、その中から意味のある言葉を探し出したあと、再び呼吸に集中するように求め、協力者の脳の働きをfMRIで監視した。
その結果、修行経験者の脳活動は未経験者の脳活動に比べ、「言葉探し」で活性化された状態から静かな状態に戻るのが明らかに早かった。
同助教は「注意欠陥・多動性障害(ADHD)や強迫性障害などの治療に役立つ可能性がある」としている。
(朝日新聞2008/9/7朝刊 社会面)


このような記事を目にしました。原文もご紹介いたします。



“Thinking about Not-Thinking”: Neural Correlates of Conceptual Processing during Zen Meditation
Giuseppe Pagnoni1*, Milos Cekic2, Ying Guo3

Abstract
Recent neuroimaging studies have identified a set of brain regions that are metabolically active during wakeful rest and consistently deactivate in a variety the performance of demanding tasks. This “default network” has been functionally linked to the stream of thoughts occurring automatically in the absence of goal-directed activity and which constitutes an aspect of mental behavior specifically addressed by many meditative practices. Zen meditation, in particular, is traditionally associated with a mental state of full awareness but reduced conceptual content, to be attained via a disciplined regulation of attention and bodily posture. Using fMRI and a simplified meditative condition interspersed with a lexical decision task, we investigated the neural correlates of conceptual processing during meditation in regular Zen practitioners and matched control subjects. While behavioral performance did not differ between groups, Zen practitioners displayed a reduced duration of the neural response linked to conceptual processing in regions of the default network, suggesting that meditative training may foster the ability to control the automatic cascade of semantic associations triggered by a stimulus and, by extension, to voluntarily regulate the flow of spontaneous mentation.


曹洞宗宗報最新号(平成20年9月号)には、カリフォルニア人間科学大学院創立者・同大学長・本山博博士が永年に亘って研究されてきたAMI測定器が精神病の測定に転用できないか、報四恩精舎住職 野田大燈師が打診されたとの記事が掲載されております。
AMI測定器開発の出発点は、ヨーガでの「気」の測定が原点だったようですが、ニート・引きこもりの青壮年と向き合ううちからうつや統合失調症の精神化領域における精密な計測機器を探しておられる野田老師に、そのような縁があったという記事です。
結果、野田老師、同伴した精神科医共に実験台となり、躁・うつや、統合失調、社会不安障害に苦しむ一部「若者自立塾」生の治療指針に役立つことが確信できたということです。
今後の展開が楽しみです。

 
以前、このような講演をご紹介いたしました。

禅が脳に効く

坐禅の呼吸と通常の呼吸の違いは、腹筋を使うか否かである。
通常の呼吸は横隔膜を使う。生きているための呼吸であるから、無意識に寝ている時でも呼吸が可能である。
坐禅の呼吸は、意識的に吐く(欠気一息)、これは腹筋を使う意識的な運動である。これによりセロトニン神経は活性化される。

脳波の実験により、坐禅の呼吸から4分から10分後にα波の成分が脳全体に広がるが、単純に眼を閉じたときに発生するα波と、異なるα波であると考えている。伝達の経路が異なるのである。

「心の三原色」
・ドーパミン神経   (快の情動回路)
・ノルアドレナリン神経(脳内の危機管理センター)
・セロトニン神経   (舞い上がりもせず、不安にならず、平常心をもたらす)

セロトニン神経は、ドーパミン神経、ノルアドレナリン神経を、脳内の指揮者として、抑制させるという役割を担っている。

『禅が脳に効く』
東邦大学医学部生理学教授・有田秀穂先生講演録より



禅に科学的にアプローチする試みは以前からされておりましたが、このところいくつか眼に留まった話題についてまとめてみました。

現代社会は複雑な人間関係に悩み、こころの病に苦しむ方々が多くなっています。
静かに世界に広がっている禅ブームはこのような背景も少なからずあるのでしょう。

投稿者: kameno 日時: 8:58 AM | | コメント (2)

明智光秀とおみくじ

天正10年(1582年)、宅間藤原規富が天神社を再建するにあたり、川上(戸塚区川上町)徳翁寺の 四代目住職明堂文龍大和尚を請し、上永谷町字籠森(現在の市営地下鉄上永谷駅付近)に建立されたのが貞昌院の由緒縁起であります。

