子供たちの死生観を考える(1)

仮想現実はVirtual Realityの和訳として、コンピュータの普及やネットワークの進展とともに近年盛んに用いられる用語です。
けれども、これは「狭義の」意味の仮想現実であるといえます。

ここでの「狭義の」仮想現実とは、コンピュータ上に人工的に構築した環境の中で、視覚や聴覚、触覚を通じて、空間を移動したり、状況の変化を体験したように感じることができるシステムにより作り出されるものをいいます。

それに対して、「広い意味での」仮想現実は、まさに、人間と有史以来密接に結びついてきた概念であるといえます。
ヴァーチャルな世界との関係は、決して近年になってようやく生まれたものではありません。古来から人々は仮面をかぶり、歌い、踊って、聖なる世界を作り出し、それを共有してきたこともその一例です。

さらに、文学や芸術などは、非日常体験を楽しむものであり、物語や作品の中に描かれている世界にのめり込むということは、心の中に仮想世界がイメージされ、その仮想世界で様々な体験をするということです。
この場合は、小説や絵画が人間の心の中に仮想世界を創りだすためのメディアとして働き、創られた仮想世界は、様々な感情を喚起する作用を及ぼします。
文学や芸術に触れたときに生じる仮想的な感覚は、ある意味では一時的な感覚変容によるものであり、それにより持続的な知覚・認識・思考様式の転換を派生させます。

このように、仮想現実はさまざまなメディアを通して作り出されるわけですが、根本的な感覚変容が、文字言語というメディアから、コンピュータメディアへと転換する際に、どのように私たちに影響を及ぼすのか。これはとても重要な研究課題といえるでしょう。


神戸で発生した小学生殺害事件を分析して「子どもたちは『たまごっち』の世界というか、命の通わないゲーム機を中心とした遊びの中で、感情や言葉をぶつけ合い他人の心の動きを感じとる機会をなくしてしまった。今の段階では個人の資質が犯行にどの程度影響したのかはわからないが、このようなヴァーチャル・リアリティー(仮想現実)文化がその背景にあったことは間違いない」 との評論(註1)が発表されました。

その半面、逆に「ヴァーチャル・リアリティー(仮想現実)の生き物で遊ぶ『ポケモン』や『たまごっち』などが、子供たちの目を現実の自然へ向けるのに一役買っている」 と長所を指摘するものもあり(註2)、成長過程の子供に与える影響については研究者により様々な意見があります。

これらを踏まえて、昨年発生した長崎県佐世保市の小6女児事件を受け、長崎県教育委員会が県内の小中学生を対象にした「生と死のイメージ」に関する意識調査を見てみましょう。


この調査結果は、新聞報道では次のように報道されました。

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児童生徒の15%が「死者は生き返る」・長崎県調査

 長崎県佐世保市の小6女児事件を受け、長崎県教育委員会は県内の小中学生を対象に「生と死のイメージ」に関する意識調査を実施。「死んだ人は生き返る」と思っている子供は全体の15.4%に上り、小学生よりも中学生の方がその割合が高かったとする調査結果を24日発表した。
 調査は、同事件の加害女児(12)の少年審判の決定が女児の特性について「自己の経験や共感に基づく『死のイメージ』が希薄」と位置付けたことを受けて実施。県内公立校の小学4年と6年、中学2年の計約3600人から回答を得た。
 「死んだ人が生き返ると思いますか」との問いに「はい」と回答した児童・生徒は小学4年14.7%、小学6年13.1%、中学2年18.5%で、中学生が最も高かった。
 その理由についてたずねると、約半数が「テレビや本で生き返る話を聞いたことがあるから」と答え、全体の29.2%が「テレビや映画で生き返るところを見たことがあるから」、7.2%が「ゲームでリセットできるから」と回答した。
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この報道は、明らかに人工の仮想現実感=悪影響という立場で、ある意味偏向されて報道されていると言えます。
↓のブログでそのあたりが分かりやすく書かれています。分析が面白いのでご紹介します。
http://u8.livedoor.biz/archives/13011933.html