天正10年といえば、同年6月2日、明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君織田信長を自刃させた本能寺の変の年です。

この本能寺の変に際し、明智光秀が引いたおみくじのエピソードがあります。

そもそも、おみくじは政治の世界でも、鶴岡八幡宮で天皇を決めるのに籤を引き後嵯峨天皇が即位(1242年)や、足利幕府の後継者を決めるため岩清水八幡宮でくじを引き足利義教が即位(1394年)など、度々用いられたようです。

 

さて、明智光秀が本能寺に出陣する前に、京都府左京区の愛宕権現堂において愛宕百韻を開催、参詣後神前にて熱心に祈願してからおみくじを引いたそうです。
その結果がこちら。
20080812-01.jpg

なんと、凶でした。
「愁悩損忠良」 (忠義をつくしても、その功が現れぬがゆえに憂い悩む…)
しかも生死は七、八分まで死すべし。

光秀は、その結果に愕然として、再度おみくじを引きます。

二度目に引いたおみくじがこちら
20080812-02.jpg

・・・やはり凶でした。
「このおみくじに遭う人は、万事我たのみに思うものに裏切りせらるる形なり、油断すべからず・・・・」
生死は八、九分は死すべし.



光秀は相当がっくりとしたようです。
そこで、三度目のおみくじを。

そのおみくじがこちらです。
20080812-03.jpg


恐らく、2度目のおみくじを引き終わった段階では、謀反を起こすかどうか相当迷ったのではないでしょうか。
2度の凶を経て、三度目の正直、「大吉」が出たことで信長を撃つことを決心したとしたら・・・運勢項目の「生死は死すべし」 の項目が悲しすぎます。

2度目に出た「このみくじに遭う人は、万事我たのみに思うものに裏切りせらるる形なり油断すべからず・・・」の通り、光秀は本能寺の変の後、盟友であった細川幽斎、高山右近らに裏切られることとなります。
明智光秀は本能寺の変から11日後の6月13日、山崎の戦いにおいて、その生涯を終えました。


参考文献
『かながわおみくじ散歩』 島武史著・かもめ文庫・1999年


【補足】

たとえ、おみくじで大吉が出ても油断は禁物ですし、また、凶が出ても、凶はいずれ吉にかわる可能性もあるので、落込むことはありません。
(なにしろ、貞昌院の天神おみくじは半分以上が凶です。)
もしも凶が出たときには、神仏に守護をお願いし、自らも注意し、努力するという心構えが大事です。
『易経』では、不満足な結果が出たからといって、何度も占い直すことを戒めています。

投稿者: kameno 日時: 10:57 PM | | コメント (2)

品川縣と品川縣ビール

日頃お世話になっている方からビールをいただきました。
ありがとうございます。

20080730-01.jpg


ビールといえば、横浜がビール発祥の地として知られています。

明治2年(1869年)、横浜の外国人居留地(現在の横浜市中区)に「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」という醸造所を作ったのが日本最初のビールということになっています。。
また、その1年後には、アメリカ人ウィリアム・コープランドが、山の手にある天沼(現在のキリン園公園=横浜市中区)でビールに適した湧水を見つけ、「スプリング・バレー・ブルワリー」を設立しました。

ところが、「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」と同じ年の明治2年(1869年)に、品川縣(後述)において、当時の品川県知事・古賀一平氏が、金融恐慌に苦しむ人々に職を与えるため、現在の京急立会川駅にあった土佐藩下屋敷跡にビール工場を設立したとの記録が品川区教育委員会により発見されました。
そこで、立会川商店街を中心に研究会が発足し、茨城県内の業者に醸造を依頼したものが、冒頭の「品川縣ビール」なのです。
品川縣ビール公式サイト

ただし、品川縣ビールは、実際に工場でビールが製造されていたかどうかが今一つはっきりしません。
対し、「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」は、きちんとしたビールのラベルや新聞広告により、販売についての証拠は充分に揃っています。

 
さて、品川縣という聞きなれない県名がでてきました。
ここで品川縣とは何かを見ていきましょう。

■基礎知識
明治2年(1869年) 版籍奉還
<府藩県三治制>
明治4年(1871年) 廃藩置県


この間、武蔵知県事の管轄区域(旧・武蔵国)にあった諸藩は下記のとおり

岡部藩 安部家 20,000石
久喜藩 米津家 11,000石
忍藩 阿部家 松平(奥平)家 他 100,000石
岩槻藩 阿部家 大岡家
川越藩 松平(越前)家 他
六浦藩(金沢藩) 米倉家 12,000石

これを踏まえて・・・・



武蔵知県事

1868年(慶応4年=明治元年)5月3日(旧暦4月11日)の江戸城開城を経て江戸周辺の支配権をほぼ掌握した明治新政府は、同年6月30日(旧暦5月11日)、新政府軍の軍政下に置いていた江戸市中の旧町奉行支配地域を管轄する「江戸府」を設置した(9月3日(旧暦7月17日)に「江戸」が「東京」に改称されるとともに、江戸府も「東京府」に改称された)。
一方、江戸(東京)近傍の農村は旧幕府代官の山田政則、松村長為、桑山效の3人にそれぞれ従来の支配地域を引き続き管轄させ、8月7日(旧暦6月19日)に山田と松村を、さらに8月27日(旧暦7月10日)には桑山をそれぞれ武蔵知県事に任じた。山田は武蔵国内の豊嶋・足立・埼玉3郡で約11.4万石、松村は荏原郡を中心に武蔵国内で約10万石、桑山は葛飾郡を中心に武蔵国および下総国内で約13万石の旧幕府直轄領(天領)等を管轄した。同年10月(旧暦)には、3知県事が管轄する荏原・豊島・葛飾各郡のうち東京市街に近接する町村が東京府に移管された。
これに前後して、同年8月(旧暦)、松村知県事が古賀定雄(一平)と、12月(旧暦)に桑山知県事が河瀬秀治と、翌1869年(明治2年)1月(旧暦)に山田知県事が宮原忠英とそれぞれ交代している。
新政府の支配が安定した1869年(明治2年)、3知県事の管轄区域は正式な「県」となり、大宮県、品川県、小菅県が設置された。
(出典:Wikipedia)


 


明新政府の支配が安定すると、武蔵知県事の管轄区域の3知県事の管轄区域は、それぞれ正式な「県」となりました。
それが品川縣、小菅縣、大宮縣・浦和縣です。


うち、品川縣は、日本で最初のビールが製造されたとされる明治2年(1869年)3月21日(旧暦2月9日)に設置されました。
なぜ「品川縣」という名称になったかというと、縣庁を立会川近辺(現在の東京都品川区)に置くことが予定されていたことによります。
品川縣庁が正式に設置されるまでの間は、縣庁は、暫定的に東京日本橋浜町・旧旗本小笠邸に置かれました。

その範囲は、当時の東京府や韮山県、川越藩などとの管轄区域の交換を経て、下図のように武蔵国荏原・豊島・多摩・新座・入間・高麗各郡内の旧幕府直轄領および旗本支配地等を管轄しておりました。

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明治4年(1871年)の廃藩置県により、同年12月25日(旧暦11月14日)に東京府および小菅県と合併して東京府となり、多摩郡および新座郡、入間郡内部分は神奈川県および入間県に移管されました。

品川縣は僅か2年で姿を消してしまったのです。
立会川に品川縣庁が設置されることもありませんでした。


それにしても、何という広大なエリアだったのでしょう・・・・


 
品川縣ビールは、赤色の美しいビールです。
心なしか少しほろ苦い味わいでした。


■関連サイト
関東の諸藩 クリッカブル・マップ

投稿者: kameno 日時: 1:05 AM | | コメント (0)

全てのこどもたちに最高水準の医療を

近年、診療科における医師の偏在が顕著となり、比較的医療環境の恵まれている都市部においても産婦人科や小児科の医師不足が問題となっています。
出産のために受入れ先の産婦人科をもつ医院を探すも、それをを拒否され、悲しい結果となったという報道も目立つようになりました。