ヴァーチャル・リアリティーの生き物がリセットして生き返るから、人間も同じ様に生き返ると思っている子供がいるとすれば、それはヴァーチャル・リアリティーの生き物が悪いのではなく、現実の人間や生物の生死から子供たちを隔離してしまった社会や家庭が悪いというのが私の考えです。
生命の尊さ、死別の悲しみを経験した子供は、きちんとした現実と仮想現実感との区別は出来るはずだと思います。

このことについては、追って考えてみることにします。


(註1)神戸小学生殺害事件『生死の境目見えぬ子ども』安斎育郎(1997/7/28)
(註2)『自然愛も育てます――ゲームが子ども変えた!?』(1998/1/24『朝日新聞』)

投稿者: kameno 日時: 2005年2月25日 00:57

コメント: 子供たちの死生観を考える(1)

kameno先生、ブログ拝読いたしました。
この問題は、小生も考察しているのですが、中々分析が進まずに、まだ放置したままです。

実は、小生は「一人称の死」について考察を進めているためで、なかなか経験を言葉に換えるという作業を実行できずに、これまで至っております。

それはさておき、子供達の死生観は、正直申し上げて希薄化していると思います。ですから、死も希薄、生も希薄で、今後どうなっていくのかな?と心配しております。
ここには、kameno先生が仰るとおり、教育環境が悪いと言わざるを得ません。

以前、ヴァーチャル・リアリティを扱った映画に押井守監督のアヴァロンがありましたが、なんだかあの世界は暗?い内容だったのが印象的でした。

投稿者 tenjin95 | 2005年2月25日 07:04

tenjin95さん、コメントありがとうございます。
現代社会は、生まれるのも病院の中。死を迎えるのも病院の中。それに立ち会うのはごく限られた人のみです。
このように、生死が日常から隔絶された中では、子供たちに命とはどういうものかを伝えていくことは難しいと思います。
死生観の希薄化の主因は、このような社会環境の変化であって、あくまでもヴァーチャルゲームとかテレビとかは、副次的な要因であると思います。
アヴァロンはまだ観ていないので、早速観てみます。

投稿者 kameno | 2005年2月25日 09:48

リンクさせていただきたいのですが・・

投稿者 ぽんのんの | 2010年3月17日 08:42

ぽんのんの様
リンクはどうぞお願い致します。
当記事中、「生と死のイメージ」に関する意識調査について、リンク先のURLが変更になっているようです。
下記から見ることが出来ますのでURLを記載いたします。
http://www.pref.nagasaki.jp/edu/gikai/contents/teirei/200501/isikityousa.pdf

投稿者 kameno | 2010年3月17日 09:35

はじめまして。
 私は農家の大家族で育ち、大人たちはいつも仏壇やお寺にお参りし、ご詠歌やお経を詠みました。その後ろに子供達はいました。私は宗教も思想も持ってませんが、自然と心の中に「来世」がイメージできるようになりました。
世の中に人間の及ばない不思議な事ってあって、曖昧だけれどあの世はあって、あの世へ行くときは、人生の一番良いときの姿になる。あの世の人は「見てござる、護ってござる、待ってござる」(お寺の掲示板より)で、また会いたければ、よく生きて、生き抜かないと「合わす顔がない」と思う。私の場合、祖母や母が「おお、よう来た、よう来た」と両手を広げて迎えてくれるはずです。またお参りする声(気持ち)はあの世の人に届くのだそうです。
 人は、死んでも、思い出の中に生き続ける限り、死んで終わったという事ではありません。いい思い出の中にいつでもいてほしいから、悲しい死に方はしてはいけないし、死んだ時に、時間は永遠に止まり、やり直しも言い直す事もできません。
 「バチあたりな事すんな、恨みさ残して死んじゃならね・・あの世へ行くときはみんな仏様になってゆくんじゃからの・・」という大婆達の声を思い出します。

 ポジティブな「来世論」をみんなで考えるのもいいかもしれませんね。家族親族で話し合い、思い出の中に生き続ける意味も。そして、イメージをお坊さんなど交え、映像化してみたり。
 ごめんなさい。長々書きました。
 。