この根本的な原因をもたらす『医師の偏在』には、つぎのような2つがあるとされています。


二つの『医師の偏在』
■地域格差=へき地における医師不足
■産婦人科や小児科の医師不足=都市部においても診療科における医師の偏在が顕著


⇒関連記事:こどもの日に  

貞昌院は横浜南部に位置しておりますが、ごく近くに神奈川県立こども医療センターがあります。
このような医療施設が身近にあるとこうことは、とても心強いことです。
必要なときに必要な医療を受けることができることの有難さは常日頃感じているところです。

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この病院には、それこそ医療を受けるために県全域から様々なこどもたちが集まりますが、場合によっては、付き添いの方の宿泊も考慮して病院にて診察を受けなければなりません。
救急搬送の場合でも、時間経過とともに救命率は低下してしまいます。
 
また、産婦人科や小児科の医師の方々の負担の増加も見逃せません。
診療に大人よりもずっと手間がかかるにもかかわらず、小児科の診療報酬が大人とほとんど変わらないということも大きな問題です。
このままでは産婦人科や小児科の医師がますます減っていってしまうという負の循環に陥ってしまいます。

世界に眼を向ければ、医療環境の格差はさらに顕著です。
こどもたちが健やかに育つ社会のために、『医師の偏在』の現状が少しでも改善されますことを願ってやみません。

投稿者: kameno 日時: 11:30 PM | | コメント (0)

東洋的いのち観・西洋的いのち観


享年と行年=いのちの長さの数え方 の補足記事です。

■行年・享年  生まれてから経た年数。特に仏教語というわけではない。例えば、『荘子』天運に「孔子、行年五十有一にして道を聞かず」とある。日本ではしばしば<享年>と同一視し、天から享けた寿命の年数、亡くなった時の年齢を指す。(『仏教辞典』岩波書店・中村元 他編より)

■数え年 生れた年を1歳とし、以後、正月元旦毎に1歳ずつ加えて数える。

■満年齢 年齢は出生の日より起算し、出生日の応当日の前日の満了をもって年齢が加算される。(「年齢計算ニ関スル法律」)

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現在「年齢計算ニ関スル法律」により運用されている満年齢の考え方は、「西洋的ないのち観の象徴」でもあります。
すなわち、民法 第3条 私権の享有は、出生に始まる。という表現に端的に現れております。
対し、数え年の考え方は「東洋的いのち観の象徴」でもあります。
これはどのような考えにもとづくのでしょうか。


以下、玄侑宗久師の 『「満」と数え年』(「福島民報」 福島民報社3月12日号) を引用しながら段落ごとに考えてみましょう。


最近の新聞の死亡記事は、満年齢で書かれることが多い。うちの寺では死亡年齢を「数え年」で書くため、ちょっとした混乱が起こることもある。まぁ混乱といったって、生き返るほどのことはないが......。 数え年というのは、中国に由来する古典的な東洋の年齢観である。人は生まれたときすでに「一」であり、また歳をとるというのは、年末にやってくる歳徳神のなせるわざ。新しい歳を運んでくるのは、先祖が浄化されて神格化した神さまの仕業だと考えられた。年末の大掃除も門松を飾るのも、すべてこの歳徳神を迎えるためだ。

日本では、古来より年末から新年にかけて、「歳神様」をお迎えする習慣があります。
「歳神様」をお迎えする時に目印になるのが、門松や注連飾りであり、「歳神様」へのお供え物が鏡餅ですね。
現在では、「年齢計算ニ関スル法律」により、生まれた時を0歳とし、 誕生日の前日の満了をもって1つ歳をとることになる「満年齢」の考え方が用いられています。
しかし、昔は生まれた年を1歳として、正月にお迎えした「歳神様」をお迎えすることによってさらに1つ歳が加算されました。
⇒ 幸せをもたらす方角
⇒ どんと焼き・左義長
門松や注連飾り、鏡餅の風習だけが残されておりますが、本来的な意味を知っておくことは大事なことだと思います。


正月で歳はとるものだから、たとえば十二月生まれだったりすると妙なことが起こる。
生まれたら「一」で、正月にまた「一」が加わるから、たとえば生まれてまだ七日しか経っていなくとも、初めての正月でその子は二歳になる。次の正月まえにようやく満で一つになるわけだが、その一週間後には数え年は三つになる。つまり、満年齢と数え年は、この人の場合だいたいいつも二つ違うことになる。
しかし一月生まれなら、ほぼ年中、その差は一つである。
よく、どっちが正しい歳なのかと、訊かれることもある。むろんそれはどちらとも云えないが、少なくとも、両者の違いははっきり心得ておいたほうがいいだろう。

ご承知のように、満年齢の考え方は、誕生日が中心にある。これは西欧的な発想である。しかも誕生した時点で、彼らはそれを「ゼロ」と見なすのだ。
これは思えば不思議な感覚である。明らかに、子供は何も知らない無知なる存在で、そのままではヒトでさえないのだろう。
しかし東洋では、老子の柔弱の思想を待つまでもなく、子供は子供で完成体なのだと見なす。だから目の前に完全な形で存在する命を「ゼロ」と見ることはできなかった。どう考えても、それは「一」だろう。



満年齢が「西洋的ないのち観の象徴」、数え年の考え方が「東洋的いのち観の象徴」でありますが、その根底には、「生命」の誕生を何時と捉えるか、何時をもって「人」として捉えることができるかという考えの違いにあるようです。
西洋的には、母体の外に出た時点でも、ヒトとして不完全な存在であると考え、東洋的には完全な存在と見做すということが、「0」「1」という数字となって表れています。



この二つの考え方は、たとえば生物学の世界でも存在した。 当初は、蝶の幼虫やさなぎは、蝶に比べて不完全だから変態すると考えられた。しかしそれでは、あまりに完璧な幼虫やさなぎのシステムを理解できないと知った人々は、やがてこんなふうに考えるようになった。幼虫もさなぎも未完成なのではなくてそれなりに完成しており、その完成した状態が次々に変わっていくのだろう。しかしそれなら、ある意味では常に未完成であると云うこともできる......。 たぶんヒトも、そういうことなのだろう。

さなぎの中身はドロドロの液体です。
これは、幼虫の時にあった器官や、筋肉、脂肪などが無くなってしまい、細胞がアミノ酸のレベルまで分解されてしまっているからです。
幼虫⇒さなぎ⇒成虫への完全変態の過程において、幼虫の期間を、ひたすら養分を摂取して大きく成長する段階とすれば、成虫は、オスとメスが次の世代を残す生殖的な段階であり、まったく次元が異なるため、さなぎの期間で、成虫において不要な器官の細胞が、プログラム細胞死であるアポトーシスを起こし、死んだ細胞は、いったんアミノ酸レベルまで分解されて、成虫で必要な器官(生殖器とか、羽とか、複眼など)に再構築されるわけです。
この意味で、幼虫もさなぎも、それぞれの段階でそれなりに完成しているということについては納得がいきます。そしてそれぞれの段階で未完成ということも。
「生きる」ために「自殺」する細胞たち




明らかに、母親の胎内で過ごした「十月十日」まで入れれば数え年のほうが実際的である。しかし十二月生まれだと、ちょっと多すぎるような気もする。おそらく、現代人にも納得のいく合理的な年の数え方というのは、誕生日ごとに年はとるにしても、そこに「十月十日」を足した数字ではないだろうか。つまり満年齢プラス一というのが妥当な感じがする。
しかし正月で年をとるというのは、年は個人がとるのではなく、共同体で一緒にとるものだと考えられたということだ。ここでは、加齢が生物学的なものであるより、むしろ社会的なものと考えられているのだろう。若くても孫ができれば孫と一緒に歳をとる。夫婦は一緒に正月を迎えつつ歳をとる。数え年にはそういう考え方も含まれているのである。


ここでいう「満年齢プラス一」というのが、まさに行年・享年の考え方ですね。
行年・享年の考え方は、生まれてから経た年数であり、「東洋的いのち観」では、「生まれたとき」は「受胎した時」と考えますから、母親の胎内で過ごした「十月十日」までを加算します。
行年・享年の考え方は生物学的にも納得のいくものであります。

数え年は、この行年・享年の考え方を社会的に還元し、制度化したものです。
つまり、
(1)実際に日常社会生活の中で「受胎した時」を特定することはできない(なので胎内で過ごす期間を1年と考えた)
(2)歳は個人がとるのではなく、共同体で一緒にとるものだと考えた(元日に歳徳神により皆に歳が運ばれると考えた)
などの理由により、「生れた年を1歳とし、以後、正月元旦毎に1歳ずつ加えて数える」という制度ができあがってきたわけです。
その根本には行年・享年の考え方が存在します。