投稿者 カツ | 2010年3月18日 14:14

カツ様
コメントありがとうございます。
彼岸の入りにふさわしい内容ですね。日本人の「宗教観」はこのように育まれてきなのでしょう。
お釈迦様は死後の世界、来世については敢えて言及しませんでした。死後の世界がどうであるか、いろいろと考えてみることは誰でも一度は試みる大切な作業でしょうね。曖昧も大いに結構です。
誰しもいつかは必ず迎える死ですが、それは自然の理(ことわり)であり、ごくあたりまえのことであり、悲しむべきことではない。限られた人生だからこそ、一日一日、一刻一刻を大切に過ごすということなのでしょう。
たった一度の、今の人生なのですから。


この故に当に知るべし 世は皆無常なり 会うものは必ず離るることあり 憂悩を懐くこと勿れ 世相是の如し・・・・『仏垂般涅槃略説教誡経』

投稿者 kameno | 2010年3月18日 14:49

友人は、死ぬという事は、「あの世へのお引っ越し」と言いました。「死んだら終わりではなく」大切だった人に「また会える」と思っています。その時に胸を張って会えるように・・と思っています。「バチあたりな事したら地獄さ落ちるぞ、行い良ければ極楽さいけるだ」と聞きながら育ちました。単純にそれでいいのではないでしょうか。 私は一応まじめに?生きてきたので、もちろん極楽へ行き母や大好きだった人達に会えると思っています。大雑把なマイ宗教ですね。
 続けての投稿失礼しました。

投稿者 カツ | 2010年3月18日 23:17

カツ様
>単純にそれでいいのではないでしょうか

はい、それでいいのだと思いますよ。

投稿者 kameno | 2010年3月19日 21:52

改めて投稿させてください
バーチャルリアリティの世界が軽薄な死生観に偏りすぎているという現状です。悪書に囲まれて育ったらそういう風に育つし、良書に囲まれたらそれなりになる事が多いのではないでしょうか。
 「蜘蛛の糸」「一炊の夢」などの宗教というか童話や諺、いろはがるたの意味、「四苦八苦」などの仏教用語の意味。それらの映像を作って流す、しかし、宗教はいろいろ誤解やトラブルの種となり、制約も大きいのではと思うので、「バチあたりな事したら・・」という「ババの話」として出来るだけ宗教の枠を外したかったのです。我が家の昔話などとして家族で死生観を意識した会話もいいと思いますが、思想調査、プライバシー問題、あとでからかわれる等のリスクも大きいのかな・・と考えたりします。
 心の滋養になる子供をワクワクさせる映像を、軽薄な映像より多く流せたらいいですね。

投稿者 カツ | 2010年3月21日 19:20

カツ様
カツさんのご家庭でもいろいろと考えられていらっしゃるようですが、やはり一番大きいのは家庭で両親から直接面と向かって伝えられる教えなのだと思います。
子どもたちは私たちが考えているよりずっとしっかりと捉えているように感じます。

投稿者 kameno | 2010年3月22日 16:15

私は一人で、不規則な時間の職場で3人の子を育てました。3番目は入退院を繰り返し、私は生き延びただけで育児を出来なかった気がします。子供たちの時間の3分の2は、テレビに育てれました。
「一緒にいる時間の長さもコミュニケーション」と言われましたが、さまざまに崩壊している家庭の多い中で、生きるという事、伝えたいもの、きっちり叱らなければならないものなど、否応なくテレビやゲームも大きい役割があると思います。根幹は親なのでしょうが・・

 幸い子供達も一人前の社会人になってくれて、本当に私はこの世あの世を問わず、いろいろな人から守られていると思います。

投稿者 カツ | 2010年3月23日 12:12

カツ様
子育ても一段落とのこと、お疲れ様でした。
現代の子どもたちは「画面」を見る時間が長いですね。
テレビ、ゲーム、そしてケイタイ・・・それぞれが子どもたちにどのような影響を与えているのかという研究も進められています。
良い面ももちろんあるでしょう。しかし、もし悪影響があるとすれば、親の果たさなければならない役割はその分大きくなるのかも知れません。
そのような中、昔からの「遊び」を伝承しようとする試みも行なわれています。このブログで紹介したMemoro(記憶の銀行)もそうですし、小さな子どもを持つ父母が地域に古くから住む方々から、どのような遊びをどの場所でしたのかというヒアリングもその一例です。
大切な活動だと思います。

投稿者 kameno | 2010年3月24日 00:16

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