現代社会からは、数え年や行年・享年の考え方が失われつつあります。
、「西洋的ないのち観」「、「東洋的ないのち観」に優劣をつけることはできませんが、しかし、いま一度、古来より培われてきた「東洋的いのち観」を振り返り、見直してみることも大切なことではないかと思います。


満年齢と数え年

先日、宜野座高校で開催された「カフェテリア方式による性教育」に講師として参加した。保健師、看護師長、大学院生、養護教諭、そして住職と、それぞれの専門家が「性感染症」「妊娠・中絶・避妊」「男女交際」のカフェテリアテーマを担当し、生徒たちは興味を持ったカフェ(教育内容)を自ら選択し、10人前後の小グループに分かれて車座を囲んだ。
私に課せられたテーマは「結婚・いのち」。トートーメーの記載で、亡くなった年齢(行年・享年)を、なぜ数え年とするのか。そこから話を起こし、いのちについて「世間一般の満年齢とは、西洋的ないのち観の象徴でもあり、私たちが母体の外に出た時から人間のいのちの誕生と考えられる。だから君たちにも誕生日があり、高校3年生では17―18歳となる」と講話した。
けれども、東洋的ないのち観とも言える数え年では、母体の中で私たちが芽生えた時から人間のいのちの誕生だと考えられている。満年齢に1年を足したものが数え年とされるのは、この妊娠期間中である10月10日を四捨五入し1カ年とサンミンするからだ。そして沖縄で命の尊さを語る時には、必ずと言って良いほどこの数え年が尊重されるのである。
 「ワッター母ちゃんは、トートーメーは満年齢がいいはず。1歳でも若いねえって言われると、夕ご飯は超豪華になるバーヨ」「うちのオバーはオジーを戦争で亡くしているから、グソーではオバーとニセータで、オジーがハジカサーしないかねって言っているよ」「じゃあ母ちゃんもオバーも、仏壇では若いチュラカーギだった時の写真を使えばいいさあ」
宜野座高校の生徒たちは、いつも目をキラキラ輝かせて、私の講話を聞いてくれるから大好きだ。
(帰依龍照、コザ真宗寺住職)
琉球新報 2005年12月6日 より引用


■kameno補注
「享年」と「数え年」は、計算上、概ね近い値になりますが、
●「享年」は元旦に歳を加算するものではなく、「いのちの長さ」ですから、「満年齢+母親の胎内で過ごした期間」となります。概算で「満年齢+1歳」でも良いと考えます。
●「数え年」は元旦に歳を加算しますから、「享年」とは最大約1年分の差異が生じます。
●「数え年」と「満年齢」は、最大約2歳の差異が生じます。
<冒頭の図参照>

投稿者: kameno 日時: 7:04 AM | | コメント (3)

日々の写真が作り出すモザイク模様

7月盆棚経2日目。
今日も暑いですね。
みなさま、体調管理には十分留意下さい。


さて、このブログは PhotoLogというタイトルのとおり、写真日記を中心に記事を書いているのですが、ブログを始める以前(ホームページを主にしていた時期)を含め、たくさんの写真がストックされました。
その一部は Gallery としてまとめていますので併せてご覧下さればと思います。

一覧で並べて見ると、それぞれ撮影した時の情景も思い出され、感慨深いです。

20080714-01.jpg
 


さて、絵画の表現手法に点描というものがあります。
絵画の技法として、点描を確立したのは19世紀フランスの画家、ジョルジュ・スーラ。
筆跡という線ではなく、色鮮やかな点の集合配列のもたらす視覚混合追求し、新印象派と呼ばれました。
現在、私たちが目にする印刷写真、モニターディスプレーなどを、虫眼鏡で拡大すると、三原色の集まりが見えてきます。ある意味、点描の現代版ともいえます。

20080714-02.jpg

もう一つの表現手法にモザイク画というものがあります。
これらは、元々は、石や陶磁器、貝殻などの小片を寄せ合わせ、壁などに埋めこむことにより、絵や模様を表現する手法です。
モザイクは古来より世界各地で用いられてきた表現手法です。
カテドラルやモスクなどの宗教建築や宗教画ではさまざまな技法のモザイク画が用いられています。
 
20080714-03.jpg

初めは人間の感覚をたよりに、点描やモザイク画を作り出していったはずですが、数学理論の進展と、コンピュータの計算能力の向上により、より理論的に点描、モザイクの配置が求められるようになりました。


初期のコンピュータは、その能力の制限から、乏しい処理能力、記憶容量、モニターディスプレーの限られた解像度、ドットプリンターの限られたドット数の中で、どれだけ、視認性の良さ、読みやすさ見やすさを達成できるかが重要なポイントでした。

また、ドット画やモザイク画を表現する時に、さまざまな色、形のパーツをどのように並べると一番見た目によく見えるかという問題も、数学論的に重要な分野でした。

この分野で数学論的に貢献した一人が、ロジャー・ペンローズ(1931- )であり、「ペンローズタイル」という平面充填の考えを確立しました。

マウリッツ・エッシャー(1898-1972)もモザイク模様や平面充填の研究をすすめ、数多くの作品を発表しています。



この平面充填理論の恩恵にあずかって、これまで撮影してきた写真を並べ、昨年6月にパリのオルセー美術館で鑑賞してきた絵画を作ってみました。
教会の暗く重々しい色彩と大地の明瞭で鮮やか色彩のコントラストは、ゴッホ特有の長めで直線的な筆使いにより生み出されています。
間近でゆっくりと鑑賞できる機会を得、深い感銘を受けました。

20080714-04.jpg


原画: L’Église d’Auvers (1890)
Vincent van Gogh
Musée D'Orsay (Paris)


■関連記事

本物の芸術作品に接する贅沢

投稿者: kameno 日時: 8:33 AM | | コメント (2)

小さな芸術家、サツマノミダマシ

蜘蛛というとちょっとグロテスクで近寄りがたいですが、緑色が美しい蜘蛛もいます。

それは、サツマノミダマシ。
この蜘蛛は、網をつくる名手でもあり、あっという間に綺麗な巣を作り上げます。
よく見ると前足で全体の間隔を把握し、後ろ足で糸を張る位置を微調整しています。

その芸術性についつい見とれてしまうわけですが、その様子を見ながらある疑問が浮かびました。
それは、右回りに巣を作るのか、左回りに巣を作るのか、その決まりがあるのかということ。

20080708-01.jpg

観察し始めた時には、この蜘蛛は(蜘蛛から見て)右回りに巣を作っていました。
螺旋状に円網を作るわけですから、きっと最後まで右回りで作るだろう・・・・・・この蜘蛛は右回りの性質を持っているのだなと思いかけた瞬間・・・・・


20080708-02.jpg


この蜘蛛は突然左回りに向きを変え始めました。
(2枚の写真は同じ方向から撮影しています、念のため)
右回り、左回りっていうことは決まりが無く、きっと気まぐれなのでしょうね。
巣を完成させるまでに何度か回り方の向きが変わっておりました。



さて、右脳、左脳という性格判断がありますが、それに関して面白い実験があります。
まずは、下記のサイトにアクセスして、画面の女性がどちら向きに回転しているのかを見てください。


ProcreoFlashDesign
Flash Laboratory ■Silhouette Illusion


右回りに回転しているように見えますか?
それとも左回り?


THE Right Brain vs Left Brain test  によると、右回りに感じた人は右脳人間、左回りに感じた人は左脳人間だそうです。
右脳と左脳の機能は、そのサイトによると



LEFT BRAIN FUNCTIONS
uses logic
detail oriented
facts rule
words and language
present and past
math and science
can comprehend
knowing
acknowledges
order/pattern perception
knows object name
reality based
forms strategies
practical
safe

RIGHT BRAIN FUNCTIONS
uses feeling
"big picture" oriented
imagination rules
symbols and images
present and future
philosophy & religion
can "get it" (i.e. meaning)
believes
appreciates
spatial perception
knows object function
fantasy based
presents possibilities
impetuous
risk taking

だそうです。

けれども、その右脳だから右回転に見える、左脳だから左回転・・・ということに関しては異論があります。
おそらく、その異論のほうが信頼性がありそうですので、そちらもご紹介いたします。


この映像は 人の中心に視点を置いて作られ これを平面に投影すると、上げた足先の軌道は楕円を描き、楕円運動の下側に足先がきたとき、手前に見える。この状態で右回転。意識の中で、下の方から見上げる視線になると、楕円の下側にきた足先は、向こう側 従って、回転が逆になる。
この視点移動のキッカケが 何に起因するかが問題だが 影だけを見ると 経験的に上から見下ろすという意識により、左回転の方が優位になる。ところが、軸脚の影を見ると右回転にも見え ここだけを見ると、どちらにも見える。なぜ、軸足が逆回転に見えるか・・ 軸脚の楕円運動の径は小さく、平面に投影すると、水平回転つまり楕円運動には見えないからであろう。
左回転と認識すると、全体が左回転になり、ある瞬間、全体像の視線位置が人の中心と意識すると、右回転になる。どちらかが優位になると、片方の情報は排除され だまし絵?の一つで、1915年にルビンによって提唱された、『杯と横顔』の反転図形に似た脳の知覚システムに起因すると思われる。顔と認識すると杯が排除され、杯だと見ると顔が見えなくなるのに似た、脳の知覚システムの一つ。つまり脳は柔軟性ある対応が可能であるが、どちらかしか認識しない事によって 知覚に混乱を招く事態に対処しているようである。

【光と色と眼の雑学】(発行者 Okuda)より


みなさんはどのように感じられましたか?

 
 

さて、サツマノミダマシくんのつくりあげた蜘蛛の巣は、それはそれは見事なものでした。
 
工業製品は一つひとつの部品が厳密な品質管理により作り上げられています。
寸分狂いも無い部品を組み上げることにより、美しい製品が出来上がると、私たちは信じてきました。
工業製品として私たちがこのような巣を作るとしたら、きちんと隣との糸の間隔を測定し、正多角形に限りなく近づけるように努力するでしょう。
右巻きと左巻きの混在など、もってのほかです。不良品としてはじかれてしまいます。


けれども、このサツマノミダマシのように、自然の生き物の作り上げる「作品」は、おそらく、たくさんの「気まぐれ」により作り上げられています。
蜂の巣だってそうですね。厳密な正六角形ではなく、一つひとつの形は個性的です。
しかし、全体的に見ると調和の取れた美しい形となっています。
自然界のもつ「ゆらぎ」のもたらす美しさといってもいいでしょう。
私たちの固定概念は、儚く脆いものなのかもしれません。


■おすすめの本

ichiban.jpg

いちばん美しいクモの巣 (詩人が贈る絵本 II) (単行本)
アーシュラ・K. ル=グウィン (著), Ursula K. Le Guin (原著), James Brunsman (原著), 長田 弘 (翻訳), ジェイムズ ブランスマン

クモをきらう人はすくなくありません。けれども、きらわれ者のクモは、本当はとても愛すべき生き物。
これは、リーゼ・ウェブスターという名のかわいいクモのお話です。
リーゼの夢は、世界でいちばん美しいクモの巣をつくること。どうやったら、美しいクモの巣を編めるだろうか?
リーゼはいっしょうけんめい、クモの巣を編みつづけます。そうして、ある夏の朝、じぶんの編みあげたクモの巣を見つめて、リーゼはつぶやきます。

「これは、わたしのつくった、いちばん美しいクモの巣だわ」


■関連スレッド

ネジバナは右巻きか左巻きか

投稿者: kameno 日時: 11:58 PM | | コメント (0)

今年はちょっぴり特別な夏

新暦
旧暦
月齢
備考
7月1日
5月28日
27.3
半夏生
7月2日
5月29日
28.3
水星西方最大離角
7月3日
6月1日
0.0
●新月
7月4日
6月2日
1.0
 
7月5日
6月3日
2.0
 
7月6日
6月4日
3.0
月・土星・火星が並ぶ
7月7日
6月5日
4.0
小暑 七夕
7月8日
6月6日
5.0
 
7月9日
6月7日
6.0
 
7月10日
6月8日
7.0
上弦の月
7月11日
6月9日
8.0
火星と土星が大接近
7月12日
6月10日
9.0
 
7月13日
6月11日
10.0
7月盆
7月14日
6月12日
11.0
7月盆
7月15日